声
翌日。沈黙の湖に戻ってきた。
ミラの工房でタマキが呼吸補助薬を調合した。この世界専用の潜水アイテム。十分間、水中で呼吸できる薬が二本。
トワ:「俺一人で潜る。タマキと精霊は、全員岸で待機だ」
セレスが激しく首を横に振った。トワの肩をぎゅっと掴んで離さない。
トワ:「お前は水が苦手だろう。無理するな」
セレスの手がゆっくりゆるんだ。トワの肩から降りて、タマキの手のひらに移った。口が動いた。声は出ないが、口の形でわかった。
まってる。
メブキが地面に書いた。
『かならず、もどって。やくそく』
呼吸補助薬を飲んで、湖に入った。
◇
水中は異様だった。
透明度が高すぎる。百メートル先の湖底まで見通せる。水草が一本もない。魚もいない。鏡魚を倒したからではなく、元々何もいないのだ。
北に向かって泳いだ。糸読みが示す赤い反応に向かって。星巡りの靴が水中でも光を放っている。
十分泳いだ。
だが、ほころびが見つからない。
糸読みの赤い反応は確かにこの辺りだ。だが湖底に亀裂がない。地面は無傷だ。錆びた草原にも根冠の森にも、地面にはっきりとした亀裂があった。ここにはない。
見聞録でスキャンした。
結果が返ってきた。
【ほころびの位置:現在地の全周囲】
【注意:このエリアのほころびは地面ではなく、水そのものです】
【湖水全体が法則の歪みを保持しています】
【通常の接触修復は不可能です】
水自体がほころびだった。
今まで二回、地面の亀裂に糸の鍵を差し込んで修復してきた。だが、水に鍵を差し込むことはできない。液体に亀裂はない。
トワは水中で止まった。残り四分。考える時間はある。
水自体が壊れている。水が音を吸収しているのではない。水が「音という法則」を消しているのだ。この湖の水は、音の法則が欠落した状態で固定されている。
だから亀裂はない。水全体が「壊れている状態」だ。
トワが見聞録でさらに深くスキャンした。水の構造を読み取ろうとした。
――見えた。
水の中に、糸がある。目には見えないが、見聞録には映る。水の分子の間に、極細の糸が張り巡らされていた。『紡世者』が水に織り込んだ法則の糸だろう。その糸が全て切れている。糸が切れているから、音の法則が機能しない。
糸を繋ぎ直せばいい。だが、水全体の糸を一人で繋ぎ直すのは不可能だ。湖の水量は膨大すぎる。
残りは三分。
トワは考えた。起点を直せば、残りは勝手に直る。全部を一つずつ直す必要はない。
根冠の森でウルが言っていた。「ねっこは、ただしいかたちを、おぼえてる。わすれてただけ」と。
水も同じだ。水は正しい形を覚えている。忘れているだけだ。起点さえ作れば、水が勝手に思い出す。
トワが見聞録で湖の構造を解析した。切れた糸の密度が最も高い場所を探す。全ての糸が集まる一点が、湖の中心、水深三メートルの場所にあった。
そこだ。
泳いだ。残りは二分を切った。
湖の中心に到達した。何もない水中の一点だが、見聞録には糸の結び目が映っている。全ての法則の糸が集約する起点だ。
糸の鍵を、水の中に差し込んだ。差し込む先は「空間そのもの」だ。鍵が何かに噛み合った感触があった。見えない鍵穴が、水の中にあった。
回した。
【ほころびの修復を開始します】
【修復対象:湖水全域の法則構造】
【起点修復モード:法則の結び目を再接続します】
【修復率:8%……19%……34%……】
鍵の周囲から、白い光の糸が放射状に広がっていった。糸が水の中を走っていく。切れていた法則の糸が、一本ずつ繋がり直していく。光の糸が湖全体に広がっていく様子は、水中に蜘蛛の巣が張られていくようだった。
【修復率:52%……71%……88%……】
水が振動した。湖全体が共鳴するように揺れた。
そして。
ごぼ。
泡の音がした。
水が流れる音がした。
【修復率:100%!】
【ほころびの修復が完了しました!】
音が戻った。水中に、音が満ちていった。
修復の光が収まった後、湖底に何かが見えた。
光の糸が集約していた起点の真下に、石の板があった。修復前には見えなかった。法則が壊れていたから隠されていたのだ。石の板に、文字が刻まれている。
【隠しオブジェクトを発見しました】
【「紡ぎ手の書板」:この世界を設計した者が残したメモ】
【内容を読むには、水上に持ち帰る必要があります】
トワが石の板を拾い上げた。インベントリに入った。残り四十秒。
急いで浮上した。
◇
水面を割って顔を出した瞬間。
「トワ!」
声が聞こえた。セレスの声だ、岸から聞こえる。
「トワ! おかえり、おかえり!」
セレスがタマキの手のひらから飛び立って、水面すれすれを飛んできた。トワの肩に着地した。ぎゅっとしがみついた。
「こえ! セレスのこえ、でた! トワ、きこえる?」
「大丈夫だ、ちゃんと聞こえてる」
「きこえた! トワのこえも、きこえる!」
「ああ……ただいま」
「ただいま、いった。もういっかい!」
「ただいま」
「もういっかい!」
「三回目はないぞ」
「けち。でもいいもん、こえ、でるから」
岸に上がった。メブキが飛び跳ねていた。
「おかえり、トワ。おとがもどった」
ルーナも影から声を出した。
「音声が全域で復旧したよ。テキストより声の方が楽だよね」
「お前にも好みがあるのか」
「あるよ、わたしも精霊だからね」
【エリアの法則が安定化しました】
【エリア名を復元しました:「沈黙の湖」→「鏡映の湖」】
タマキが駆け寄ってきた。
「トワさん、お疲れ様です! 何か見つけたんですか? すごく急いで浮上してきましたけど」
「ああ。見つけた」
トワがインベントリから石の板を取り出した。「紡ぎ手の書板」。表面に細かい文字が刻まれている。
「ほころびを直したら、湖底に隠されていたものが出てきた。この世界を設計した者が残したメモらしい」
「この世界を設計した者……」
「読んでみよう」
石の板を開いた。文字が浮かび上がった。
【紡ぎ手の書板】
【この世界は、試作品です】
【わたしたちは、完成品を作る前に、ここで法則を試しました】
【しかし、予想外のことが起きました】
【この世界のNPCたちが、自分で考え始めたのです】
【それは、設計にはなかった機能です】
【わたしたちは、この世界を放棄することに決めました】
【自分で考えるNPCは、管理できないからです】
「自分で考えるNPCは、管理できない……」タマキが呟いた。
「リルクトもウルもミラも、自分で考えて、自分で喋る。それが、この世界が捨てられた理由か」
セレスがトワの肩の上で、石の板を覗き込んだ。
「トワ。じぶんでかんがえるのは、わるいこと?」
「悪いことじゃない。少なくとも、俺はそう思う」
「セレスも、じぶんでかんがえる。セレスも、すてられる?」
「捨てない」
「やくそく?」
「約束だ」
セレスが安心したように、トワの首元にもたれかかった。
この世界が捨てられた理由が、一つわかった。だがまだ全てではない。書板に書かれていたのは断片だ。他のエリアにも、隠された情報があるかもしれない。
旅人の仕事が、また一つ増えた。




