44章 サウザンクロス
夜汽車は爛々と輝く燐光の川の岸を進む。
野原はまるで幻燈のよう、百も千もの大小様々の三角標、その上には赤い点々を打った測量旗も見え、野原の果てには一面集まり、青白く仄かに瞬いている。
狼煙のようなものが、代わる代わる綺麗な桔梗色の空に打ち上げられた。
川下の向こう岸に青く茂った大きな林が見え、その枝には熟して真っ赤に光る果実が実り、森の中からはオーケストラベルやジロフォンに混じって透き通るような音色が響く。
まるでそれは溶けるように、浸みるように、風につれて流れて来るのだった。
「宇宙は単なる星の住処で、それ以上でもそれ以下でもないと思っていたわ」
「でもこうして近づいて見てみれば、様々な生命で溢れている。風が吹き、林が茂り、川がせせらぎ、まるで桃源郷のようだ」
二人の心は浄化され、今は完全に浩然の気へ至る。
悲しいこと、辛いこと、そんな穢れを全て落とされたかのように、ただただプリズムのように光る世界へと心酔していく。
しかし――と、クロは僅かに表情を歪めた。
己は逃れられない、悲しい過去から逃げられないのだ。
その全てを清算するためこの場所へ来た、それは揺るがない事実。
永遠を望めば望むほど、失う時の痛みは増大するばかりだ。太陽に近づけば近づくほど、翼の蝋が溶けた時、落下する距離は増えるのだから。
それをクロに再確認させるかのように、銀河鉄道のすぐ傍をイカルスという小惑星が通過する。
その時、車掌が大きな声で「もうじきサウザンクロスです。降りる支度をして下さい」と言う。
その声を聞いたハルが首を傾げ、疑問をぶつけるかのようにクロの服を引っ張った。確かに天国という言葉は何度も出たが、サウザンクロスという言葉は初出だ。
「サウザンクロスってのは天国のことさ。つまりこの銀河鉄道の終着駅ってわけだ」
「あ、じゃあ私たちもここで降りなきゃならないわね。この銀河をまだ見ていたいって気持ちはあるけど、まあ、仕方ないか――」
サウザンクロスで降りるために、ハルは膝に抱えていたポーチを肩にかけ、名残惜しそうに立ち上がりかける。
「……」
しかしそんなハルの手首を、クロが強く握りしめる。
ハルがクロの顔を見る、クロはただただ真摯な顔で彼女の顔を見返した。
「く、クロ……?」
「…………」
――乗客たちが再び声を上げる、神に祈る声を車室内に響かせる。
どこかから聞こえてきた爽やかなラッパの音、子供が瓜に飛びついた時のような喜びの声。
しかしその中、クロとハルだけは声を出せず、ただお互いの目を見つめ合うことしかできない。
たくさんのシグナルや電燈の灯の中を汽車は行く。
海神の住む海のように蒼い光、蛍火みたいな柔らかいオレンジ色のアーク灯。
銀河鉄道の速度はだんだん緩やかになり、とうとう音も無く止まってしまった。
それと同時に、サウザンクロスの駅に立つ人たちが歓声を上げる。
耳を劈くような拍手の音、至る所から聞こえてくる口笛。
天国の駅についた乗客を迎えたのは、イーハトーヴでの見送りとは真逆の、晴れやかな笑顔だった。
誰もがにこやかに笑い、おかえりと囁くのだ。
乗客の誰かが目尻に涙を溜めた、出迎えてくれた人の中に、会うことを待ち望んだ想い人を見つけたのかもしれない。
乗客たちは荷物を抱えて立ち上がり、銀河鉄道の出口へ向かう。
乗客だけではない、車掌さえも、この銀河鉄道に乗る人のほとんどが駅に降り、天の川の渚に跪いて、そこに居る大切な人と再会を果たす。
その奥には――恐らく神と呼ばれる存在が立っている。
眇めた目で銀河鉄道を見て、そして、未だに降りようとはしないクロとハルを視界に入れた。
神は別に驚きもしない、ただ全てが予定調和であるかのように、楽園に降り立たない人間を眺めているだけ。
その唇が形を描く。
声は聞き取れない、しかし神が何を言っているのか唇の動きで理解する。
『良き旅を』
もう車室の中にクロたち以外の乗客はいない。
今の銀河鉄道にはこの二人しか存在しないのだ。
しかし鉄道を運転する者はいないはずなのに、銀河鉄道が揺れる。
まるでもう役目を終え、この終着駅を去ろうとしているように。
「く、クロ、降りなきゃ……」
「……」
でもクロは手を離さない。
首を横に振り、神の瞳を見返した。
言葉無く頷いて、クロが微笑を湛える。
そんな顔を見て神は思わず背を向けた。
クロの強がった笑顔をこれ以上見ていられないとでも言うように。
銀河鉄道の中に、硝子の呼子が鳴らされる。
次いで汽笛が高く響き、銀河鉄道が幾度と無く揺れ始めた。
腹の中に二人を入れたまま、前輪が前に傾いていく。
……そして汽車は動き出し、銀色の霧が川下から流れてきて、もう――何も見えなくなる。
ああ、とハルが深く息をする。
銀河鉄道は天国を通り過ぎ、再び星々の隙間を駆け巡り始めた。
もう天国へは戻れない、遠ざかっていく曙のような残光を眺めることしかできないのだ。
「……天国、降り損ねちゃったわね。これからどうするの?」
ハルが静かにそう訊くが、クロは目を伏せるばかり。
天井を見上げ、ハルは息を吐く。
確か自分の切符を受け取った時、車掌はこの切符ならどこまでも行けると言っていた。なら天国の先へ行っても許されるのかもしれない。
でもそこに何があるのだろう。この方図が無い銀河に、他の停留所があるのだろうか。
そしてそここそが、クロの求める安息の地なのだろうか。
分からない、けれども共に行くしかない。
大好きな人と居られるならば、例え、どんな地獄だって構わない。
そんな覚悟ならあるのだ。
クロの顔が玉兎の光に照らされる、そんな彼の横顔を見ていた。
クロの表情は沈み、重々しく、澱んでいる。
全ての罪が許されてこの場所にいるはずなのに、今更どうして憂いを見せるのだろう。
沈黙が続く。
星々から届いた虹色のプリズム光を浴びて尚、黒き身の銀河鉄道は色を変えない。
ただ窓から差し込んだ光が二人の色を変えていくばかりだ。
天国の残り香と温かさがハルの心に旅愁のようなものを与え、クロと同じように表情から色を欠落させる。
再び銀河を往く遊子たちは、八千代にも感じられる時を、憂いの中で過ごす。
やがてクロが口を開く。
零した言葉は弱々しく、泣き出す一歩手前のように感じられた。
「なあ、ハル。……約束、今、果たすよ」
「え?」
「三つの原稿を揃えた時、お前に記憶喪失の全てを話すって約束したよな。……だから、話すよ。あの日起こった真実を」




