40章 最終楽章
クロとハルがあれだけ距離感を縮めても、翌日の朝は何も変わらない。
いつも通り小鳥が鳴き、朝日は眩く、新聞だって定時に届く。
個人の世界がどれだけ動いても、世界には何の影響も無い。
その日、ハルは目覚まし時計より早く起き、クロに買ってもらった櫛で自分の髪を梳いていた。
鏡の中に映る自分の顔は晴れやかそのもの、何の憂いも無いような笑顔を浮かべている。
昨晩クロに不穏なこと――お前と別れずになどという言葉を言われたものの、その憂惧以上にあの演奏会の一件が嬉し過ぎるのだ。
告白もキスもできなかった、けれども額をくっ付け合い、お互いの想いを確認できた。
彼は自分の気持ちを受け止めてくれた。
それだけで蒸気機関車ばりのエネルギーが全身のありとあらゆる場所から噴出し、この身を焼くかの如く体が熱くなる。
思い出すだけで心臓どころか臓器全てが破裂しそうなくらいに。
珍しく鼻歌をハミングしながら、ハルが廊下を歩いていく。
洗面所で顔を洗い、ふかふかのタオルで顔を拭いて、日課の新聞回収へ向かう。
もう朝早くからお喋りする友はいない、しかし彼らによって与えられた早起きの習慣は抜けず、こうしていつも新聞を朝っぱらから回収しているのだ。
ハルは扉を開け、外に出る。
初めてこのイーハトーヴに来た時よりも、夜明けの時間は遅くなる一方だ。
ブルカ博士と会っていた頃は空が明るく白ずんでいたのに、この時期になると朝六時でもまだ薄暗い。
そして非常に肌寒い、防寒具がバッチリだというのに、凍えて体が震えてしまう。
しかし雪は降らない。
こんなに寒いのに、まだその白い軌跡を見ることは叶わない。
そう思った時、ハルはかつての誓いを思い出す。
――『雪の舞い散る中で、大好きな星冬に告白したい』。
そんな幼少の頃の他愛も無い夢だ。
でも丁度いいかもしれない。
もうすぐ雪が降るだろうが、それは今日ではない。恐らくもう数日を要するだろう。
それまでに告白の準備を整えて、今度こそ星冬に――クロに想いを伝えるのも中々良い趣向だ。
そうだ、それがいい。
一人で勝手に意気込んで、冷気の中を突き進んで郵便受けへと近づいていく。
郵便受けの中はこれまたいつも通り、新聞と講演会の手紙で一杯だ。
苦笑しながらまずは大きな新聞を取り出し、残った手紙を纏める。一応礼儀としてクロに渡してから、己の手でシュレッダーにかけてもらおう。
その時、ハルがはたと動きを止める。
講演会の催促状の間に二つ、どこかで見たことのある茶封筒が挟まっていたからだ。
表面には住所、そして名前。一つには黒鐘・アルビレオ、もう片方にはハルモニア・プリオシン。
新聞と催促状をその場に落として、ハルは封筒を抱えながら家の中へと走っていく。
靴を荒々しく脱ぎ捨て、クロの部屋をノック――というよりかは、もはや殴りつけるような勢いで叩きまくる。
そして中からの返事も待たずにドアを開けた。
いつもなら快眠しているクロだが今日は起きていて、窓から外の風景を見ているところだった。
突如賑やかに乱入してきたハルを見て、薄く笑いかける。
「よう、どうした。朝から大盛り上がりだな」
「これ、ほら、これ! これ! これ!」
これを見ろともこれは何とも言えずに、ハルはクロの顔に二通の手紙を押し付けるばかり。
クロは煩わしそうに封筒を受け取り、その表面をじろじろと眺める。
それはブルカ博士も香も持っていた、二人に送り付けられたものと全く同一だった。
「開けるぞ」
そう言いながらクロが二つの便箋を同時に開ける。
そしてひっくり返してみれば、封筒の中からはまるで桜が舞い散るかのように、二つの切符がひらひらと落ちていく。
切符を掌で受け止めて、クロはハルにも見えやすいように手を前に着き出した。
ブルカ博士と香の切符は灰色だった。曇天を示すかのような薄いグレー。
しかし二人の切符はどちらも灰色ではなく、しかも、両方とも別の色に染まっている。
クロの封筒から出てきた切符は黒色、ブラックホールを連想させるような深い漆黒で、綴られた文字は見やすいよう白いインクを使われている。
対するハルは緑色の切符――いや切符と言うよりかは紙切れと言ったほうが正しいだろう。それは葉書を四つ折りにしたくらいの大きさで、一見すれば単なる可燃ごみにしか見えない。
ハルがその紙切れを開いてみると、一面黒い唐草のような模様が刻まれていて、そこには意図の読めない十ばかりの文字が印刷されていた。
黙って見ていると何だかその中へ吸い込まれてしまうような気がするほど、その造形は神秘的なものであった。
……少しだけそれは、煉獄の者たちが所持している記憶の欠片に似ている。
この唐草模様がもっと複雑になれば記憶の欠片そのものに――いや逆だ、記憶の欠片が簡略化されると、この形に類似するかもしれない。
その時、あれ、とふと思う。
この紙に書かれた十の文字を組み合わせると、いつもクロが原稿の締めに書いていたサインに似てこないか、と。
このミミズがリオのカーニバルに参加したかのようなうねり具合からして、関連性があるのは明白だ。
しかしそんなことより、今はもっと別の疑問が生じている。
「どうして私たちの切符だけ、やたら色がおかしいの? ブルカ博士が旅立つ時に銀河ステーションで他人の切符を見たけど、みんな揃って鼠色、こんな色の切符なんて……ていうか私のこれって本当に切符なのかしら……」
「両方とも等しく切符だよ」
「ていうか私、記憶が無いけど罪が禊がれちゃって大丈夫なの? 自分の罪すら把握していない人間を更生扱いにするのは色々マズいんじゃあ……」
「切符が送られてきたってことはもう十分だってことなんだろう」
そう言いながらクロは切符を懐にしまい、慌ててハルもポッケに入れる。
そしてクロは部屋の中を緩やかに見回し、いつも使っていた執筆机を軽く撫でながら、囁くように呟いた。
「なんにせよ、これでもうイーハトーヴとはお別れ。……この家とも、さよならだ」
そう告げられた瞬間、その事実を知った刹那、ハルの胸が茨で包まれたかのように痛み出す。
決してこの家で過ごした時間は短くない、楽しかった思い出、悲しかった記憶、大好きな人との心覚え。
特筆すべきものではないが大好きな日常がここで流れ、一日の始まりも終わりも全てがこの場所だった。
実家さえ思い出せないハルには、この家が己の実家であるようにも感じられるほどだ。
しかし天国に家を運ぶわけにはいかない。
明くる日まで持って行けるのは、せいぜいポケットの中に入る小物と、輝かしき思い出の数々のみ。
今日、この家に、この世界に、別れを告げなければならない。
「……色々なことがあったな」
感傷に浸るような口調でクロがそう言う。
言葉も無く動作も無く、無言を貫き通すことによってハルは同調した。
煉獄での日々は、瞳を閉じれば昨日のことのように思い出せる。
初めてクロと出会い、取引を持ちかけられ、二人の日常がスタートした時のこと。
やがて友人も出来て、時には笑い、時にはぶつかり合い、時には別れを経験した。
そして今自分はここにいる、今まで歩んできた記憶の道を振り返る自分が、この場所に立っている。
「……ねえ、クロ。銀河鉄道の発車時刻まで、まだ時間があるのよね」
首肯するクロの顔を見上げ、ハルは言う。
「それまで、このイーハトーヴの街を見て回らない?」
「ああ、いいかもな。これでお別れなんだ、最後にこの世界を見て回るのも悪くない」




