38章 君に送るプレゼント
……最後の物語は、昨晩に香が語った過去とよく似ていた。
海難事故で大切な人を失い、生き残った人は辛い思いをしている。
しかし命を懸けて助けてくれた人のことを想って、強く生き続けた。
それはまさに昨日ハルと香が話したことだ。
意図的なものか偶然的なものか、分からないまま綴り続け――全ては完結した。
ハルはシャープペンシルをその場に置き、席を立った。
そして今までハルが座っていた席にはクロが座り、使い慣れた筆ペンを手に取る。
クロの流儀として、最後に彼がサインを入れなければ、一本の作品として認定することはできない。
クロは筆ペンの先を原稿用紙に近づけ……しかし手を止める。
時が止まったかのように動かなくなり、そんな彼の様子を見て、ハルが顔を覗き込んだ。
「どうしたの、サイン入れないの?」
返事は無かった。
30ばかりの秒が過ぎ去り、全てが無に還ったかのような沈黙が部屋の中を包み込んで、ハルが不安げにクロの肩に手を添えた頃――ようやく、クロが口を開く。
「……もしこのままサインをしなければ、この物語を完成させなければ……お前と別れずに、永遠にこの世界にいられるのかな」
ハルが一人で息を呑む。
クロの横顔を見つめたまま彼女も動けなくなって、再び、長い静寂が世界を凍り付かせた。
それでも彼女は無我夢中、自分の口を閉ざすこの弱さに打ち勝ち、言葉を落とすのだ。
「な、……何言っているの、クロ」
しかし漏れ出た言葉はどうしようもなく震え、自分でも抑えることなんかできやしない。
「終わりなんかじゃないでしょ!? だって、クロは言ったじゃない、全部の事情を話せるその時まで、俺の傍にいてくれって! 例え物語を書き終えて、私たちの契約が終わったとしても、……私は、クロの傍にいるつもりだから!」
「……」
「それに、……クロが全てを語り終えたとしても、それで私たちの交わした誓いが全て果たされたとしても、私は、私は……!」
私はクロの傍にいたい。
だって貴方のことを愛しているから。
なんて言葉を容易く言えたら、どれだけ楽だったことか。
そんな言葉はどれだけ勇気を振り絞っても口から出ず、喉が詰まり、ただ咳き込んでしまうばかりだ。
初めての告白は想像以上の胆力を必要としていて、今のハルにはまだその気概が足りなくて。
クロはそんなハルの様子を見て自嘲する。
自分は何をバカなことを言っているんだとでも口にするように。
そしてハルの頭に手を乗せて、数度軽く撫でた。
「悪かったな、変なこと言っちまって。……どうかしてるんだ、俺。ちょっとばかしネイティブになっていたみたいでな」
ネガティブでしょ、なんて野暮なことをハルは言わなかった。雰囲気を好転させようとするクロの気安いジョークに上手い対応も出来ずに、撫でてくれたクロの手を握るだけ。不安な気持ちが拭えない。
クロは迷うことなく筆ペンを走らせ、己のサインを刻み付けた。
それが彼らのピリオド、この瞬間に、二人がイーハトーヴですべき事項は全て終わりを迎えたのだ。
後はただ、明日を迎えて機を待つのみ。
クロはいつもの素振りで肩を回した。
一仕事を終えた彼はいつもこうして肩を回し、あくびをしながら自室に行って眠りに就いていく。
しかし今日はハルに手を握られていて、この部屋から出ることが叶わない。
二人が数秒間見つめ合う。
先に根負けしたのはクロ、まるで子供に対して話しかけるような声でハルに問う。
「……見事三つの物語を完成させて、これでハルと俺の契約は終了ってわけだ。感慨深いだろ、俺も肩の荷が下りてすっかりウカレポンチになった。安堵のついでだ、完成を記念してハルの言うことを一つ叶えちゃおう。ああ勿論、ハルの過去を教えるっていう件とは別でな。特別サービスだ」
俺の出来うる範囲のコト言ってくれよな――なんて笑いかけるクロの顔を見上げ、ハルは少しだけ慌てふためいた。
突然願いを一つ叶えるだなんて言われても、不意を突いてそんなこと言われても、願いなんて――一つしか、浮かばないから。
私は貴方が好きです、だから、貴方の気持ちを聞かせて。
……なんてことを言ってみたい、彼からどんな返答が返って来るかを確かめたい。
でも言えない、ハルは弱虫、そんなことは自分だって重々理解している。
傷つくのが怖いだけの、単なる子供なのだ。
だから、咄嗟に別の願いを考える。
そういえばあるじゃないか、クロに頼もうと思っていて忘れていたものが。
「……クロの演奏を聴いてみたい」
まさかそんな願いが出てくるとは思わず、クロは目をしばたかせた。
それはとてもちっぽけな願い、しかしイーハトーヴを旅立つ前に叶えておきたかった望み。
驚いていたクロもすぐ表情を変え、にこやかに頷いた。
そしてハルの手を引いて、己の部屋を出て、クロの部屋へ向かう。
香によって清掃指導が入ったクロの部屋は片付いていて、演奏の妨げになるものは何も無い。
ハルを椅子に座らせ、クロはセロケースの中から立派なセロを取り出した。セロはまるで新品であるかのように光沢を放ち、クロがまめに手入れしていることを窺わせる。
ハルが一瞬窓の外を見た。そこから近隣の家は見えない。
黒鐘家は駅前から少し離れた辺鄙な場所に建っているから、隣人の家とは数十メートルほどの距離があるのだ。
どれだけセロを弾いても、糾弾されることは無いだろう。
「さあお嬢様、リクエストは?」
おどけながら、ふざけながら、クロはそんなことを問う。
ハルは一瞬考え込んでから「トロメライがいいわ」と口にした。
それはロマチック・シューマンが作曲した旋律で、かつてクロから聞かされて気に入った曲の一つだ。無論、彼女の音楽機器の中にも入っている。
クロは笑いを堪えるような表情を浮かべながら首肯し、幾度かセロを鳴らして音を確かめた。
調律がバッチリなことを確認して、そして、彼は弾奏し始める。
シューマンのトロメライ……ではなく、印度の虎狩りという曲を。
最初こそハルは面食らったが、そのあまりの曲調の違いについおかしくなってしまい、堪えることもなくお腹を抱えて笑いだした。それを見たクロも笑う。
一つの部屋に、二つの笑い声と一つの旋律が響いている。
その曲が終わると、クロは更に別の曲を弾き出した。
『愉快な馬車屋』、『コル・ニドライ』、『星めぐりの歌』、そしてハルの大好きな『トロメライ』。
聞いているハルは時に笑い、時に驚き、時に神妙な顔をし、時にはクロと一緒に歌へ添えられた詩を歌った。
まるでおもちゃ箱からたくさんの玩具が溢れて出てくるみたいに、クロの持つセロからは楽しくて優しい旋律がいくつも流れ出てくる。
それは二人っきりの演奏会、誰にも阻まれることのない、最高のコンサート。
いつまでもいつまでもメロディーが溢れ、部屋の中を満たしていく。
流れるようなアルペジオがハルの鼓膜を揺らし、その度に気分が高揚していった。
時計の針が動き続けていることも忘れ、まるでこれが永遠に続くように感じられ、……二人は、最後の時を過ごす。
もしも、こんな時間がずっと続いていけば。
そんなことを願いもするが、しかし人には疲労というものがある。
クロとていつまでも演奏ができる存在ではない、やがて演奏会もフィナーレを迎えるのだ。
最終楽章への入りは、いつだって寂しさを伴っていた。




