32章 少女来たりなば、春遠からじ
「いや、『早く帰ってパンを食べたいのだ』じゃねえだろ!」
シュトレンを食べながらクロがそう叫ぶ。
その対面の席ではハルが眠そうな顔をしながらブランパンを咥え、何やら一人で盛り上がっているクロに対して不思議そうな顔をした。本気で頭が回っていない様子である。
ハルから香襲来についてのいきさつを説明されたクロは頭を抱えようとし、シュトレンの砂糖で手が大変なことになっていることに気づいて、自分ではなくハルの頭を両の手で掴んだ。
ハルの髪の毛に白砂糖がごっそり付いてしまうが、ハル本人は寝ぼけ眼でクロの顔を見返すばかりだった。
「いいかハル、中学生を家に連れ込んだと近隣の方々に誤解されたら、俺はもう表通りを歩けなくなる」
「えー……裏通りを歩けばいいじゃないの」
「くそッ、お前みたいな甘ちゃんには世間の厳しさが分からないんだ! この前道端で偶然出会った香と談笑していただけで、近所の奥様方が俺のほうを見てひそひそと内緒話していたってのに!」
ぴく、とハルの眉が吊り上がる。
勿論それは極僅か、真正面から向かい合っているクロでも気づけないくらいに。
「へ、へえ、そうなの。香ちゃんと楽しくお話を……」
「ああ! ジーザス、香が通い妻だとかいう噂が蔓延ったら俺の楽しい煉獄ライフも終焉を告げる、夜逃げに夜逃げを重ねなければ……」
「でもさあ、この家に私が来たことはもう皆知っているでしょ、挨拶回りとかしたし。だったら私と会うために香ちゃんが来訪した、って思うのが普通じゃない? ブルカ博士がいた頃は、たまに家の前で香ちゃんも含め三人でお喋りしていたし」
「む、なるほど」
ハルの言を聞いたクロは手を打つ。
確かにハルと香の仲良し加減は割と知れ渡っている情報だし、家にやってきた香をハルが快く迎え入れれば何とかなるかもしれない。盲点だった。
「じゃあ香の応対は頼んだぞ、『やあよく遊びに来たわね!』とか言いながら香を家の中に引きずり込むんだ。このクロさんをA級犯罪者に認定させたくなければな」
「あぇーい」
ハルがやる気の失せる返事をした瞬間、黒鐘家にインターホンが鳴り響く。
二人は同時に玄関の方角へ顔を向け、一瞬息を呑む。
「……あ、あれ、ハル、お前の話によれば、香は仕事が終わったら来る予定なんだよな」
「え、ええ、そのはずだけど……」
頭に付いた砂糖を叩き落としながら、ハルが玄関へと向かう。
クロもその後ろについていき、外から見えない程度の距離を保ちながら成り行きを見守り始めた。
ハルは後方のクロと一度視線を合わせてから、玄関の扉を開け放つ。
「ハルさん、どうも。約束通りお手伝いしに来ました、です」
パン屋での熱狂具合はどこへ行ったのか、来訪した香のテンションは平常だ。
いや、あの時から継続してはしゃぎまくられても困るからいいのだが。
「やあ香ちゃん、数時間ぶり。随分と早いわね、まだパン屋も絶賛開店中でしょう」
「本日はアルバイト権限で臨時休業にしました」
店長権限でもないのにそこまで効力があるのか、とたまげるハルを尻目に、香は玄関に上がり込んでもう靴を脱ぎ始めている。
その様子はいささか逸っている模様、初めて好きな人の家に呼ばれた女子中学生のようだ。……例えとしては率直過ぎるが。
「まあどうぞ上がって上がって」
もう既に香は上がり込んでいるのだが礼儀として一応そう言いつつ、ハルは先導して廊下を歩き始めた。
まずは何からやってもらおうか、そんなことを考えていると、廊下の先で仁王立ちをしているクロと目が合う。
「よく来てくれたな香、今日は一日よろしく頼むよ」
クロは外交モード、いつものおちゃらけた雰囲気をひた隠し、大人の真似ごとみたいな口調で香に話しかける。
一方の香は僅かに息を呑んだ後、廊下の隅っこへ視線を向けた。
「別に黒鐘さんの為に掃除するわけじゃないですよ、ハルさんとの約束ですもんで。……ていうか、元々私がここに来ることになったのは、昨日の黒鐘さんがハルさんを中々寝かせなかったせいですし」
「ンー申し訳ない」
何一つ申し訳なさの感じられない素振りで言い、クロは香をリビングへと招き入れる。そして来客中にも関わらず昼食の続きを食べ始めてしまう。
少しは自重しろよと言いたげにハルが睨むがノー反応、穿つような視線にもへこたれずに食い続ける。
ハルはこの不届き者を糾弾してやろうかと身構えたが眠いので止め、香に今日すべきことの説明をし始めた。
掃除用具の場所、掃除すべき場所、本日中に使い切らなくてはいけない食材、あとクロが掃除中ちょっかいを出してきた時の迎撃方法。
全てを聞き終えた香は頷き、陸軍式の敬礼で了解の意を示した。
「それじゃあよろしくね、香ちゃん。私は部屋で惰眠を少々取らせていただくから。……ちなみにクロはセルフサービスで使ってどうぞ」
「分かりました。クロさんは手となり足となり血となり肉となり、私の思うがままに使います」
未だ敬礼を続ける香に、ハルは海軍式の敬礼で返し、あくびを一つ落としながら自室へと向かっていった。
もう眠気はマックス、今すぐにでも意識が吹っ飛んで白目剥きながら気絶してもおかしくないのだ。
ハルが部屋を出て行った後、香は怪しい笑いを浮かべながらクロのほうに振り向き、一歩一歩近づいていく。
「さて、ハルさんから許可が下りましたので、クロさんには本日の家事をことごとく手伝ってもらいますからね」
「え、俺に拒否権は無いのか?」
「一般的拒否権も特別的拒否権もありません。さあ今日も楽しく労働しましょう、まずはそうですね……昼食で使った皿を洗いましょうか、放置しているのもなんですし」
「俺はまだ食事中なんだがな」
クロの言論はあれよこれよと封殺、一悶着あって、二人が流し台の前に並び立つ。
香の右手にはスポンジ、クロの右手にもスポンジ。
既に食器は水で注ぎ終えている為、後は洗剤をまぶしたスポンジで表面をこするだけなのだが、探せども洗剤液が見つからない。
「しまった……洗剤の場所を訊き忘れましたね。これは迂闊でした。黒鐘さん、洗剤がどこにあるか分かります?」
「いや、皆目分からない。一人暮らしの時には、ほとんど使わなかったとはいえスポンジの横に置いていたんだがな、ハルが移動させてしまった」
「……と、特に何も思わなかったんですか? 自分の家の物を、しかも洗剤なんて共用で使いそうな物を、勝手に位置変更されても! 私ならややこしくて堪らないですけど……」
「いや別に。ハルが主に家事を担っているからな、あいつの使いやすい場所に置くのが一番だ」
「……」
唖然、といった顔で香はクロの顔を見上げた。
もし自分ならば、今まで自分が保っていた制度などを勝手に変更された時、少なからず反感の意を芽生えさせるだろう。いざ自分が使うという時、中々見つからないと非常に困ってしまうから。
しかしクロの顔からは、そんな感情微塵も感じられない。
驚愕している香にも気づかず、クロは「ああ、そうだ」と言いながら手を打った。
そして床下収納庫を開き、その中から洗剤を取り出してみせる。
「一度俺が食用油と洗剤を間違えて使いそうになったからな、こうして目につきにくい場所に移動させたんだった。すっかり忘れていたよ」
クロは自分のスポンジに洗剤を馴染ませてから、香に洗剤の容器を渡す。
一瞬の間を置いてから、香は慌ててその容器を受け取った。
二人で皿を洗っていく。
その間無言を避ける為に香が周囲を見回し、話題の種になりそうなものを探す。
「……しかし、食器類がすごく整理されていますね。乾燥機の中に入っているお皿とかも綺麗に並べられていますし」
「ハルがいつも整頓しているからな。整理整頓されているおかげで、ほとんど厨房に入らない俺でもどこに何があるかすぐ分かるのだ。ありがたい限りだよ」
「……そうですか。……ところで黒鐘さんの好きな食事ってなんですか、今日は私が食事係ですからね、張り切って作っちゃいますよ!」
「俺の好きな食べ物? ……そうだな、一概に何が好きか問われると難しいが……強いて言えばミネストローネとかかな。幼い頃ハ……いとこの父親がよく作ってくれてな、今でもよくハルに作ってもらっているんだ」
「……なるほど、そうなんですか。それじゃあ後で一緒に材料を買いに――」
「いや、あるはずだ。俺の好物だからな、ハルが常に材料をストックしているらしい」
「……へえ、……なるほど……そうなんですか」
ハルが。
ハルが。
ハルが。
クロと話していると、いつも彼女の名前が会話中に出てくる。
どれだけ話題を逸らしても、まるでクロが意識して使っているように、『ハル』という言葉がくっついて離れないのだ。
香は顔を伏せて唇を噛む。
何の話題を振っても、ハルという言葉が出てくるような気がしてならない。
仲のいい友人の名前だけれども、今は、今だけは、その名前を聞きたくなかった。
泣きこそはしないが、じわりと目の奥が熱くなる。
彼と色々な話がしたいのに、ハル関連の話になってしまうのが怖くて、彼の口から出る言葉を聞くのが怖くて堪らない。
むしろ率直に問いたいくらいだ。
『あなたはハルさんのことが好きなの?』と。
無論、そんなことを訊く勇気など無いのだが。
香だけが微妙な空気を感じながら、クロには分からない心の揺れ動きを覚えながら、……どこかぎこちない時間が、過ぎる。




