《分かれた日》
三本目の柱の心臓。深淵から見た分離の記憶。
手を触れた。
暗闇の中にいた。
上に世界がある。光が差し込んでいる。大地が裂けて、光と一緒に「もの」が降ってくる。
記憶、名前、足跡……二人の旅人が歩いた場所の残骸が、雪のように降り注いでいく。
降ってきたものが暗闇の底に積もっていく。積もって、沈んで、溶けて、忘れられていく。
これが、深淵の始まりだった。世界が分かれた時に、上の世界から振り落とされたものが、全部ここに沈んだ。記憶の層――深淵とは、忘れられたものの場所ではなく、落ちてきたものの受け皿だったのか。
そしてその中に——光が一つ、沈んでいく。他のものとは違う、強い金色の光。人の形をしている。
一人目の旅人が降りてきた。自分の意志で、落ちたのではなく、降りた。
暗闘の中を歩いていく。杖をついて。全てを見ながら。落ちてきた記憶の残骸を、一つ一つ拾い上げるように見ていく。
そしてある場所で——立ち止まった。座った。見始めた。
上を、下を、全方向を、全てを、ずっと。
手を離した。
「一人目は……自分で降りたんですね。落ちたんじゃなくて」タマキが静かに言った。
「ああ。深淵に落ちたものを見に行った。忘れられたものを見捨てられなかったのかもしれない」
「見捨てられなかった、か。……優しい人だったんですかね」
「優しいかどうかはわからない。でも——見たかったんだろう。全部」
◇
四本目の通路に入った。
ここは、精霊たちから見た分離の記憶。
セレスの角がざわざわと光り始めた。
「トワ。この通路、セレスのからだが、さわぐ」
「騒ぐ?」
「びりびりする。なかに、セレスのきおくがある。すごくふるい、きおく」
ルーナも影の中で揺れていた。
「わたしも。影が震えてる。この先に——わたしたちが生まれた瞬間の記憶がある」
柱の心臓に着いた。四本目の結晶は他の三つと色が違った。金色ではなく、銀と紫。月と夜の色。精霊の色。
「この心臓、セレスとルーナの色ですね」
「精霊の記憶を保存している心臓だから、精霊の色になったのだろう」
手を触れた。
◇
世界が分かれる瞬間を、泉の中から見ていた。
精霊はまだ生まれていなかった。泉の水の中に、精霊になる前の「力」が漂っていた。月の力と夜の力。まだ分かれていない。一つの水の中に、二つの力が溶けている。
世界が裂けた。大地が三枚に分かれた。
泉の水が揺れた。激しく。水が二つに分かれた。月の力を含んだ水と、夜の力を含んだ水。
月の水から——光が生まれた。小さな光。銀色の光。それがセレスになった。
夜の水から——影が生まれた。小さな影。紫色の影。それがルーナになった。
世界が分かれたから、精霊も分かれた。一つだった力が二つになった。月と夜。光と影。
生まれたばかりのセレスが、水面から顔を出した。初めて見たのは——石に座っている人の顔。笑っている顔。グラン。
生まれたばかりのルーナが、水の影の中から手を伸ばした。水面の上に、光がある。怖い。でも——水の匂いがする。飲みたい。水面に口をつけた。冷たい。でも温かい。
二人の精霊が、世界が分かれた日に生まれた。
◇
手を離した。
「セレス」
「みた。セレスがうまれたとこ。ぜんぶみた」
「……ああ」
「セレスとルーナは、もともとひとつだった。せかいがわかれたから、ふたつになった」
ルーナが影の中から手を伸ばすと、セレスの手を握った。
「わたしたちは——もともと一つだったんだ。分かれたから、二つになった」
「ふたつになって……でも、またいっしょにいる。いま」
「うん。今は一緒にいる」
「じゃあ、だいじょうぶ。わかれても、またいっしょになれるから」
セレスがルーナの手をぎゅっと握った。ルーナが影の中で微笑んだ。
タマキが目を拭いていた。
「……すみません。なんか、もらい泣きしちゃって」
「泣くな」
「トワさんも目が赤いですよ」
「赤くない」
「赤いです」
「……風のせいだ」
「地下に風は吹きませんよ」
「じゃあ、雨のせいだ」
「地下に雨は降りませんよ」
「じゃあ……何でもいい、何かのせいだ」
「そうですね……何かのせいです」
グランが柱の心臓を見ていた。
銀と紫の結晶……四つ目の心臓だ。
「セレスとルーナが生まれた日は、世界が分かれた日でもあった。悲しい日と、嬉しい日が同じだった」
「グランさんも覚えてるんですか。その日のこと」
「覚えている。あの人が行ってしまった日に、セレスが生まれた。一番悲しい日に、一番嬉しいことが起きた。……だから、わたしは待てた。セレスがいたから」
「グランは、セレスがいたから、まてた?」
「ああ。お前がいなかったら、わたしはとっくに壊れていた。何千年も一人で待つのは、普通は無理だ」
「セレスがいて、よかった?」
「よかった。……お前が生まれてくれて、よかった」
セレスが泣きながら笑った。泣き笑い。角がきらきら光っている。
「セレスも、グランがいて、よかった。グランがわらってくれたから、セレスは、さいしょからうれしかった」
◇
広場に戻ると、プレイヤーが増えていた。二十人ほどが新しく来ている。合計三十人近い。
根脈共鳴のボーナスを見て、全員が大騒ぎしていた。
「俺の歩行距離、千二百キロだって。移動速度プラス12%」
「俺は千五百。プラス15%」
「トワさんは二万八千キロだぞ」
「二万八千……俺たちの二十倍じゃん」
「レベルの差より行動の差の方がえげつないな……」
プレイヤーの一人がトワに近づいてきた。
「トワさん。ちょっと聞いていいですか」
「何だ」
「原初の歩法ってスキル、俺も解放されたんですけど、歩いても全然ステータスが上がらなくて。百メートル歩いてATKプラス1なんですけど」
「百メートルでプラス1なら正しい」
「トワさんはいくつですか、今」
【原初の歩法:世界の根での累計歩行距離 11.8km → ATK+118 / DEF+118】
「プラス118だ」
「百十八——!? まだ二日目ですよね!?」
「心臓を巡って歩き回ったからな」
「二日で十一キロ歩いてるんですか。……いや、トワさんなら普通か」
「普通だ」
「普通じゃないです」タマキが通りすがりに言った。
「タマキも六キロ歩いてるだろう」
「わたしは調合しながらなので……歩くのが目的のトワさんとは違います」
レクトが壁面で釣りをしていた。もう五本目だ。脈動石を三つ、記憶の結晶を二つ釣り上げている。ドロップ率ボーナスが異常すぎて、レア素材がぼろぼろ出ている。
「レクトさん、また何か釣れてますね」
「釣れるんだよ。入れるたびに。こんなに釣れたの初めてだ。深淵で半年かけて集めた素材より、ここで一日で釣った方が多い」
「根脈共鳴の恩恵ですね。四万二千回の積み重ね」
「四万二千回って改めて聞くとヤバいな……三年間毎日三十回以上釣ってた計算だ」
「すごい持続力ですね」
「釣りは忍耐だからな。魚が来るまで待つ。待つのは得意だ」
グランが少し離れた場所でレクトを見ていた。
「待つのが得意、か。わたしと気が合いそうだな」
「グランさん、俺なんかと比べたら桁が違いますよ。何千年待ったんでしょう」
「数は違うが、待つ心は同じだ。何かが来ると信じて、その場にいる。釣りも、待つことも」
レクトが少し照れた顔をした。
◇
夜になった。根の寝床で横になった。
セレスが胸の上で丸くなっている。今日は顔の上ではない。学習したらしい。
「トワ」
「何だ」
「あしたは、ごほんめのしんぞう?」
「ああ。五本目は《根守》から見た分離の記憶だそうだ」
「こんしゅさんたちのきおく」
「そうだ」
「そのつぎが、ろくほんめ。ひとりめのたびびとからみたやつ」
「ああ」
「ろくほんめ、こわい?」
「怖くはない。でも……重いだろうな」
「おもくても、セレスがいるから。トワひとりじゃないから」
「ああ。一人じゃない」
「じゃあ、だいじょうぶ」
セレスが目を閉じた。三秒で寝た。精霊の即寝は、毎回すごい。
渡空魚は寝床の周りをゆらゆら泳いでいる。
トワはこれで四つの心臓を見た。
あと二つ……根守の記憶と、一人目の旅人の記憶。
六つ全部見たら、一人目のことが全部わかる。全部わかったその先に、観測点がある。
まだ少し遠い。でも確実に近づいている。歩いているから。
原初の歩法のATKボーナスが、眠っている間にもじわじわ上がっている気がした。寝返りも歩行に含まれるのだろうか。含まれないだろう、たぶん。




