39章 臆病者の恋物語
全てを弾き終えたクロは汗を拭い、その場で畏んでお辞儀をする。
ハルは思わずスタンディングオベーション、部屋内に一人分の拍手が掻き鳴らされる。
多くの曲を演奏したせいでクロは汗まみれ、彼はセロを丁重にケースへしまうと、己のベッドに身を投げ出すのだった。
「あー……疲れた」
「お疲れ様。すごく良かったわ、今まで聞いたどのコンサートのCDよりも。……私にとってはクロこそが、一番の音楽家なのかもしれないわね」
「褒め過ぎだよ、そりゃ」
「ううん、全然褒め過ぎなんかじゃないわ」
ハルが席を立ち、近くに掛けてあったタオルをクロに差し出す。受け取ったタオルで汗を拭いているクロを、その体を、顔を見下ろして、ハルは顔を綻ばせた。
クロも上半身を起こし、ハルを見つめ返す。
再び二人は見つめ合った。
しかし今度はそれでは終わらない、ハルは意を決したかのように、クロに顔を近づける。
ベッドの上に片手を乗せ、僅かに軋む音が聞こえた。
そのままクロに体を預け、腕を回し、抱きしめる。
「は、ハル……俺、今、汗かいてるから……」
「……いーよ、全然」
女の子特有の香りが漂い、クロの鼻腔を刺激する。
シャンプーの匂いとも、化粧の匂いとも少し違う、何が元なのか分からないけれども、昔から大好きな香りだ。
クロもハルの体に腕を回す。
ともすれば折れてしまいそうに華奢な体を優しく抱き寄せて、そして、ただ数度息を呑んだ。
自分の中で押さえつけていた感情が、一気にこみ上げてくる。
幼き頃から秘めたる思いが、言葉に姿を変えて届けられそうになる。
不安だった。
クロだってハルだって、同じ悩みを抱えていた。
まだ幼いあの日から共にいる二人は、相手の感情が読み取れなかったのだ。
どうして自分に親切にしてくれるのか、こんなに近くにいてくれるのか。
愛してくれているのか、それとも長い時間を共に過ごしたいとこだからか、その答えを得ることはできなかった。
好きと伝えて、答えを求めなければ、絶対に見つからない問いなのだから。
でも二人とも臆病で、相手に想いを伝えられなかった。
いつまでも恋愛には発展せず、お互いに意識し続けながら、寄り添っていることしかできなかったのだ。
そんなような、お互いの腹の底を探り合うような日々は、楽しかったけれども――辛かった。
今こそ、ハルはその想いを伝えようとした。
真正面から好きと言って、微妙な距離感を保っていた自分たちの間柄を、打ち破ってみせようと決意したのだ。
しかし言葉が出てこない、やはり今回だって、喉が意に反する。
「……俺たちは臆病者だな、ハル」
「……うん、そうだね」
たった一言が言えなくて、何年経っただろう?
普通の恋愛をしている人たちから見れば長すぎるほど、二人のもどかしさは続くばかりだ。
「クロ、男の子なんだから、……言ってよ」
「嫌だね。俺はいつも後手後手に回るタイプなんだ。いつも先制攻撃を仕掛けていたのはハルのほうだろ?」
思い返せばそうだった――しかしこんな時に、そんなセオリーに準ずる必要は無いじゃないか。
そんな長い言葉を言う代わりに、ハルは優しい表情で、
「ばか」
と、小さく呟いた。
そしてハルがクロの体を引き寄せて、もっと首から上を寄せていって、二人の顔は至近距離。
ハルの長い睫毛を一本一本数えられそうなくらいに、クロとの距離は近い。
ハルがなにかを小さく囁いた。
それはたった二文字の短い言葉。
それはあまりの小ささに聞こえない。
それを本人も分かっていたのだろう。
その言葉を行動に移そうとして――彼女が唇を真一文字に結んで、そしてなにかを求めるようにその瞳が揺れる。
最初に近づけたのは唇だった。
触れ合わんくらいに近づけられ、けれどもそこでハルは止まり、どうしようもなく恥ずかしそうな顔をしつつ、その代わりとばかりに――、
こつん、とクロの額に己の額をくっつけたのだった。
「クロ」
ハルが再びその名を呼んで、もっと強く額を押し付ける。
少しだけ汗ばんだ肌は柔らかく、まるで唇のように瑞々しくて、押し付けるという動作はまるで――。
「……ハル」
クロも額を押しつける。
触れあった箇所は燃えるように熱く、脈動のような血の流れが感じられ、……是が非でも離したくないという欲求に駆られた。
あともう少しだけ――何回そんなことを思っただろう。
そんな子供のワガママは通用せず、やがて、二人の額が離れる。
真っ赤な顔で見つめ合い、すると、どうしてか笑いが込み上げてくる。
笑って誤魔化さなければ、きっとおかしくなってしまうから。
そしてハルが一歩下がった。
後腐れは山ほどある、しかしいつまでもこうしているわけにはいかない。
時が経てば明日が来る、自分たちは新たな日を往かなければならない。
それに、これ以上ここにいれば、きっと欲求が抑えられなくなるから。
気になること、知りたいこと。
その全ては、明日でいい。
明日はきっと来るから。
「……じゃあ、そろそろおやすみだね」
名残惜しそうにハルが歩みを進める。
そして扉のノブに手をかけ、そこで一瞬止まり、
「おやすみ、……星冬」
そう、確かに名を呼んだ。
クロに何かを言われることを避けるために、ハルは素早く部屋を出て、自分の部屋まで駆けていく。
言ってやった、言ってやったぞと、真っ赤な顔でほくそ笑む。
一人部屋に残されたクロは、……もうバレていたのかと、密かに自嘲的な笑いを零す。
隠し通せていたと思っていた自分に忸怩たる思いだ。
でも、まあ、分かっていたならば話が早い。
「……おやすみ」
終わりを告げたコンサートの舞台に一人立ち、クロはそう囁くのだった。




