20章 クロの過去、心の傷
「……もしかしてクロも、地質学を研究していたの?」
「いや、俺は調査に付いていって雑用やってたバイトだよ。お前の父親とは顔なじみだったもんでな、同行する許可をもらったんだ。まあ一年坊の時に単位山ほど取ってたから、音大行く必要なかったし、バイトと言うよりは研究チームの一味って言った方が適切なほど一緒にいたなぁ」
「え、ちょっと突如として色々な情報が出てきて混乱するんだけど。なに、クロって大学生だったの? それに加えて音大? それでバイト? 顔なじみ?」
「おー、面白いくらい混乱してるな」
情報過多に惑うハルを見て、クロがしてやったりと言いたげな表情を浮かべる。
「俺が大学生だってことくらい見りゃ分かるだろ、こんなにフレッシュで毛の一本も生えてなさそうなほど若々しいんだし」
「いや胎児でも毛生えてるから、クロあんた受精卵か何かなの。ていうかその、今の発言のあらゆる経緯が知りたい」
「そんな深く説明するこたーないんだよな。俺は音大生、弦楽器だーいすき。で、きままなキャンパスライフの合間を縫って、お前の親父さんの手伝いをさせてもらってただけ。別に何らおかしなことはない」
クロが絵本作家を目指しているのか音楽家を目指しているのか地質学者を目指しているのか、いまいち分からなくなってくる。
「……ちなみに、なんで私の父親とクロが顔見知りなの? ていうかそんな親しかったの?」
「知り合った理由はなんというか……中々言うのが難しいからこの際誤魔化す。親しかったかどうか訊かれれば……うう、実際俺よかジョヴァンナのほうがお前の親父とは親しかったからアイツを通して会うこと多かったし、でも俺のほうが出会ったのは先だし……実際どうだったんだろう……」
思考の坩堝に嵌り込んでしまったようで、クロはイベリコ豚みたいな声を上げながらウンウンと唸り始める。
何やらとても複雑そうかつ苦しそうな顔をしているが、そんな顔すらハルにとっては羨ましい。
自分の過去を回想して懊悩するなんて、自分にとっては到底できやしないことだ。
「まあとりあえず、これ以上話すと俺だけじゃなくてジョヴァンナに関しても語らなきゃならないからやめよう。ハルファミリーの話はこれにて終結! 追究は許さん」
「えー……なにその言論封殺。ちょっとした示威運動で反旗を翻してやりたい」
とはいえクロが隠し事をするのは毎度のこと、今更珍しくもない。
どうせこの執筆活動が終われば、きっと全てを教えてもらえるのだから焦る必要はない。
もし教えてもらえなかったらありとあらゆる武力行使によって吐かせる所存だ。
「でもまあ何にせよ、私にも家族がいたのよねえ。会えないかしら、って顔すら忘却しているから無理か」
自力じゃ掴み取れないはずの過去を知って、ハルは少しだけ上機嫌な口調でそう呟いた。
そんなハルの様子を汲み取って少し口角を上げるクロに対し、言葉を続ける。
「何人くらい家族がいたのかな。両親、もしかしたら兄妹、いとことか色々……」
いとこ。
そのワードを聞いた瞬間、クロの表情が不意に変わる。
全ての色を失って、タブララサに戻ったかのような、一切の思考が断絶したかのような、どの感情も読み取れない顔。
まるでそれはハリボテ、人の形をした肉の塊に戻ったかのように。
全ての思考を一瞬奪い去られ――クロはやがて、憎々しげに唇を噛んだ。
瞳を伏せて痛みに堪え、その歯の隙間からは低い呻き声が漏れ出てくる。
道を歩いていたら突然刃物で心臓を穿たれたかのような、予期せぬ方向から拳を叩き込まれたかのような……不意打ちを見舞われた表情。
彼が浮かべているのはそんな憐れなものだった。
クロの様子を見て、ハルは音もなく息を呑んだ。
突然の変貌に動揺を隠せず、凍り付いたかのように動きを止めてしまう。
そして、脳裏には昔の光景がフラッシュバックした。
この雰囲気、表情、どこかで見たことがある。
そう遠くない過去で、この煉獄に来てからの期間で。
そう、あの日だ。
クロが私の手を掴み、私が星冬の台詞を口走った時。
あの時クロは星冬の言葉を聞いて同じような雰囲気になり、いつもとは全く違う様子で吐き捨てるように星冬という名前を言っていた。
それと同じ、全く同じ。
じゃあ、まさか……。
「……もう、寝ろ。明日に響くぞ」
これも同じ、有無を言わさない口調でそう言って、この部屋から逃げ去ろうとする様子。
まるでハルの面をこれ以上見ていられないとでも言うように、彼はこの部屋から遁走してしまうのだ。
今回も逃げられてしまう、何も語られないまま終わってしまう。
意識的か無意識か――去りゆくクロの背に、ハルは手を伸ばした。
彼を引き留めようとしたのかどうか、自分でもよく分からない。
その指先が背に触れる、今なら服を掴むことだってできる。
けれども手は力を失って、虚しく空を切るばかり。
頭の中でふと二つの符号が一致してしまったのだ。
クロの頭の中を撹拌したのは二つの言葉、『星冬』と『いとこ』。
単純に考えるならば、二種の言葉は同一の意味を持つということ。
つまり星冬は私のいとこということだろう。
クロのいとこという可能性もあるが……かつて垣間見た星冬との過去に鑑みると、自分のいとこであるという線が濃厚だ。
別にそれを知って何かが起こるというわけでもない――しかし、未知なるもどかしさが全身を襲う。
答えを出そうと思えば簡単に出せるのに、それを知るのが怖くて前に進めない、そんな不器用な気持ちを思い出す。
――いとこだから共にいるだけで――そこに恋心は介入しなくて――自分が勘違いしているだけで――本当はそんな間柄じゃなくって――それを確かめたくて――でも何も言えなくて――そんな自分が大嫌い。
辛くて苦しくて悲しくて、そんなタールのように粘つく感情。
私はそれに苛まれていた、きっとそうだ、そうであるはずだ。
体は覚えている、何年も続いた痛みに対し、条件反射的に恐れをなしている。
「…………」
気が付いた時、クロはもうそこにはおらず、自分が一人でここに立っているだけだった。
ハルは頭を振り、これ以上何も考えないように思考を放棄しながらベッドへと潜り込んだ。
今はただひたすらに、夢の中に逃げてしまいたい。
そう願った。
よほど執筆で疲れていたのか、予想以上に早く睡魔が襲い掛かってきた。
まどろみの中に落ち、目の前が晴嵐のようなもので塗り潰され、そして――意識を閉ざす。
……ハルが寝静まってから三分後、その部屋の外で扉に寄りかかっていたクロが息を吐いた。
張り詰めていた緊張の糸が緩み、体中から力が抜けていく。
思わずクロは背を扉に預けながら、その場に座り込んでしまった。
「……突然、あんなこと言うなよ」
突然ハルのいとこのことを――星冬のことを言われたら、不意を突かれてしまうに決まっている。
どんな表情を浮かべたらいいのかも分からず、ぶっきらぼうになってしまうに決まっている。
彼は瞳を閉じたが、暗闇は与えられなかった。
その瞼の裏では現世での古き日々の情景が浮かんでいる。
彼女が笑っている、星冬に向かって笑いかけている。
星冬がふざけて彼女の頭をくしゃくしゃにして、彼女は照れながらそれを直し、文句を言っている。
幸せそうな光景を、クロは遠い場所からぼんやりと見ていた。
二人はまるで恋人同士。
実際は恋人ではなかったにせよ、傍から見れば交際しているようにしか見えない。
……それを思い出すだけで悲しくて、辛くて、どうしようもなくて。クロは人知れず涙を零しかける。
二人は心底幸せそうだ、それに引き換えここに座り込んでいる自分はどうだ?
自分は幸せか?
彼らみたいに、愛する人と戯れることさえできていない。
自分は膝を抱え、惨めに無様に滑稽に、この冷ややかな廊下で苦悩し続けることしかできない。
「……ッ」
やはり煉獄に来ても、ハルが記憶を失っているとしても、全ては変わらない。
あの様子を見ればすぐに分かってしまう、ハルは星冬を特別視している、それだけの話だ。
もう何も変わらない、変えられない。
ああ、それを避けるためにハルの記憶を奪ったのに。
やはりこうなる運命だったのか。
記憶が無くてもお前はそうなのか。
星冬だけに寄り添い、星冬だけを見続けるのか。
それがただただ哀しくて、……胸を締め付けるのだった。




