34章 香・アンタレスの罪
黒鐘家にはベッドが二つしかない。
あれほど部屋があるのにおかしな話かと思うかもしれないが、クロがどうせ来客なんかないだろうとタカをくくっていたのか、余分な寝具が一つもないのだ。
故に香の寝床をどうするか、総員はしばし考えることとなった。
クロが床で寝る案、クロが外で寝る案、クロがトイレで寝る案。様々な案が浮上したが全て家主権限によって却下され、最終的には、ハルと香が同じベッドで寝るという案に帰結した。
お風呂に入り終えた二人は早速ベッドに潜り込み、暗い部屋の中でお喋りを続けている。
天蓋付きベッドが通常より大きいのが功を成し、一人用のベッドでも窮屈さを感じること無く横たわることができた。ここだけはクロを称賛すべき点である。
「ハルさんのベッドって大きいですね」
大きな枕に頭を預けながら、香がそう言った。
対面のハルも頷き、同調する。
「そうでしょう、使用している本人でも意味不明なほどに大きいのよ。……最初この家に来た時からあったのよね、コレ。こんな女の子趣味って感じのベッド、一人暮らしのクロは何のために使っていたんだか……」
「もしかしたら、黒鐘さんがハルさんのために用意していたベッドかもしれませんねー」
「いやあ……それはどうかしらね」
もしかしたらその予想は当たりかもしれない。
クロの正体は星冬、ハルとは現世より仲のいい間柄なのだから。
……しかし死んだハルが天国に行くか煉獄に行くか地獄に行くかなんて分かるわけがないのだから、その下準備が徒労に終わる可能性だってあるだろう。
確実にハルが煉獄行きになるという確証でもない限り、あそこまで豪勢なベッドを買う理由にはならない。
「まあ、そんな殊勝なことをクロがするとは思えないけど……」
ふと、ハルは意外なことを思い出す。
今まで長いこと香とは一緒にいるが、彼女の過去を尋ねたことは無かった。
死んだ理由をあまり人に詮索されたくはないだろうけど、そこをいつまでも不可侵領域にするのは、友人関係として何か違うと思うのだ。
だからこそハルは問う。
少しばかり踏み込み過ぎかもしれないという予感はあるが、敢えて彼女に訊く。
「そういえば、香ちゃんはどうして煉獄に? 罪があるようには見えないけれど……」
「……」
意外なことを訊かれた、という言葉の代わりに、香は数秒ほど押し黙った。
目線を逸らして、何かを思案するように握り拳を作り、そして意を決したかのように顔を上げる。
「……そうですね、そろそろお話してもいい頃かもしれません」
「あ、別に言いたくなかったら話さなくてもいいのよ? 私はホラ、記憶喪失で自分の過去を語れないから、香ちゃんのを聞く一方になっちゃうし」
「いえ、いいんです。……いつか誰かに語らなきゃ、って思っていましたし。きっと打ち明けなければ、自分は死んだ事実を受け入れられないままでしょうから」
それでも不安げな顔をするハルに笑いかけてから、香は瞳を閉じ――述懐する。
彼女の送った凄惨な過去を、本当の幸いの為に命を犠牲にした、その一抹の物語を。
「……夏のある日、家族で世界旅行に出たんです。お父さんが幼少の頃より世界一周を夢見ていたのだとかで、夏休みの期間を利用して――お父さんは有休をとって――七つの海に繰り出ました」
「その旅行の途中で……?」
「はい、事故が起こったんです。私たちが乗船していた船が氷山にぶつかって、バランスを制御できなくなりました。……船はもうすぐ沈没するから、乗客はすぐにボートへ乗り込んで下さい……そんな船長のアナウンスを、つい昨日のことのように思い出せます」
香の耳に聞こえてくるのは波の音。
さざ波の音はあんなにも穏やかだったのに、左舷を抉られた船はまるで暴風雨に遭ったかのように揺れ、少しずつ水底に引き摺り下ろされていく。
大量の海水が我先にと船内に浸水し、ゴボゴボと音を立てながら船が沈んでいった。そんなあの日の恐ろしき音。
「私たち乗客は船員の指示に従い、救命ボートに乗り込もうとしました。……しかしそこで一人の男性客が懐から刃物を取り出して、乗客全員を牽制したんです」
「……まさか、救命ボートを独占する為に?」
「ええ、ボートに乗っても何日間海の上を漂流するか分からない状況でしたから。人数がいればいるほど、ボートに積まれた数少ない食糧の消費量も増えていく。それを危惧したのでしょう、彼は自分以外の誰も、ボートに近づけさせようとはしませんでした」
「で、でも水夫も連れて行かなきゃ陸へ辿り着けないんじゃあ……」
「一応ボートには船外機が付いていましたから、周囲に漂流物さえなければ一人でも十分地上に帰ることはできたみたいです。……それでですね、その人を抑え込もうと、船員たちが一斉に飛びかかろうとしたんですが……男性はあろうことか、救命ボートの脆い部分に刃物の先を宛がったんです」
救命ボートが損傷すれば、陸に辿り着く可能性は限りなくゼロに近づく。
もし下手に男を刺激してそんな真似をされれば、乗客、及び船員全員の生存確率は無に同然と化してしまうのだ。
ボートを取り返さなくてはならない、しかしボートを傷つけさせてはならない。
生存する為には、その男が隙を見せた瞬間に飛びかかり、押さえつける必要がある。
「船員たちは手を出しあぐねていました。その間にも、男はボートに乗り込もうとしていきます。……ボートに乗りこまれ、逃げられれば、今度こそ本当に生きるすべを失う。……だから、私は、決意したんです」
香の唇が、あまりにも冷酷に、淡々と一つの言葉を紡ぐ。
見ているハルさえ戦慄するような表情で「……この人を、殺さなきゃ……って」と。
「私には一回り小さな弟がいました。姉として家族として、彼を生きて返してあげなきゃいけない義務があったんです。……そして私は男に飛びかかりました、こんな子供が牙を剥くなんて思いもよらなかったのでしょう、男は動揺し、一瞬動きを止めました」
……そして香は男の手を掴み、力いっぱい押した。
男の体が揺らぐ、バランスを崩して後ろに傾いていく。
香は男の服を死に物狂いの力で掴んで、そして、海の方向へ――。
「……その人は浮かんできませんでした。私が、私の手で、殺してしまったんです」
――それは正当防衛だろう。
自己、そして他己の命を守る為に行ったものなのだから、責められる所以は無い。刑法第三十七条にだって乗っている、罪も無ければ罰も無い。
「でもここで問題が発覚しました。救命ボートの幾つかが破損していて、安全性が確認されたものがたった一つしかなかったのです」
「たった一つだけ……!?」
「はい、僅かそれだけでした。船長の意向により、子供優先でボートに乗せられて……この時、私の両親は船に残らざるを得なかったのです。ボートに乗れたのはほとんどが子供、そして僅かな大人も、有事の際に対応ができる水夫ばかりでした」
……そしてボートは進みだす。
香の両親を船に置き去りにして、多くの子供の泣き声に包まれながら。
「でもそのボートにも欠点がありました、船外機が壊れていたのです。仕方なく水夫たちがオールで陸まで向かっていましたが、スピードが遅く、食料が無くなりかけ……私は自分から、水に飛び込んだのです」
一人でも減ればその分食料が確保でき、弟が生き延びる確率が上がる。
そんなか細い希望に賭け、香は深く暗い海の底へと沈んでいった。
両親の待つ深淵へ、人の手の届かない世界の奥底へ。
そして、香は命を失った。
「……そんなことがあったのね」
「ええ、それが全てのいきさつです。私が煉獄に堕ちたのは、死ぬ直前の殺人が原因でしょう。カルネアデスの板では無実ですが、神の視点からでは同族殺しは重罪――しかしそれによって多くの子供を救ったのもまた事実。折衷案を取り、この煉獄で禊がせようと思ったのでしょう」
多くの命の為に、一つの命を消し去るのは是か非か。
それは未だ神の中でも上手く定まっていない問題なのかもしれない。
人間より上位の存在でさえも決め兼ねるならば、そんなもの、人が正義か悪かを決めつけられるわけがない。
きっとこれは、誰にも答えが分からないものだ。
「弟さんは、どうなったのかしら」
「恐らく助かったと思います。ボートに乗っていた年長者たちは、私と同じように海に飛び込みましたから、食料も十分確保できたでしょうし……」
しかし弟が助かったはずなのに、その顔は不安げ。
大切な命を守れて尚、気がかりなものがあるというのか。
「でも、時々思うんです。弟を生かしておいたことは、間違いだったんじゃないかって」
「……っ」
そんなことはない、とハルは言おうとした。
人が生きることのどこに間違いがあるのか、そんなことを口走りかけたのだ。
でも香の表情を見て言葉を告げられなくなる。
「私たちには親戚がいませんでしたから、今頃弟は施設に預けられていると思います。家族を全員失って、無理矢理施設に入れられて、……弟は、きっと、寂しがっています。友達からも引き離され、住む場所を変えられ、見知らぬ土地で顔見知りもいなくて、なんで自分だけが生き残ってしまったんだろうって、もしかしたら……」
香の声が裏返る。
彼女の心の動きに合わせて言葉が加速していく。
「そんな思いをさせるくらいなら、いっそ家族全員であの時海の藻屑になっていればよかったんじゃないかって、そんなことを思って……怖くて、どうしようもなくて、私、私は……!」
頭を抱えて香が呻く。
震える指で己の髪の毛を掴んで、息を荒げて、愛する弟の幻覚をその瞳に映す。
弟は笑っているか泣いているか怒っているか、今の香にはその判別さえできない。
ただただ怖くて堪らなかったのだ。
自分の行った行為が正しかったのかどうか、余計なお世話だったのではないか。
自問自答を繰り返す、出口の無い迷宮で心を失っていく。
答えが見えない、得られない。
最初からそんなものありはしないのだから。
彼女の行いが正しいかどうかなんて、神でさえも分かりっこない。
答えは手に入れられない。
「……大丈夫だよ、香ちゃん」
ハルが香の体を抱きしめた。
強く強く、ここにいる自分が嘘なんかではないと刻み付けるように。
ここに私がいると、その温もりと鼓動で伝える。
人は答えを手に入れられない。
――だからこそ、人は信じるのだろう。
「永遠に解答が手に入らないなら、人は自分の出した答えを信じて生きていく他ないんだよ。自分の導き出した答えが正しいのだと決めつけ、それを糧に前へ進むしかないの」
信じることを臆してはならない。
自分の選んだ答えを胸に抱き続けるしかない。
「それでも不安が募るならば、こうやって、私が香ちゃんの答えを肯定するから」
もっと強く抱きしめて、自分の存在をよりその心に伝える。
きっと間違いなんかじゃなかった、香に助けられ、弟は有意義な人生を過ごしているはず。
あの日死んでいればよかっただなんて、間違っても思わないだろう。
そう、ハルも信じる。
「だからもう、二度と疑わないで。弟さんは絶対に、幸せに生きているから」
「…………はい」
ハルの体を抱きしめて、香はか細く返事をした。
例え大切な人を失っても、前へ進むことはできるのだ。
永遠に悲しみを背負い続けるかもしれない、しかし悲しみを背負っているから幸せになれないなんてことはない。
幼き日の死別を抱きながら、弟は幸せな人生を生きていくだろう。
そして天国でまた会えた時、その溢れんばかりに幸福な姿を香へ見せてくれるはずだ。
それが彼女に対する一番の恩返しなのだから。
きっと、そのはずだ。




