22章 湿度に溺れて
今日は雪が降るかと思われた。
イーハトーヴでは久しぶりの雨が予測され、気温が氷点下に達していることもあり、雪が降るかもしれないとテレビで気象予報士が語っていたのだ。
もしかすると今冬初の雪が見られるかもしれません、お出かけになる方はご注意を――みたいなことを言う予報士の顔には、どこか迷惑そうな色が混じっていたように思える。
子供の頃は大歓迎していた雪だが、大人に近づくにつれその見方はどんどん変わり、交通状況を攪乱させたり人や車をスリップさせたりと、雪の働いている悪事ばかりが目に付くようになっていた。
高校生くらいまではまだ友達と雪で遊んでいた記憶があるが、大学生になってからはもう無関心、むしろ憎しみをぶつけていた気がする。
雪の日は教授の乗った電車が遅れ、必然的に講義は潰れてしまい、次の長期休暇に講義は補習という名前に変わって君臨。この上なく傍迷惑だ。
というクロの考えとは対象に、ハルは天気予報を見て大盛り上がりしていた。
本人曰く、この私は世界でも有数の雪大好きっ子、新雪にシロップをかけて七トン平らげた実績を持つほどの雪マイスターである、とのこと。眉唾ものである。
だが気象予報は外れ、朝からしとしとと物悲しい雨が降り続いていた。
雪の白さは見当たらず、透明な雨だけが空から降り注ぎ、それを見たハルは物凄く悲しそうな顔になってしまう。
「……あーあ、雨だと外に出る気もなくなるし、ヒマなことこの上ないわねぇ」
窓枠から外を眺めながら、ハルはそんな言葉を呟いた。
雲を睨みつけるが空は晴れず、むしろ余計雨が強くなった気さえする。
実際問題、本当にヒマなのだ。
家の中でできることなんて限られているし、かといって外に出るのは心底ノー。
童話執筆をしようにも、クロが未だ二本目のプロットを完成させていないのだから取り掛かることも出来ない。
そんなメランコリーなハルの背後では、クロがペラ紙と長時間にらめっこしている。
プロットに行き詰まり、先ほどからアイデアを出そうと懊悩しているのだろう。時々便を踏ん張る人のような声を上げ出すものだから小うるさい。
……と思った瞬間、クロの口から「……んっんんううう……」という洞窟を通り抜ける風の音みたいな声が漏れ出した。その症状に対してハルはアイデア渇望症と名付け、生暖かい目で一部始終を見守る。
クロは勢いよく消しゴムを掴むと、先ほどまで書いていた部分を荒々しく消し始める。
恐らく数行ほどボツになったのだろう、凄まじく苛々が募った顔だ。
しかし雨のせいで部屋の中は湿気っぽく、クロの持つ紙は濡れティッシュみたいになっている。
そんな紙に対して荒く消しゴムなんか擦りつければ――あ、破れた。
「ピエェ!」
メジロの地鳴きみたいな声を上げながら、クロが頭を抱えつつもんどりうった。
思わずハルは手持っていた紙パックのはっさくジュースを取り落とし、慌ててクロに駆け寄る。
「クロ、大丈夫? よければ四方八方がクッション材で出来た病室へと連れていくわよ」
「別に頭がおかしくなったわけじゃねえ! ただちょっと冷静さを欠いただけだ、悪い、今必要以上に落ち着く……」
何故かラマーズ法で呼吸を繰り返し、クロはようやく落ち着きを取り戻した。しかし額に浮かんだ青筋はどう足掻いても引っ込まない様子。
そして何をトチ狂ったか、突然クロはこんなことを言い出すのだ。
「あーもうやってられるか! ハル、今から気分転換としてシナハンに行くから!」
「え、何シナハンって。できるだけ少ない文字数で説明して」
「シナリオハンティング! 以上!」
初耳なハルでも大体言いたいことは分かった。シナリオに行き詰ったから、モデルの舞台となった場所に行ってシーンを考えていくぞ、とのことだろう。ロケハンのライター単騎ヴァージョンと言ったところか。
「勿論、異論は認めない! 街へ繰り出る、ただちに身支度しろ!」
「ちょっと待った、ご存知の通り外は雨よ。ザーザーとまでは行かないけど、しとしととねちっこく降り続いているわよ。それなのに外出?」
「あたぼうよ! はよう余所行きの身なりに着替えろ! 俺も急いで支度する!」
アイデアに困窮した人はこうも切羽詰まってしまうのか――としみじみ思いながら、ハルは首肯した。
外には心底出たくないけど、拒否すればおしりペンペンされそうな気がする。今のクロならそれくらいやってのけるだろう。
「全く、こんな日だって言うのに……」
外の雨はまだ微弱だが、雲行きは極限までに曇り切っている。
やがて天より降り注ぐ雨も強さを増し、まるで自分たちを撥ね付けるかの如くまで強まるだろう。
ハルはできるだけ大きな傘を選別しながら、そんなことを思うのだった。




