35章 小さな失恋
翌日、香は店の手伝いをするために早く黒鐘家を出なければならないようだった。
「一晩、本当にお世話になりました」
そう言いながら、香は丁重に頭を下げてみせた。
むしろ世話をしてもらったのはこちら側なので、ハルは恐縮しながらいえいえと返す。その隣ではクロが娘の上京を見送る父親みたいな顔をしているが、恐らく寂しいのだろう。
三人の姿は黒鐘家の前、丁度門の辺りにあった。
朝っぱらから帰ってしまう香を見送る為に、ハルたちも早起き(クロは布団叩きで文字通り叩き起こされたのだが)して、今こうして荷物を抱えた香を見届けているのだ。
「またヒマがあったら遊びに来てね、クロもほら、去勢された後の雄犬みたいな顔で寂しがっているし」
「ええ、機会があれば是非ともそうさせて頂きます」
名残惜しいが香は時間に追われる立場、もう自分の行き先に視線を向け、今にでも歩き出しそうな雰囲気だ。
ハルは己の懐に手を突っ込み、別れる前に一つプレゼントを渡そうと試みるが、その時、スクーターに乗った郵便屋が黒鐘家に到着する。
「ちわー、マルソ郵便屋です」
「ああ、もしかしてまた講演会の手紙かな。前々から申し上げたかったのだけど、はっきり言って迷惑千万なのでそちらのほうでシャットアウトするなんてことは……」
「いえいえ、黒鐘さん宛ての手紙は無いですね。えーっと、香・アンタレス様の書留が一通ですけど……本当に宛先はここでいいんですかね」
黒鐘家と大仰に彫られた表札を見て、郵便屋が不思議そうに問う。そして封筒をクロたちに見せてきた。
綴られた宛名はやはり香の名、しかしそこに記載されている住所は黒鐘家になっている。
もし香の家に届けたいのであれば、あのパン屋のほうへ送るはずなのに。
「あ、あの、私が香です」
慌てて香が郵便屋に近寄り、その封筒を受け取った。
彼女もまた内容を知らない手紙なのだろう、不可解な様子でその手紙の表面を眺め、太陽に透かしたりもしている。
仕事を終えた郵便屋が走り去っていってから、クロは香に対して「まあとりあえず開けてみたらどうだ?」と勧める。
香は傷つけることの無いよう慎重に封筒を開け、その中に入っている鼠色の切符を取り出した。
……それはブルカ博士の持っていたものと同じ、書いてあることも全く同一。
イーハトーヴ発、天国行きの乗車券だ。
誰もが言葉を失う中、ハルは何故手紙が黒鐘家に届いたのかを理解した。
神ならば香が黒鐘家に泊まっていたことくらい把握できていただろう、だから黒鐘家へ手紙を郵送したのだ。
「わ、……私の罪が禊がれた、ってことでいいんですよね」
まるでそれが偽物だと疑いかけるように、香は何度もその切符をひっくり返しながら注視する。
しかし複雑な烙印も、万年筆で綴られた香の名も、独特な形の封蝋も、全てが全て本物であることを証明していた。
何故今日突然罪が禊ぎ終わったのかは分からない。
黒鐘家の家事を手伝ったせいか、初めて誰かに過去を打ち明けて己の罪と向かい合ったからか、それとも別の何かに起因しているのか。
判別は付かないが、一つだけ確実に言えることは――本日、香は銀河ステーション発の銀河鉄道に乗って、天国へ旅立たなければならないということだ。
それを理解した彼女は悲しげに瞳を閉じて、諦めるかのように笑みを漏らした。
所詮イーハトーヴは仮初めの居住地、いつかこんな日が来ることなんて分かっていた。
ここにいる誰しもにその可能性があり、今日は自分に白羽の矢が立ったというだけの話。
受け入れなくてはならない、いつだって別れは突然だってことを、香は誰よりも知っているはずだから……。
「……お別れ、ですね」
小さな切符をポケットにしまいこんで、香はいつもみたいに眩く笑ってみせた。
さよならの瞬間に、悲しい顔なんて見せたくはないから。
その気持ちは二人も同じようだった。
香の意図を汲み、決別の瞬間は笑っていようと、精一杯の笑顔を浮かべる。
その顔はどこかぎこちなかったかもしれないが、香には十分だった。
「見送りに行くよ。発車時刻はブルカ博士の時と同じだろう?」
「いえ、いいんです。見送られたら――未練が残っちゃいそうですから。黒鐘さんとハルさんとは、ここでお別れです」
最愛の人と、そして最愛の友との別れは、人でごった返すプラットホームでなんか行いたくはない。
三人だけで別れの言葉を紡ぐ為、香は今ここで別れの決意をする。
「今まで、本当にお世話になりました。……いつかまた、天国でお会いしましょう」
「ええ、絶対……絶対に、また会いましょうね」
そう言いながら、ハルは懐より小さなヘアピンを取り出した。
ベースは市販のピンだが、そこに嵌め込まれた装飾品はハルお手製のもの。
「昨日昼寝する前に作ってみたの、香ちゃんへのお礼のために。もしよかったら持って行って」
「これを、私に……はい、ありがとうございます」
香がそのヘアピンを受け取り、今この場で自分の前髪に留めてみせた。
彼女に似合うようハルが試行錯誤したのだろう、香の雰囲気と絶妙にマッチしていて、彼女の魅力を数割増しにしている。
はにかみながら笑う彼女は、いつもより少しだけ、大人になったように見えた。
そして香は門を出て、二人に手を振った。
道を歩き出しながら、どこまでも暖かな笑顔で。
「それじゃあお二人とも、またいつか!」
「ええ、また、天国で!」
二人も香に手を振り返す。
そんな二人を見て、香は最後に小悪魔のような表情を浮かべ、長く長く自分の中で育った恋の感情を隠しながら言う。
「じゃあ、お二人とも、お幸せに!」
「なッ……」
クロもハルも、驚愕を露わにしながら、頬に朱を差し込ませる。
そんな二人を見てしてやったりという表情、声も出さずに笑いながら、香は一人でこの道を歩いていく。
もう振り返ることは無い、一人でも大丈夫なのだから。
(さよなら、愛しい人)
心の中でそう呟いて、意図せず目尻に溜まった涙を拭った。
一度拭った後は、もう過去の自分とは決別し終え、前向きな表情で進む。
孤独になっても現世で逞しく生きる弟のように、天国へ行ったら、自分も一人で生きてみよう。
そう誓い、香は澱みなく歩いていく。
肩で風を切りながら、どこまでも、どこまでも……。
そんな彼女の姿が見えなくなるまで、二人はその背を見送っていた。
いつまでも振り続けていた手を下ろし、切なげに息を吐きながら、ハルは呟く。
「……行っちゃったわね」
「ああ、あいつも天国へ行っちまったな」
「寂しい?」
「バカ野郎、如何なる人種より強靭な精神を持つ俺が、寂しがったりするわけないだろ」
とか言いつつ肩を震わせているじゃないの――なんて言おうとして、ハルは口を閉じた。
自分の肩だって震えているのだから、茶化している場合ではない。
迷いを断ち切るように、クロは新聞を回収してから家の中へと戻ろうとする。
最後にもう一度、香の歩いていった道を見てから、ハルもその後を追うのだった。
「ハル」
クロは振り返らずに、後方の女の名を呼んだ。
そして至って真剣な声で言う。
「今日も昼寝しとけ」
「え、なんで? 眠くないのに」
「夜までに、最後のプロットを仕上げる。……今日が一番の大仕事になるぞ」
念願の童話が全て完成するというのに、クロの表情は不穏。
悲しさ、寂しさ、侘しさ、切なさ、そんな負の感情だけが渦巻いている。
(……今日、全てを終わらせよう。いつまでもこの日々に執着しているわけにはいかない。……帰りを待ち続けるジョヴァンナのためにもな)




