海の上で
海は、静かだった。
陸の旅とは全然違う。景色が変わらない。水平線と空と雲、それだけが延々と続く。
陸地の旅は、一歩ごとに景色が変わった。木が変わって、岩が変わって、土の色が変わって、空気の匂いが変わって……でも、海は同じだ。どこまで漕いでも、水と空しかない。
退屈──ではなかった。
静かだからこそ、聞こえるものがある。波の音、風の音、船が水を切る音、セレスの寝息。
冬夜はゆっくりとオールを漕ぎながら、空を見上げた。雲が流れている。鳥が飛んでいる。
「トワ。うみのうえ、しずかだね」
セレスが舳先で足をぶらぶらさせていた。
「ああ。静かだ」
「セレス、こういうのもすき。あるくのもすきだけど、こいでるのもすき。のんびりしてる」
「たまには、こういう旅もいい」
隣を漕いでいるハルが、息を切らしていた。
「ト、トワさん……全然疲れてないんですね……」
「七千時間歩いてきた体力があるからな」
「わたしはまだ、千時間しか……」
「千時間歩いたなら、十分だ。休め。急ぐ必要はない」
ハルがオールを止めて、水面に足を投げ出した。
「トワさんは……いつも、こんな感じなんですか。こうやって、のんびり歩いて」
「歩く時はのんびりだ。戦う時は違うが」
「密林で見ました。トワさんの戦い方、すごかったです。わたしもいつか、あんなふうに──」
「焦るな。俺も最初は弱かった。旅立ちの剣の三連斬すら出なかった」
「三連斬が出なかった時期があるんですか?」
「熟練度MAXまでに一年半かかった。最初の半年は、三連斬の存在すら知らなかった」
ハルが目を丸くした。
「一年半……わたしの旅立ちの剣の熟練度、まだ30%くらいです」
「半年で30%なら悪くない。俺より速いペースだ」
「え、本当ですか?」
「本当だ。お前はフォーラムの情報を見て効率的に上げているんだろう。俺の時代は、情報がなかった」
「そうか……トワさんは全部、手探りだったんですね」
「手探りだったから遠回りした。それでも、遠回りの中で見つけたものもある。料理とか、釣りとか、NPCとの会話とかな」
「寄り道が大事ってことですか」
「ああ。寄り道をすることが、旅というものだ」
ハルがしばらく黙って、それから笑った。
「いい言葉ですね。メモしていいですか」
「好きにしろ」
セレスが起き上がった。
「トワ。さかな」
「なに……?」
「うみのなかに、さかな。おおきいの」
【見聞録】が反応した。船の下に──巨大な魚影。
【大海のヌシ鯨 Lv88 ── 非敵対型・レア個体】
非敵対型。霧底の泉のヌシ鯰と同じだ。
巨大な鯨が──船の真下を通過していく。船が大きく揺れた。ハルが「うわっ」と声を上げる。
鯨の背中が海面を割って浮かび上がった。水柱が上がる、虹がかかった。
「きれい……!」
ハルが呆然としている。
セレスが鯨の背中に飛び移った。
「おっきい! おさかな、おっきい!」
「セレス、戻れ。危ないだろ」
「だいじょうぶ! このおさかな、やさしい!」
セレスが鯨の背中で踊っている。鯨はセレスを嫌がる様子もなく、ゆっくりと泳いでいる。
【ヌシ鯨との友好度が上昇しました:1/50】
──友好度だ。
銀月の鹿の時と同じだ。ヌシ個体には友好度があり、MAXにすると何かが起きる。
ただし今回は50が上限だ。100じゃない。
「トワ。このおさかな、なまえは?」
「ヌシ鯨。名前はまだない」
「なまえ、つけていい?」
「……好きにしろ」
「じゃあ──ナミ。なみのおさかなだから」
鯨──ナミが、低い声で鳴いた。名前を受け入れたのかもしれない。
ハルが横で感動している。
「すごい……鯨に名前をつけて、友好度が上がるなんて……これも、旅人の特権ですか?」
「わからない。試したら上がっただけだ」
「トワさんの『試したら上がった』は、普通の人には再現できないやつですよね」
「やればわかる。お前も試してみろ」
ハルが恐る恐る手を伸ばして、鯨の背中を撫でた。
【友好度が上昇しました:1/50(ハル)】
「上がった! わたしでも、上がりました!」
セレスが「よかったね!」と手を叩いた。
──セレスとは違う。ナミは特定のプレイヤーを選ばない。誰でも友好度が上がる。ただし、海の上にいなければ出会えない。船を持つ旅人だけが辿り着ける場所。
二隻の船と、一頭の鯨が、並んで海を渡る。
水平線の向こうに──うっすらと陸地が見えてきた。
「トワ! しま! しまがみえる!」
セレスが舳先から指差した。
緑の島。海の真ん中に浮かぶ、小さな島。
【新エリア「常夏の孤島」に到達しました】
【このエリアはあなたが最初の踏破者です】
新しい大地。
冬夜は船を岸に寄せ、砂浜に降り立った。白い砂。透明な海。椰子の木。──南国の楽園のような島だった。
「トワ! すな! しろい! あしが、きもちいい!」
セレスが裸足で砂浜を走り回っている。
ハルも船から降りて、島を見回した。
「綺麗な場所ですね……。BCOにこんな場所があったんだ」
「知らない場所はまだたくさんあるだろう。──まだまだ、歩けるな」
「はい。トワさんの背中を、追いかけます」
二人の旅人と、一人の妖精と、一頭の鯨が、新しい島に着いた。




