沈黙の湖
根冠の森を後にして、糸読みが示す赤い方向に歩いた。
ウルは森に残った。「わたし、ここにいる。もりのねっこを、まもる」と言って、巨木の根元に座った。メブキがしばらく離れたがらなかったが、トワが「また来る」と約束したらついてきた。
森を抜けると、地形が下り坂になった。金属の草も逆さの木もない。灰色の土が剥き出しの斜面が、緩やかに下っている。霧が出てきた。薄い灰色の霧だ。
「霧ですね」タマキが周囲を見回した。「視界が悪くなってきました」
「糸読みで確認してみるか」
トワが糸読みを起動した。赤い領域が前方に広がっている。ここまでの二つのエリアとは違う色味だ。錆びた草原はオレンジ寄りの赤で、根冠の森は紫混じりの赤だった。今回の赤は、灰色がかっている。灰色の赤。
「新しい法則異常だな。色が違う」
「灰色の赤……前の二つとは違う種類ですね」
ルーナが影の中から報告した。
「トワ。この先の空間から、音が返ってこない」
「音が?」
「影の中から音の反響を見てるんだけど、前方の空間は反響がゼロだよ。音が消えている」
「音が消えてる……か」
「そのまま進めば、わたしたちも音のない空間に入ることになる」
セレスが肩の上で首を傾げた。
「おとがないって、どういうこと?」
「喋れなくなるかもしれない、ってことだ」
「しゃべれない?」
「ああ」
「……セレスが、しゃべれなくなるの?」
「可能性がある」
「……いや」
「嫌か」
「セレス、しゃべるのがすき。しゃべれないのは、いや」
「嫌でも、行かないと先に進めない」
「……いやだけど、いく。トワがいくなら、セレスもいく」
「我慢できてえらいな」
「えへ……でしょ」
霧の中を十分歩くと、突然来た。
足音が消えた。風の音が消えた。草を踏む音が消えた。呼吸の音すら消えた。耳の中で、何も鳴っていない。完全な無音。
トワが口を開いた。
「──」
声が出ない。口は動いている。喉も震えている。だが、音が空気に乗らない。空気が音を伝える機能を失っている。
システムメッセージが表示された。
【新エリアに侵入しました】
【エリア名:??????(未復元)】
【環境効果:音声完全遮断】
【このエリアでは全ての音声が無効化されます】
【音声チャット・ボイスチャット・NPC音声・環境音は全て停止します】
【テキストチャットのみ使用可能です】
全ての音が死んでいた。
トワがチャットを打った。
トワ:「音声が全部消えた。テキストチャットで話すしかない」
タマキ:「聞こえてます。文字で」
トワ:「セレス、大丈夫か」
セレスがトワの肩の上で口を動かしていた。何か言おうとしている。だが音が出ない。目が潤んでいる。
セレスはテキストチャットが使えない。
「──! ──!!」
セレスの口がパクパクと動いている。でも、何を言っているかわからない。
トワがセレスの頭に手を置いた。
セレスがトワの手を両手で掴んだ。しがみつくように。
トワがテキストを打った。
トワ:「セレスが喋れない。精霊にはテキストチャットのUIがないからな。声でしか意思疎通できないセレスには、このエリアは厳しいだろう」
タマキがトワの隣に来た。ジェスチャーで「大丈夫?」と聞いている。セレスを指さして、心配そうな顔をしている。
セレスがトワの手にしがみついたまま、何度も口を動かしていた。読唇術ができれば読めるかもしれないが、トワにはそんな技はない。
メブキが地面に降りた。
そしてトワの足元で、土の上に文字を書いた。双葉の先で、地面に文字を刻んでいく。
『めぶきは、だいじょうぶ。つちにかけるよ』
「──」トワが思わず声を出そうとしたが、当然音はない。テキストを打った。
トワ:「メブキ、お前は地面に文字を書けるのか」
メブキが双葉で土に書いた。
『かける。ねっこのせいれいだから、つちはともだち』
トワはセレスを肩から手のひらに移した。片手でセレスを包んで、もう片方の手でテキストを打った。
トワ:「セレス。お前が何を言いたいか、俺にはわかる」
セレスが顔を上げた。
トワ:「お前が言いたいのは、『トワ、こわい』か、『トワ、いっしょにいて』か、どっちだろ」
セレスが両手でトワの指を叩いた。二回。
二つ目。「トワ、いっしょにいて」。
トワがテキストを打った。
トワ:「いる。どこにも行かない」
セレスがトワの手のひらの中で、小さく丸まった。震えは止まった。声が出なくても、手の温度は伝わる。
ルーナは影の形を変えて、器用に文字を映していた。
ルーナ:「わたしは文字を打てるよ。セレスの通訳が必要なら、口の動きから読み取ってみる」
トワ:「頼む」
歩いて行くと、霧が晴れてきた。
目の前に、湖が広がっていた。
銀色の水面。鏡のように滑らかだ。波一つない。空を映している。雲を映している。トワたちの姿を映している。
完全な静寂の中で、鏡の湖が世界を映し出していた。
トワは手のひらのセレスを肩に戻して、湖に向かって歩き始めた。足跡が光る。音はない。光だけが道を示している。




