33章 分かってしまった終着点
「おっはー……ってあらまあ、これまた豪勢な」
太陽も水平線に落ち切った逢魔が時、起床したハルがリビングへと足を踏み入れてその光景を目にし、思いもよらぬ場面に一驚を露わにした。
おばちゃんみたいに片手を口に添え、テーブル上に並べられた数多の料理を端から端まで眺めていく。
クリームリゾット、野菜のたっぷり入ったミネストローネ、豚肉のロースト、デザートにはビスコッティ。
全ての料理がイタリアン、まるでこのリビングがトラットリアに変貌してしまったかのように錯覚してしまうほど。涎が体中の穴という穴から出てきかねないくらいの景観だ。
「あ、ハルさんおはようです。もうすぐ食事の支度が終わりますから、ちょっと待っていてくださいね」
と言うのはエプロン姿の香だ。長い髪をゴムで結わき、邪魔にならないよう馬の尻尾みたいに纏めている。
右手にはオタマ、左手には鍋つかみ。どこからどう見ても若(過ぎる)奥様だ。
私が男性だったら是非求婚していたな――とハルはブルカ的思考を巡らせる。
「掃除をこなしつつこれほど大量の食事を作れただなんて凄まじいわね……」
「掃除は黒鐘さんに手伝ってもらいましたからね。……まあ、代償としてあのようになってしまいましたが」
クロは部屋の隅っこで仰臥し、安らかな顔でピクリともしない。胸の前で両手を組んでいるその様は、まるで祈りを捧げるシスターだ。
不憫なものを見る目でしばらく眺めていたが、クロはおもむろに上半身を起こし、シットアップの要領で起き上がってみせる。
「ようハル……俺は今日、カカア天下の何たるかを香に教えられたよ……まさか俺に自分の部屋の掃除をさせてくるだなんて思わなかった……」
「香ちゃんグッジョブ!」
クロの部屋を何度掃除しようとしても拒絶され、部屋が原稿でまみれているからこそ意欲が上がるのだと嘘か真か分からない言い訳をされ、もし俺の部屋を掃除するなら男の子の持ち得る最大の力で反撃するぞとまで言われた経験のあるハルは、疾風怒濤の勢いで香に親指を立ててみせる。
今世紀最大の功績だ、大勲位菊花章を与えてもいいくらいに。
「さて、黒鐘さんも疲労で干からび始めた頃ですし、夕食を食べ始めちゃいましょうか。……ほら黒鐘さん、いつまでツタンカーメンみたいな顔しているんですか、ご飯ですよ!」
三人が食卓に着き、手を合わせてからいただきますと唱える。
いつもは二人っきりだった食事も、客人を迎えた今日は三人。黒鐘家の食卓はいつもより少しだけ賑やかだ。
「あら、このミネストローネ美味しい! 冬虫夏草が生えそうなほど萎れたクロが勢い付くほどに!」
「新鮮な素材の賜物ですよ。私なんてまだまだですから」
褒められて嬉しそうな顔をしながら、香はそんな風に謙遜している。
こんなにも美味しい料理が作れるのに彼女は衒うことがない。ハルならば良い料理が作れた時は、その食事中得意げな顔をしているものだが。
屍のような状態になっていたクロも舌鼓を打ち、香の料理を絶賛する。
「いやはやさすが、中学生とは思えない腕前だな。衣類が作れてパンが焼けて料理ができて掃除が完璧……香はいい奥さんになりそうだ」
「本当ですか!」
身を乗り出して香が叫ぶ。突如接近されたクロは「あ、あぁ」とたじろぎつつ視線を逸らし、動揺を隠すようにしてリゾットを一口食べる。
香の隣ではハルがムッとしたような表情になりながら、香の服の袖を引っ張るのだった。
「香ちゃん、お行儀」
「あ、はい、これはとんだ粗相を……」
思わず昂ってしまった香が静々と着席する。
ハルはクロに糾弾するようなねちっこい視線を向け、クロは何故かそれに対して今年度最大に下衆な笑みで返してみせた。香がいなければまたもや言い争いになっているところである。
「……って、こらクロ、何さり気無く苦手なモノを端に寄せてんの! せっかく香ちゃんが作ってくれたのに、何たる無礼な!」
「う、うるさい。別に食べたくないから避けているわけじゃないし、ただちょっと永久保管しようと思っただけだし」
「言い訳はいいから食べなさいな! クソハゲ!」
「端的に人を傷つける言葉を使うな!」
二人は香がいることも忘れ、いつものように言い争いをする。
性格壊滅女だとか毛根絶滅危惧種男だとか暴言が飛び交う食卓で、育ちのいい香は居づらそうに体を縮こませるばかり。
しかしそんな二人を見ていると、香は羨ましくなるのだ。
自分を包み隠さず明け透けにして……そんな喧嘩ができるほどの関係になっている二人が、眩しくて仕方ない。
今まで誰ともそんな諍いをしたことが無いし、これからもそんな相手ができるとは思えない。
もし仮に憧れのクロと付き合えたとして、自分はこんな喧嘩ができるだろうか?
……きっとできないだろう、嫌われるのが怖くて、本当の自分を知られるのが嫌で、言葉を全て呑み込んでしまうはずだ。
絶対に言い争いなんかできないだろう、どこまでも忌避するだろう。
音も無く、香は理解した。
憧れと好き、その言葉は似ているようで非なり、同一視してはいけないと。
憧れは好きの一歩手前。その憧れがいつか破れる覚悟を持たなければ、恋慕に昇華することはできない。
自分は綺麗なことばかり考えて、汚い一面を見ないようにしていたのではないか。
ただただ純粋で甘い恋愛劇ばかりを想像して、苦しむ自分なんか度外視していたのだろう。
そんな自分を、甘い見込みの自分を、誰が愛してくれようか。
何も考えずにできる恋愛なんて、中高生かそこらまでだろう。
それを越えればきっと、禍々しく醜くて汚くて、直視できないほどの痛みを伴うはず。
だから、まだ中学生の自分には、大人であるクロと恋愛することなんて……。
持っていたスプーンを下ろして、二人の喧嘩を眺めて、言葉になんか出さず、香はただ自分の胸の中だけで呟く。
限界だよね、と。




