《目》
道を歩いた。
花に覆われた通路。金色の花が壁面から天井まで咲いている。足元にも花がある。花の上を歩いている。根の天蓋から差し込む虹色の光が花弁に反射して、通路全体が淡く光っている。
きれいな道だった。一人目の旅人がいる場所に続く道が、こんなにきれいだとは思わなかった。
「きれい」セレスが言った。
「ああ」
「でも……こわい」
「何か、分かるのか」
「うん……こわい。このさきに、おおきいひとがいる。おおきくて、こわいひと」
セレスの精霊としての感覚が、先にいるものの気配を捉えている。怖いと感じるほどの存在感。
メブキがセレスにくっついていた。双葉がぺたんと垂れている。メブキも怖いのだろう。
「大丈夫だ。一緒にいる」
「うん。トワがいるから、だいじょうぶ」
腰にレクトの根糸が結んである。花の台地まで繋がっている。帰り道は確保されている。
タマキが隣を歩いている。鞄を背負って、薬瓶をいつでも取り出せる態勢。硝子蛙が鞄の中でじっとしている。いつもけろけろ鳴いているのに、今日は静かだ。
グランが先を歩いていた。
五分歩いた。通路が広がった。
空間に出た。
◇
観測点。
球形の空間だった。直径百メートルほど。壁も天井も床も、全て根でできている。根が球の内側を覆っている。根脈の金色の光が、球体の全面から染み出していて、空間全体が金色に満ちている。
そして中央に——いた。
《目》。
巨大な目。
球形の空間の中央に、目が浮かんでいた。直径二十メートルの金色の目。
瞳孔がある。虹彩がある。人間の目と同じ構造。だが、サイズが違う……建物みたいに大きい。
目が——動いた。
見られている。あの目に、全てを見通されている。表面の装備も、内面の感情も、身体の構造も、見聞録のデータも。全部が一瞬で読み取られたような感覚。
見聞録が反応した。
暴走ではなかった。共鳴だった。見聞録のセンサー五種が全て、目に向かって引っ張られている。磁石に吸い寄せられる砂鉄みたいに。見聞録が、元の持ち主を認識している。
【見聞録が一人目の旅人の力と共鳴しています】
【見聞録のデータベースにアクセスが発生しています——外部からのアクセスです】
一人目の旅人が、トワの見聞録を覗いている。一万時間に近いデータを。
「……面白い」
声が聞こえた。若くもなく老いてもいない、時間の外にいるような声。
「面白い目を持っているな。わたしの目に似ている」
目が語りかけてきた。
面白い目とは、見聞録の【片鱗モード】のことだろう。
トワは最大の警戒心を持ちながら、口を開く。
「似ているんじゃない。俺が持っている力は、あんたの目の欠片だ」
「知っているのか。それも面白い。およそ一万時間……よく使い込んだ。わたしの断片をここまで鍛えた者は他にいない」
目が細くなった。笑っている。
「三人目の旅人――わたしの力の継承者。ようこそ、《観測点》へ」
《観測点》。
一人目の旅人は、この場所をそう命名している。
「継承者じゃない。借りてただけだ、知らずにな」
「借りていても、鍛えたのはお前だ。一万時間の歩行で、わたしが万年かけても到達しなかった精度に、お前はもう辿り着いた」
「歩くしか、能がなかったからな」
「歩くしか能がない者が、世界の底まで来たと……ふふっ、大したものだ」
一人目の声には嘲りがなかった。素直に感心している。
だが、同時に——引き込もうとしている。
「お前も《見る者》だろう。見聞録を使って、世界を観察してきただろう。ここにいれば全てが見える。上も下も、表も裏も。マクロもミクロも……全部だ。お前の見聞録が、ここでは完全な力を発揮する」
「ここにいれば、か」
「ああ。ここを離れたら、お前の見聞録はまた断片に戻る。五つのセンサーに分割された、不完全な力に。だが、ここにいれば——全てが一つになる。全てが見える」
誘惑だった。
見聞録が引っ張られている。ここに留まれと。ここにいれば全てが見えると。旅人として世界を見てきた者にとって、「全てが見える」という言葉は——確かに魅力的だった。
片鱗の力。あの十秒間の、全てが見える感覚。あれが永遠に続くと言われたら。
「……確かに、魅力的だ」
「だろう? お前ならわかるはずだ。見ることの喜びを」
「わかる。……でも、俺は見るだけの旅人じゃない」
「――見るだけではない?」
「俺は、歩く旅人だ。見て、歩いて、名前をつける。ここにいたら、歩けない。歩けない場所に――俺はいられない」
目が……少し大きくなった。驚いているのか。
「歩けない場所にいられない、か。……わたしは歩くことを忘れた。ここに座って見続けているうちに、足があったことすら忘れた」
「足を忘れたのか」
「見ることに集中しすぎて……足も、手も、身体も忘れた。だからこうなった……目だけが残った」
目だけが残った人。全てを見たいと願って、見ること以外の全てを手放した人。
「あんたに聞きたい。元の居場所に、帰る気はあるか」
「帰る?」
「穴の縁に刻んだだろう。二人目の旅人に向けて、『帰ってくる。必ず帰ってくる』と」
「……そんなことを言ったか。覚えていない」
「それすらも、覚えていないのか?」
「見ることに集中していたら、言ったことを忘れた。約束も忘れた。自分の名前も忘れた。全部忘れて、見ることだけが残った」
「じゃあ、帰る気はないのか」
「ない」
はっきりと。迷いなく。
「ここにいれば、全てが見える。帰る理由がない。上の世界には、ここほど見えるものがない。戻っても退屈だ」
「退屈じゃない。俺が一万時間歩いてきた世界だ。草原がある、湖がある、花が咲く、魚が泳ぐ、仲間がいる。――退屈なわけがない」
「それは、お前の世界だろう。わたしの世界は——ここだ。……全てが見える場所だ」
帰りたくない。
囚われているわけでも、苦しんでいるわけでもない。好きでここにいる。見ることが好きで、見ることが楽しくて、帰る理由がない。
好きなことをしているだけの人を、どうやって連れ帰る。
セレスがトワの肩で震えていた。目の圧力が精霊には辛いのだろう。でも離れない。
「トワ。このひと……たのしそう。でも……さみしそう」
「楽しいけど寂しい。柱の巡礼で聞いた通りだな」
「たのしくてさみしいのは……かなしいこと」
セレスの言葉が、球形の空間に響いた。
目が——セレスを見た。
「お前は……精霊か。銀色の。泉から生まれた」
「うん。セレスは、セレス」
「覚えている。お前が生まれた時、泉のそばにいた者が泣いて喜んでいた。あれは……誰だったか」
「グラン」
「グラン。……知らない名前だ」
グランが、後ろに立っていた。
目が、その老いた旅人に向けられた。




