31章 恋する少女の大攻勢
「……ははあ、ハルモニアさんの目元にくっきりとしたクマができているのは、そんな経緯があったからなんですか」
「そうなの……3時寝で6時起き……何なのかしら、早起きしているのに不健康な気がするのよ……」
今までの荒筋を語るハルは肩を竦め、不健康な色をした己の顔を手で覆う。
その真正面では香がレジスターを操作しながら、うんうんと同調するように頷いていた。
昨夜、クロとの契約に則って夜分遅く童話を書いていたのだ。
所要時間はたっぷり3~4時間。なんとかリテイク無く物語を完成させられたのはいいが、睡眠時間はかなり削られてしまった。朝から頭が痛いし眠気がすごい。
そんな一夜を越え、今現在、ハルは昼ご飯のパンを買いに来ている。
そこで香に昨夜どれだけキツかったかを語っている最中だ。
店の刻印が刻まれた袋の中にパンを入れつつ、香は気遣いながら苦笑した。彼女だってパンの仕込みやら何やらで朝早く起きているのに、ハルと違ってクマ一つできていない。
これが若さか、と齢16のハルは感慨深く目を細めるばかり。
「しかし3時間睡眠とは、お昼寝しないと何も手につかなくなっちゃいますよ。お昼ご飯を食べたら健やかに眠ったほうがいいんじゃないですか?」
「そうしたいのは山々なんだけど、如何せん昨日の雨や、一昨日の夜クロが一気に洗濯物を出した一件や、一昨々日の怠慢やらで洗濯物がもう夥しいほど溜まっているし、夕食も作らなきゃならないし、キッチン周りの掃除もしなきゃならないし、風呂も沸かさなきゃいけないし……」
クロに生活能力がほとんど無いせいで、家事のほとんどはハルがこなすハメになっている。
一応クロでも掃除くらいならできるが、掃除機と雑巾で綺麗にできる範囲しかやってくれず、家電の裏やアルミサッシの隙間まで完膚なきまでに清掃してくれるわけではない。
後々ハルが汚い部分を再チェックして掃除するのは二度手間なので、最初から一人でやったほうが楽というわけだ。
「あ……そうだ……原稿用紙を補充しないといけない……あと廊下の溝に溜まった埃を……ゴミの分別シールも貼って……本棚の整理も……うふ、うふふふふふふふ……」
「は、ハルさんが壊れた……」
あまりの過密スケジュールにとうとう精神をヤられてしまったハルは、さもしく笑いながら架空のちょうちょを追いかけ始めてしまう。
そんな憐れな姿を見た香は眉を顰め、深刻な顔つきになりながらハルの手にお釣りとレシートを握らせる。
そこで香は「ハ!」と声を上げた。
彼女の灰色脳細胞が今こそフル回転をし、今この瞬間が千載一遇のチャンスであることを気取る。この好機を逃す手は無い。
お釣りを渡した手を震わせ、香はそのままハルの手を強く握りしめた。
そして今世紀一番必死な形相でこんなことを言い出すのだ。
「じゃ、じゃあ私がハルさん家の家事するですよ!」
「……え?」
唐突なことを言われたハルは正気に戻り、香の言が何一つ理解できなかったというように首を揺らした。
狼狽するハルに対して容赦なく、スイッチの入ってしまった香は言葉をぶつけまくる。
「ハルさんがここまでダメージを受けているならば満足な家事ができないはず、それは危ないです、一家全焼の元です! その未来を変えるために、今私が、私こそが馳せ参ずる時! お任せあれ!」
ウルトラヒートアップする香。その勢いにたじろぎ圧されながらも、ハルはなんとか微笑を湛え、「いや、それは香ちゃんに悪いし……」とやんわりノーの姿勢。
しかしそんな及び腰での拒否は香に対してノーダメージ、むしろカウンターパンチをねじ込まれる。
「いやいや全然悪くありません、逆にホーリーなくらいです。不肖私、明日はただ今付で非番になりました故、予定が皆目ないんですよ。ハルさんがイエスと言ってくれないと私の明日が一日中引きこもりまくるなんていう中学生にあるまじきホリディになってしまいます。あな侘し」
「え、えー……」
「まあそう渋面を浮かべずに。いいですか、これはウィンウィンな取引なんです。私はヒマな休日を功労に費やせて、ハルさんはもう思う存分寝ることが可能! どうですか、どっちもニコニコなこの提案! お互いに何の不利益も被らない!」
ハルの脳内で一つの天秤が登場し、その皿に様々な条件が錘となって乗っかっていく。
片方には、ぐっすり眠れること、家事をしなくていい楽さ、人の料理を食べる楽しさ。
もう片方には、家事を任せてしまう申し訳なさ、それもよりによって中学生に押し付けるという厚かましさ、クロのことを好いているであろう女が家に来る危なさ……。
「うん、どう考えても眠いのやだわ! 是非是非我が家に来てください」
「Sure!」
女二人はスポーツマンシップにでも則っていそうなほど熱い握手を交わし合う。
「じゃあじゃあ、今日の仕事が終わったら早速そちらに向かいますので! ああどんな服着て行こう、出来うる限り利便性に長けながらかつ最大限オシャレな勝負服! ぐぬう、これは迷うですよ。パン屋なんかやっている場合じゃない!」
颯爽とエプロンを脱ぎ捨て、香は店の奥へと転がり入っていってしまう。
残されたハルは苦々しく笑い、「香ちゃんってあんな子だったかしら……」と些細な疑問を口にするのであった。好きな人の家に行けるとなればテンションが上がってしまうのは仕方ないことだろう。
まあいいや、と浮上した疑問を沈めて、ハルはパン屋を出て行った。
もう時間は昼下がり、早く帰ってパンを食べたいのだ。




