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41章 旅立ちはいつだって物悲しくて

 そして二人は身支度を始めた。

 ハルはイーハトーヴを旅立つにあたって、必要なものを入れるためのポーチを用意する。


 中にはクロに買ってもらった音楽機器と、黒鐘家の財布、印鑑、通帳、アクセサリー。

 一方のクロは手ぶら状態、ハルのポーチに財布が入っているせいか、何も持っていく必要は無いと言わんばかりに両手を空にしている。


 ハルが「何か持って行きたい思い出の品くらいあるんじゃないの?」と訊くが、クロは首を横に振るばかり。

 あまり物に対して執着が無いのかもしれない、と思いながらハルは家の中を駆け回る。家を出る前に電化製品のコンセントを全て抜き、ボヤ騒ぎを防ごうとしているのだ。


 ガスの元栓を閉め、見られて困るものも処分する。

 この家から少しずつ、二人の作り上げてきた生活感が消えていく。

 人の住む家から、人の捨てた家へと遷移していく。


 二人でソファーに並んで視聴していたテレビも、スイッチを押せども黒い画面のままだ。

 ツマミを捻ってもコンロの火は付かず、冷気から身を守ってくれた暖房も、もう熱風で返事をしてくれない。


 彼らを蘇らせるには誰かの手でコンセントを入れるなりして、再び生命の息吹を吹き込まなければならない。

 しかしその役割を担う住人は、もう、消えてしまう。


 この家に住む電化製品たちを眠らせた後、ハルは大切なものを一つ思い出し、クロの部屋へと向かった。


 忘れてはならないものが一つある、二人で協力して作り上げた原稿を、この家へと置き去りにしてはならない。

 そう思って机の引き出しを開ける。


 しかしそこには何もない、ただ空白が澱んでいるだけ。

 強いて言えば開けた拍子に煤色の埃が舞っただけで、目当ての原稿は一欠片さえも残っていない。


 はて、クロはいつもここに原稿を入れていたよな、などと思いながらハルが首を捻っていると、外の牛乳箱を撤去していたクロがタイミングよく戻ってくる。


「あ、クロ、ここの原稿って……あれ、なにそれ」


「ん、これか」


 クロは片手にポラロイドカメラを持っていた。

 煤けた色をしているが壊れた形跡はなく、まだ本来の機能を失ってはいないだろう。


「せっかくだからな、この家の中を撮ってた。きっともう来ることは叶わないんだし」


 と言いながら、クロはこの部屋の写真を一枚撮る。

 するとカメラの下部からゆっくりと、家の内装を描いたシートフィルムが出てきた。


「クロも中々小洒落たことしてるのね……それで、ここにあった原稿はどこにやったの?」


「あれなら気にするな。俺たちが二人で作り上げた大切な手稿だ、ちゃんと持っていくさ」


 そう言うクロはカメラしか持っていない。どこかに原稿を隠し持っているわけでもなさそうだ。

 かといってハルが持っているのかと思えば、そのポーチの中には原稿なんて入っていない。


 何故クロがそう断言できるのかは定かではないが、まあクロがそう言っているんだから大丈夫だろうと楽観視して、ハルは玄関へと向かう。

 最後なんだから家を綺麗にしよう、なんていう思い付きで掃除をしていたせいで、あまり時間が残されていないのだ。


 昨日掃除をしたとはいえ、長年積もった汚れは一日程度では拭いきれなかった。

 でも、仕方ない。


「ああ、ちょっと待った」


 玄関から外に出ようとすると、クロがハルの肩に手を回した。

 突如顔の距離が近くなって、さすがのハルも腎臓が飛び出そうなほどびっくりする。


「ほら、笑え」


 と言いながら、クロは片手を伸ばした。

 その手にはカメラが握られている、レンズの向きは二人側、風景ではなく人物を目的とした撮影だ。


「ちょ、ちょっと……」


 突然の撮影にハルが何かを言おうとしたが、クロは構わずシャッターを押す。

 全く身構えてなかったハルは、なんともいつも通りな顔のまま。


 でもそれがクロにとって一番欲しかった顔だった。

 不自然さのない自然な彼女を、個の写真に収めておきたかった。

 彼はそんないつも通りの彼女を愛し続けていたのだから。


「ふ、不意打ちとは卑怯じゃないの……!」


「腕のいい写真家は日常の一瞬を切り抜くんだよ。構えられちゃ意味がない」


 なんて軽口を叩き、クロは現像された写真をハルに渡した。


「これ、お前のポーチに入れといてくれ。俺ほら、徒手空拳だから」


「むう、まるで散歩に行くみたいな身形で天国に向かうだなんて……」


 ブツブツと小言を言いながらもハルは従い、写真をしまいこむ。


 そしてクロはカメラを玄関に置き、最後にハルのほうへ振り返った。


「さて……もういいのか?」


「……うん。もう大丈夫」


 クロに対して頷いて、二人は靴を履く。

 そして扉を開け、最後に廊下のほうを振り返ってから、家を出た。


 そのまま歩いて門を出て、もう一度振り返って家を見る。

 黒鐘家は笑うこともなく泣くこともなく、ただ黙って二人を見送っていた。


「さよなら」


 そう言い残して、二人は歩いていく。

 冬の冷たさを身に浴びながら、示し合せたように手を繋いで、イーハトーヴの都へと向かう。


 舗装もされていない道をしばらく歩くと、やがて栄える駅周辺が視界に入ってくる。

 今日もイーハトーヴは、この地域だけが人でごった返していた。


 もう何度、和傘を持った女性とすれ違っただろう。何度嘶く馬の背を見ただろう。

 両手の指を使っても数え切れないほど、気付けば、自分はこの場所を歩いていた。


 その途中で知った店がいくつかある、例えばあそこの本屋は一日早く新刊を売り出すとか、あのファーストフード店は裏メニューがあるとか、あのスーパーは野菜が安いとか。

 当たり前のように蓄積させていった記憶は、いつの間にか、思い出に変貌している。


 古き倫敦風味の街を往く。

 文化も、人種も、全てがバラバラなこの世界。

 最初こそは戸惑ったけど、今なら全てがごっちゃ混ぜになっている意味がよく分かる。


 この世界は、きっと全ての境界線を消し去りたいのだ。

 人種の差別、宗教の軋轢、思想の齟齬。

 現世では人々を苦しめていたそんな問題を消し去り――例えばパン屋と服屋が共存するみたいに――相容れられそうにない二つを、寄り添わせたいのだ。


 イーハトーヴでは、決して寄り添えない二人でも手を取り合うことができる。

 きっと、そんな優しい世界。


「……あ」


 その時、『ブティック』と書かれた看板を掲げている店を視界に入れる。


 ここはかつて香が働いていた場所、服屋とパン屋が一体化した不思議なお店。

 ……しかし香がいなくなってパンを焼く者がいなくなったのだろう。店の真ん中に立っていた仕切りは消え、もう店の全てが服屋に侵食されていた。


 まだあの翌日なのに、パン屋であった頃の残滓は消え失せている。

 並べられている服も奇抜なものばかり、これもまた、ベーシックなものを作る香がいなくなったせいだ。この店は以前の形に戻っただけなのだろう。


 ただ一つだけ、ウィンドウのド真ん中には、香の作った服が展示されている。

 値札は無い、きっと売る気なんてないのだろう。

 ただ、香のいた証拠を、その痕跡を残しておきたいだけ。

 ……ただ、あの頃の日々を、無かったことにしたくないだけ。


 目が潤んで、ハルは己の目尻を拭った。

 クロはただ唇を真一文字にして、その店を見ている。

 数秒ほど立ち止まって見ていただろうか、やがてどちらからともなく歩き出す。


 まだまだ輝かしき思い出は数多い。

 発車時刻までに回りきれるか、それだけが懸念された。

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