17章 人生の第一楽章
すっかり夜も更け23時、今日もハルは自室で原稿用紙と向かい合っていた。
ただいつもと違うのは、今日渡されるプロットと設定集は本稿用のものであること。
そしてハルの隣にはクロがスタンバイしていて、執筆を傍から見守っていることだ。
「……隣にいられると死ぬほど集中できないわね」
「耐えるんだ、気持ちは痛苦しいほど分かるけど耐えるんだ。俺のことは地縛霊か何かだと思ってくれていいから」
ハルに気を遣ってか、クロは出来うる限り気配を消そうとしていたが無意味。
隣が気になってそわそわしてしまう。
やはり執筆は一人で、誰からの干渉も受けない環境が一番適している。
自分の世界に没入すること、それは素人のハルにとっては中々に難易度が高いようだった。
こんなコンディションでマトモな文章が書けるのだろうか、それだけがハルにとって懸念すべきことだ。
「さて、じゃあそろそろお待ちかねのコイツを渡すか」
己の懐をまさぐり、クロは本日使用するプロットと設定集を取り出した。
そして原稿用紙の脇に置いて、どうぞお読みくださいという念を表すジェスチャーをしてみせる。
ハルは一度頷いて、その設定集に手を伸ばした。
一言で童話と言っても様々な種類がある。
動物しか登場しない童話、人が中心となる寓話的な童話、神話にも近い童話、童話という名だが対象読者が大人である童話、情操教育に役立つ道徳的な童話、残酷性を含んだ童話、詩的な体裁で描かれた童話。
押し並べて見れば千差万別、実に個性的でバリエーションのある分野だ。
全体的に言えることは、通常の本よりメッセージ性が顕著に感じられることだろうか。
子供の教育に使われることが多い為に当然のことかもしれないが、童話(特に絵本として出版されているもの)はテーマが非情に明快である。
例えば『ウサギとカメ』ならば、実力がある者でも己を過信し過ぎると好機を逃し、反面実力的に弱者な者でも堅実に物事をこなしていけば良き成果を得ることができるという教訓が綴られている。
クロの考え出した物語も例に漏れず、心に刻むべき事項が前面に押し出されている。
それは当たり前のことだけれども、ともすれば忘れてしまいがちな教え。
まるでそう、ブルカ博士が語った『良き親を大事にせよ』という言葉のように。
だからいつもは、こんな教訓が込められているんだ、と思いながら設定集を読んでいるハルだが……今回は少し様子が違うようだった。
ハルの顔は渋面、額に深い深い渓谷を作りながら設定集を読んでいく。
その隣ではクロが、真剣な眼差しでプロットを上から下まで再チェックしていた。
記入漏れがあったら大変だ、齟齬が生じまくってしまう。
そして設定集を読み終えたハルは、無言でそれを原稿用紙の上に置いた。
そして無言でクロのほうに手を伸ばし、プロットのほうを受け取って読み始める。
彼女の顔は引き続いて顰め面、そのせいで通常時より当社比二倍ほど年を取っているように見える。
「……いや、いやいやいや」
と、プロットを読み終えたハルは口にした。
何がイヤイヤなのか分からずクロは唇に指を添えながら小首を傾げ、その稚児がやりそうな動作に腹が立ったのかハルが首元に手刀を叩き込む。
「これはちょっと……その、ダメでしょう。いや正式に出版社から出す本ってわけじゃないから、個人の範疇で楽しむならいいかもだけど……ホラ、倫理的にっていうか、道徳的にっていうか」
「ん、何か問題があったか? 文句があるなら書き終わってから聞くぞ」
「いやその、うーん……いいのかなーこんなんで。怒られやしないかなーこんなんで」
ぶつくさ文句を言いつつ、ハルはシャーペンを構えた。
綴る物語がどんなアレなものであっても、クロと交わした契約をこなす為には仕方の無いこと。
心を無にして書き進めるしかない。
そしてハルは、クロの監修を受けながら第一の物語を綴るのだった。




