26章 慟哭と動揺
再び息を荒げながら繁華街を駆け巡る。
もしかしたらクロのほうが先に電車に乗って、自宅への帰路に着いているかもしれない。自分も自宅に戻ったほうがいいのかもしれない。
けれども今、こんな逸る気持ちでは、大人しく悠長に電車に乗れるわけがない。
無限大のように湧き出る探求のエネルギーを消費しなくては、落ち着いて座すことなんかできないのだ。
駆けて駆けて駆けて――そして、あのネオン街に戻ってくる。
空は少しずつ黒ずみ、開店の準備を始める店も多くなっていた。
雀荘やキャバクラの店先で並ぶ若者たちも多い。
先ほどハルに絡んできた若者たちもまだこの場所にいて、落書きされたシャッターの前でうんこ座りをしながら煙草をふかしている。
彼らに見つからないように隠れながら、クロがいないかを探していく。
いないか――と落胆しかけた時、目当ての人物が姿を現した。
道の向こうからクロがやって来て、そして、件のチンピラ二人の前で止まる。
座り込む二人を見下ろし、あらん限りの眼光で睨みを利かせた。
「あ? ……おォ、誰かと思ったらさっきブザマに遁走したニーチャンじゃねーの。なんだァ今更ノコノコと」
「オレラはオメーのツレにマタンキ蹴られてんだぜ。せっかく来たなら代わりに詫びろや」
「……ここで誓え」
二人の言葉を完全無視、クロは突然よく分からないことを言い出す。
眉を顰めながら、チンピラたちはゆっくりと立ち上がった。
「二度とハルに近づくな。……あいつはお前らみたいな落ちこぼれに構っていられるような奴じゃねえんだ」
「あァ? 何ごちゃごちゃ言ってンだ」
身長の高い男が先ほどと同じようにクロの肩を掴んだ。
その瞬間再びクロの表情が変わる。PTSDを発症したかのような痛々しい表情。
……しかし、彼は耐える。
もう逃げ出すわけにはいかない。
「とにかくだ! もうあいつを見かけても関わるんじゃねえ、分かったかてめぇら!」
獣畜のような表情でクロはそう叫ぶ。
周囲にいた若者たちは、何事だ何事だと不穏な気配を察して集まり出していた。
少しずつ事が大きくなっていくのを感じ取ったチンピラ二人は顔を見合わせ、退散したほうがいいと同時に把握する。
彼らとて単なる粋がった大学生、突如牙を剥き出したおかしな男に関わり、事態を荒げたくはないのだ。
「わぁったよ、近寄んなきゃいいんだろ! 誰が関わるかよ、あんなブス!」
捨て台詞を吐きながら、チンピラ二人は去っていく。イカレてんじゃねえよとか安っぽい言葉を残し、完全に姿を消してしまった。
残されたクロは、何かをやり遂げたかの如く息を吐く。
しかしその顔色は最悪、病人のように真っ青だった。
「……ッ」
突如、クロの表情が一変する。やべえとでも言いたげな顔をして、己の口に手を当てた。
そのまま裏路地まで一直線、遮二無二走っていく。
気取られないよう足音を殺しながら、ハルも彼の背を追った。
ゴミ箱の陰からクロの動向を窺う。
裏路地の真ん中で、クロは壁に手をつきながら喘いで、そして……嘔吐していた。せり上がってきたものをその場に落として、クロは何度も咳き込んだ。
その音を聞いているだけで胸が掻かれるような気持ちになる、耳を塞ぎそうにだってなった。
その様子は明らかに異常、普通ではない。
チンピラに肩を掴まれた時の表情だってそうだ、ただ応対した敵にビビっただけならば、あそこまで畏怖を感じるのは明らかに行き過ぎている。
……もしかしたら、クロにとってあの行為は心的外傷を誘発させるものなのかもしれない。
確証なんて一切ないけれども、そうでなくては説明がつかなかった。
今はただ、クロの正体を問いただしたいという気持ちも止み、……その身を案じることしかできない。
しかし出て行ったところで自分に何ができるのか、上手く彼と折り合いを付けられるのだろうか。
恐らく先ほどクロがチンピラたちに立ち向かったのも、先刻の禊ぎなのだろう。深い理由があるとはいえ、結果だけを見ればクロはハル一人を残して逃げたということになってしまうのだから。
だから再び舞い戻ってハルを救おうとしたが、そこにはチンピラ二人の姿しかなく、とりあえず二人に釘を刺した――そんなところだろう。
だからこそ、心の中には罪悪感が浮かぶ。
クロがどんな事情を抱えているのかも知らず、ビビって逃げ出したと勝手に思い、心の底から彼を責め立ててしまったのだから。
……状況だけを見ればそう思うのも仕方なかったのかもしれないが、あれだけクロに憎悪を向けてしまったことに対し、『仕方ない』で済ませられるとは思えない。
クロに向ける顔が無い、だから足が動かない。
今すぐにでもクロに駆け寄り、その背をさすってあげたいのに、一歩を踏み出すことも出来ない。ただただ隅っこから苦しむクロの姿を見ているだけだ。
恐らく顔向けできないのはクロも同じだろう。クロはハルに幻滅されたと思っているはずだ。
お互いがどうしようもなく膠着状態、悔悟の雁字搦めで堂々巡り。どこまでも自分たちは泥沼に嵌っている。
「……ッ」
その時、不意にクロがハルのほうを見た。
ハルが慌てて隠れ直すが無意味、視線が交差したのだから、存在が気取られないわけがない。
「ハル……なあ、ハル!」
クロが名を呼びながら近づいてくる。
何を言おうとしているのだろう、何をしようとしているのだろう。
クロだってどうしたらいいか分からないはずなのに、何故自分の名を呼ぶのだろう。
「や……ッ」
全ては無意識、ハルは踵を返して走り出す。
よたつきながらも裏路地を出て、ネオン街を走る。
振り返らなくてもクロが追ってくることが分かっていた、だからこそもっと早く逃げていく。
心臓が爆発しそうなくらい、足が縺れそうなくらい、全身全霊で。
どうして逃げてしまうのだろう。
腹を割って話すのが一番いい選択肢なのに、何を臆してしまうのだろう。……それは自分が弱虫だからか、面と向かって話し合うのが怖いからか。
そんな惨めな自分が嫌で嫌で堪らなかった。
「はぁ、はぁ、はぁッ……!」
どちらも全力とはいえ身体能力の差は確実にあり、クロのほうに軍配が上がっていた。
二人の距離は徐々に縮まり、もう後少しでクロがハルに追いつけそうなほどだ。
しかし駅へ近づくにつれ人の数は着実に増えていく。
人混みの中では身軽なハルのほうが満足に走れて、一方のクロは全力で疾駆することができない。
二人の速度はほぼ同じになった。
二人とも息が上がり、速度も二次曲線的に落ちていく。
最終的には二人、走ることも出来ずに歩くような速度まで落ちてしまった。
それでもハルは逃げ続け、クロは追い続ける。
……やがて駅前のクロスロードへと辿り着いた。
いつもはここで長い足止めをくらっているのだが、今日だけはハルに味方するように、信号機の色を青く染めている。
十字路を抜け、ハルが駅の階段に足を掛けた瞬間、踏切が警鐘を響かせた。
駅構内のアナウンスはただ無機質に、イーハトーヴ行きの鉄道が到着することを告げている。
ハルは階段を上り切り、財布に入っていた鉄道の回数券を駅員に見せながら改札口を通り抜ける。
一方のクロは小金しか持っておらず、切符を買うなんてプロセスを行い、無為に時間を食ってしまう。
彼は半ば殴りつけるようにボタンを押し、券売機から切符を吐き出させた。
クロが改札口を抜けた頃、もうそこにはハルの姿は無い。
ただ聞こえてくるのはイーハトーヴ行きの鉄道が発車するというアナウンスだけ。
「くそッ!」
苛立ちを隠しもせずにプラットホームへ駆け上がる。
歯を見せて唸りながら数段飛ばしで階段を上っていく。
間に合え、そう何度も自分の中で唱えながら。
「……ッ」
しかし、クロがホームに着いた頃にはもう鉄道は走り出していて、茫然とその背を眺めることしかできなかった。
タイミング的にハルは間に合い、乗車しただろう。
閑散としたホームの真ん中で一人立ち尽くす。
間に合わなかったのだ。
その後ろ髪さえ掴めなかったのだ。
家に帰れば会えるのだろうが、きっともう遅いだろう。自分の中にあるこの衝動がいつまでも続くとは思えない。
ハルに顔向けできないという気持ちを抑え込み、話すのが怖いという感情を力技で捻じ伏せ、今自分はハルと顔を合わせて話し合いたいと思っている。
だが時が経てばその衝動も薄まり――顔向けできなくて――話すのが怖くて――そんな情けない自分になってしまうだろう。
だからこの街にいる時だけが、唯一この問題を解決できるタイミングだったのだ。
タイミングを逃した今、……もう二度と、ハルとは心を通わせられない気がする。
上辺だけの関係になって終わってしまうだろう。
でも思い返せば、自分は最初からそれを望んでいたじゃないか。
ハルとは絶対深い仲にならない、そう心に決めていたじゃないか。
何を悲観することがある?
「……」
これで正しいはずなのに、どうしようもなく心が辛くなる。
だってその誓いは欺瞞だからだ。
本当は自分だって、ハルのことを……。
「……クロ」
突然名前を呼ばれて死ぬほど驚く、口から十二指腸が全てまろび出かねないくらいにまで驚愕する。
ハルは自販機の陰からクロのほうを窺っていた。
彼女もまたクロと同じように、居づらそうな風で視線を逸らしている。
「さっきの……さっきの鉄道に乗って帰ったんじゃなかったのか」
「……乗り損ねたのよ」
それは嘘だ。
ハルは一度鉄道のステップに足を掛けていた。
しかし考えを改めそっと退き、彼女も鉄道を陰から見送った。
理由はただ一つ、全くクロの行動原理と同じ。
今この時を逃せば、大切な何かを失ってしまう気がしたから。
駅のホームで二人が対峙する。
お互いに息を整えながら、ただ黙って相手と見つめ合う。
双方言葉が出てこない、ただただ時が流れる。
でもやがて意を決し、クロが一歩前へ踏み出しながら、ハルへ告げる。
「……ごめんな、ハル」
恐れを成しながらも意思を言葉にする。
言わなければ何も伝わらない、意思を疎通するために言葉があるのだ。
「お前を一人残して逃げてしまったこと、……本当に後悔しているし、済まなかったと思っている。別に許してくれとかそんなことは言わない、ただ謝りたいだけなんだ。……ごめん」
心からの謝罪を受けたハルは焦り出し、明らかにテンパりながら、それでも必死に言葉を返す。
「私だって! ……私だって、謝らなくちゃいけないわ。クロが逃げた時、……貴方の事情なんか考えず、恐れをなして逃げたのだと思って、貴方を心の中で責めていたもの。だから、……だから、……ごめんなさい」
再び、無言。
二人は目線を逸らしてただ黙り込む。
笑って流せられればいいと思った、いつものノリに戻れればいいと願った。
しかし変に意識してしまって、どうしようもなく臆病者になってしまう。
耐えかねて、静かに口を開いたのは、ハルだった。
「ねえ……クロにはどんな事情があるの? 踏み込み過ぎかもしれないけど、それだけがどうしても聞きたいの。……ダメかしら。いつもみたいに、秘密なの?」
小首を傾げて一つ問う。
疑問を投げかけられたクロは目を伏せ、小さくこう返す。
「……言うよ、絶対。そう遠くない未来に」
そこで一瞬間を置いて、まるで、告白するかのように緊張しながら、
「だから、全部の事情を話せるその日が来るまで。……今までみたいに、俺の傍にいてくれないか」
――そう、告げる。
今はまだ話せない、哀しい話はしたくない。
……ハルと別れるその瞬間まで、陰惨な過去は封じ込めておきたい。
きっとその話を聞けば、少なからず関係性が変化してしまうから。
それを理解したのか、ハルは強く頷いた。
「うん、……待ってる。いつか話してくれるその日まで、クロの隣で、ずっと」
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後半は本日18時頃に投稿いたします(最終話まで更新予定です)。




