25章 トラウマ
……二人はしばらくの間、行くアテもなくただ歩いていた。
人通りの多い大通りを抜け、マニアックな店が並ぶ奥地を通過、駅から離れるにつれ住宅地がちらほら見えるようになり、人通りも少なくなっていく。
駅から数キロ離れれば、そこはもう閑静な住宅街、そこから横に逸れれば、日中はシャッターの閉まり切った夜の街。
夜になればネオンが煌めき、綺麗な女性と戯れるお店が繁盛するが、日が落ちない時間帯はまるで死んだように人気が無い。
「……ちょっと道を間違えたようだな」
「この辺りは特に見る場所ないわね」
うっかり迷い込んでしまった二人は、揃って踵を返し、駅の方面に向かって歩き出す。
……先ほどまで非常に賑わう場所にいたせいか、この静粛な場所では雨音が強く聞こえ、少しだけ不安が込み上がる。
こんなに雨が強くなっていたのかと今更知り、そろそろ家に帰ったほうがいいんじゃないか――なんて提案を口にしようとした。
その時、クロたちの前に二人の男が立ちはだかった。
片方はアメリカナイズされたガングロでノッポな男、もう片方はチビで筋肉質、二人とも外国のバスケチームのキャップを斜めに被っている。
第一印象はチンピラ――というよりかは、粋がった大学生のようだ。
「よォ、ネーちゃん! こんな雨の日にデートか?」
タッパのあるほうの男が、ハルに向かって気安くそう話しかける。
ハルは無意識にクロが着ているシャツの裾を掴みながら、なんとも言えない表情で頷くばかり。
クロやブルカ博士相手にはあまり遠慮がなかったが、元よりハルは人見知りしやすい子、臆さないわけがない。
「だったらオレラも混ぜてや! 俺たちゃ独り身、女とグイグイ呑みがしてぇ身分!」
チビな男がパンクな感じで頭を振りながらそう言う。
本人的にはロックな行動なのだろうが、傍から見ているとただの酩酊者にしか見えない。
ハルが困ったようにクロの顔を見上げる。
だが一方のクロも困惑したような面持ちだ。
暴力沙汰になれば即地獄に叩き落されるから、恐らく殴打などの肉体的攻撃は無いだろうけど――暴力が無くとも面倒臭い。長時間絡まれて辟易するだけだ。
「……ああもう、七面倒臭い!」
クロが一歩前に出る。
真正面から粋がる大学生に向かい合い、精一杯の形相で睨みつけた。
尤も効果はいま一つ、チビ男がそれを見て軽く噴き出し、さも愉快そうにこう言い捨てる。
「おォ、なんだいニーチャン。お姫を守護するナイトのつもりか?」
「あのな、お前ら、ナンパがしたいなら他のヤツを――」
「あァ? なァーに言ってんすか、別に俺らァ一緒に遊びてえッつっただけでよォ、下心とかは別にねぇんすけど」
縦に長い男がクロの肩を掴む。
痛めつけるためではない、ただ威圧感を与えるためだ。
実際暴力沙汰には発展しないので、どれだけ威圧感を与えられようがふてぶてしく応対していればいい――そのはずだった。
しかし肩を掴まれたクロの顔は一変、その手から傘を取り落とし、瞳孔の開いた目で粋がり二人組を――いや、別の何かを見ている。
彼の視界を覆っているのはかつての光景――。
『止めろ、行くな! 行けばお前も……!』
傘を持った男に肩を掴まれていた。
強く握られ骨が軋む、何人もの人に体のどこかを掴まれる。
前へ進めない、この先に行かなくちゃならないのに、見殺しになんかしていられないのに。
『うるせえ、……くそッ、放しやがれッ!』
……この先に行かなくてはならないのだ。
彼を救わなければ、この命に代えても助けなければ。
もうジョヴァンナを悲しませたくないから、泣かせたくないから。
彼が力尽きてしまう前に、自分がやらなくてはならないのだ……。
そして、……競り勝つ。
制止を振り切って自分は奥地へと駆けだす。
背後から聞こえる声、前方から響く轟音。
足は震え、歯は噛み合わないが、この先に行くしかない。
立ち止まることなく闇の先へ、悲鳴の飛び交うこの世の地獄へ。
ただ一人、助けなければならない男に向かって、嘔吐感を堪えながら。
世界が闇に染まってしまったとしても、天と地が逆転しても、この手を伸ばしてその手を掴む。
引き上げる、しかし足場が悪すぎる。
そう、この時。
彼を助けるために、自分は死んだ。
リアル過ぎる死の一瞬が全身を駆け巡る、点滅する白と黒の視界で、サブリミナルのようにフラッシュバックしていく。
痛み、苦しみ、胃の奥底から血反吐が込み上がり、今にでも吐き出したくなって――。
「――――――――ッ!」
クロは我武者羅に、錯乱したかのように男の手を振り払った。
そして制御できない力で二人を押し退け、その合間を縫ってどこかへ走り出す。
ハルのことなんか振り返りもしない、……振り返ることができない。
今の彼の精神は生前のあの日、命日に還っているのだから。
そして、……クロの姿が見えなくなり、ネオン街には三人が残された。
しばらくは三人も、突然奇行に走ったクロをただ呆然と見ていたが、真っ先に我に返った男の一人がハルの方を向く。
そこでようやくハルは自分の現状を思い出した。
思い出して、……そしてただただ悲しくて、腹が立っていた。
「オゥ、ネーチャン、彼氏クンはビビって遁走したぜ。だから代わりにオレラと遊ぼうぜェ。カレシを忘れてオレラとダーツにでも行こうじゃねえの!」
「……うるっさいなぁ」
地獄から響いてきたかのような低い声は、ハルの喉から発せられていた。
そして地獄の閻魔でさえも腰を抜かしそうな形相で二人を睨み、それぞれにノーモーションの金的をブチ込む。
あまりにも鮮やかな手つき――いや蹴り上げたから足つきか、ともかくチンピラは避けることもできず、その場に膝から崩れ落ちた。
「は、はァ……?」
今まで怯えていた女がいきなり豹変したことで、もう片方のチンピラは驚愕を露わにする他ない。
何が行ったかも分からずに、ただ蹲る相方とハルの顔を見比べるばかりだ。
そんな彼にハルは歩み寄り、その体を力一杯突き飛ばす。
「うぉっ……!」
不意の一撃にバランスを崩し、ノッポのチンピラはその場に倒れ込む。
その隙を突いて、ハルは踵を返し、その場から全速力で走り去る。
既にチンピラ風情のことなんか頭にはない、あんな蛆虫のことなんか気にする必要もない。
あの金的暴力は正当防衛だ、地獄に落とせるものなら落としてみろ。
薄汚れた裏路地を駆け、開けた公道を走り抜ける。
一歩一歩の重量はとんでもなく、一歩を踏み出すたびにバン! と凄まじい音が響いた。
足の裏が痛むが気にしない、気にならない。それくらいムカついているのだ。
チンピラ風情に肩を掴まれただけでビビって逃げたクロに対して、呆れや悲しみを通り越して立腹する他ない。
なんであんな男とずっと一緒にいたいなんて思ってしまったんだろう、そんなことばかり思っている。
自分が恥ずかしくて情けない。
別にあのチンピラと殴り合って打ち勝てと言いたいわけじゃない、二対一だから劣勢だし、そもそも殴り合いができる世界ではない。
ただクロに庇ってもらいたかっただけなのだ。
クロが勇敢に二人に立ち向かって、ハルの身を守ってくれるだけで良かった。
……いや、別にそんな男らしい姿じゃなくてもいい。
平謝りしてその場をやり過ごしていてもよかった、それは一見情けない臆病者に見えるかもしれないが、実は一番穏便でハルのことを考えた策だからだ。
情けない姿でも、ハルの身を案じてくれていればそれで満足だった。
だが結果としてクロは逃げ出した。
ハルのことを放置して一人だけ助かろうとしたのだ。
これに幻滅しない女がどれだけいようか、女性総員が見損なうに決まっている。
自分だって例外ではない。
女を放置して逃げる男なんて最低じゃないか。
許されることではない。
「クロの……クロの、バカ……バッカ野郎!」
涙が瞳から零れる代わりに、暴言が口から発された。
すれ違う人たちが何事かとハルを見やる、しかしハルはお構いなしに走りながら、何度も何度も、バカと叫び続ける。
……クロが死の瞬間を思い出し、錯乱状態に陥ったことなど、ハルには知る由もない。
歯噛みをしながら涙を堪え、後悔をし続けることしかできなかった。
幻滅という言葉がこれほど似合う状況も無い、なんてことを密かに思っていた。
走って走って、走り続けて。
やがて息が上がって立ち止まってしまっても、腹の底で煮えたぎる感情は増幅する一方で。
店先のウィンドウに背を預けながら、ハルは荒い息を繰り返すばかりだった。
汗と雨のせいで額に貼り付いた前髪をどかし、そのまま右手で自分の額を押さえ、畜生みたいな唸り声を上げる。
自分でも驚くほど長時間無酸素運動をしていたらしく、足は震えて咳が止まらない。
しばらくその場でマッドネスにえづき、息を整えようと必死に胸を押さえた。
それに集中していたせいか、少しずつ頭の中がクリアになり、冷静さを多少なりとも取り戻す。
「……バカ……」
低く呟いて、ハルは再び歩き出す。
もう今度は走らない、疲れ切ったサラリーマンのような歩調で前に進む。
帰ってしまおう、楽しい時間は終わったのだ。
できればクロと顔を合わせないことを祈りつつ、こんなところから逃げ出そう。
雨だってほら、さっきから強くなっている。
着実に前へ進んではいるが、その足取りは泥土の地帯を歩いているかの如く重い。
ゆっくりと繁華街へ戻って来て、道行く人に注意を払うことすらせずに、駅の方面へ向かう。
激昂の後はひたすらに寂しく、聳え立ったビルがより一層大きく見えた。
そしてハルは駅前のクロスロードに辿り着き、歩行者用信号機が変わるのを通行人たちと待った。
目の前を通り過ぎていく多くの乗用車を、意識せずに眺めていくばかり。
そんな時、頭上から人の声が聞こえた。
ビルに埋め込まれた電光掲示板にはお昼のワイドショーが映っていて、今丁度CMに差し掛かったところなのだろう。モデルの女性が作り笑顔を浮かべながら商品を手に持っている。
それはカラー剤のCMだった。
ベージュ系、アッシュ系、ブラウン系など、様々な色に髪を染めた女性が並んでいる。
キャッチフレーズは『新たな貴方に変身しよう』。
「…………」
その言葉を聞いた時、ハルの中で電撃のようなインパクトが発生した。
目の前がスパークし、脳の海馬が疼き出す。
そして白色霧にぼやけた映像を、ハルの網膜に刻み込む。
『どーだ、新たなるこの俺は! 今までと違って男らしいフェロモンがムンムンだろう、艶めいた俺によからぬ興奮を覚えるがいい!』
……星冬は高校に上がり、少しずつ自分を気にするようになっていった。
一人称が僕から俺になったし、両親に対して反抗的な態度を取ることもあったし、髪形も大きく変わった。
そして彼はその頃、真っ黒だった髪の毛を鮮やかな茶色に染め上げたのだ。
自分はその変貌ぶりに驚き、前のほうが良いと言った。
しかし星冬は断固として譲らず、そのスタンスを貫き通し続けた。
性格の根っこは変わっちゃいないが、見て呉れは子供時代から抜け出し、まるでハジけた大学生のようになっていく。
その変化が寂しかったことを、今でも自分は覚えている……。
「…………クロ?」
そう、そっくり――いや、全く同じなのだ。
その髪の色も、髪形も。
口調だってほら、全てが全てクロと同じだ。
同じだ、同じなんだ。
今ようやく思い出せた、星冬の顔を思い出した。
何もかもがクロと一緒、似ている別人と誤魔化すことが出来ないほど、二人の造形は同一過ぎる。
「……クロが、星冬?」
赤面していた信号機が青ざめて、歩行者たちが横断歩道を渡っていく。
その中でハルだけが立ちつくして唖然状態、彼女の時だけが止まっているかのように。
ああ、そうか。
だからクロの家に立ち入った時、懐かしい匂いだと思ったのか。
生前から知っていたから、深く関わっていた星冬の家の匂いだから。
そこで気づくべきだったのかもしれない、匂いに慣れる前に、そのタイミングで星冬のことを思い出すべきだったのかもしれない。
ハルはぐっと唇を噛み――人々の間を縫って逆走した。
駅に背を向け、再び繁華街へと舞い戻る。
まだここから帰るわけにはいかない、逃げるわけにはいかない。
本人に会って確かめる必要がある。
星冬の正体がクロならば、色々と問いただしたいことがあるからだ。
何故星冬の話題を出すと不機嫌になったのか、現世であんなに仲が良かったのに、どうして自分が星冬なのだと言ってくれなかったのか。
だが心のどこかで、星冬とクロが別人であるように願っている。
……肩を掴まれただけで逃げてしまう臆病者が、自分の慕い人だと認めたくはないからだ。
もし二人が同一人物ならば――この恋は霞のように霧散してしまうかもしれない。




