素足の旅人
グランと歩くのは、不思議な体験だった。
トワが歩くと足跡が光る。グランが歩くと草が揺れる。靴を履いていないから、裸足の足が直接草に触れる。触れた草がざわめくように揺れて、波紋のように広がる。
「グラン。あんたが歩くと、草が反応するな」
「昔からそうだった。この草は、わたしの足を覚えているんだ」
「何千年も、前の足を?」
「草に時間の概念はない。昨日踏まれた草と、何千年前に踏まれた草、どっちも同じだ」
名前のない世界では、時間にも名前がない。だから何千年前も、昨日も同じ。理屈はわかるが、感覚がついていかない。
渡空魚が十二匹、トワの後ろを泳いでいる。グランの方には寄っていかない。
「お魚さんたち、グランさんには近づかないですね」
「わたしは名前をつけていないからな。あの魚はトワが名前をつけた。トワの子供たちだ」
「子供って言い方は、違和感があるが……」
「子供だよ。名前をつけた者は親だ、この世界では」
集落に着いた。マルが走ってきた。
「トワ! 今日も来たのね……あ」
マルがグランを見て、止まった。
目が大きくなって、口が開いて、閉じた。また、開いた。
「……あなたは」
「久しぶりだな」グランが言った。
「久しぶり……久しぶりって……あなたは、どうして。ずっと、ずっと、ここにいなかったのに」
「ああ……始まりの町に行っていた。待つ場所を、変えたんだ」
「知ってる。あなたが行っちゃった後、集落のみんな、寂しかった」
「そうだな……すまなかった」
「謝らないで。帰ってきてくれたのなら、それでいいから」
マルがグランの手を取った。小さい手が、老人の手を引っ張った。集落の中を走り回った。NPCたちが次々と顔を上げた。グランを見て、目を見開いた。
「帰ってきた……おい見ろ、あの旅人だ!」
「帰ってきたんだ!」
「あの人だ、あの人が帰ってきた!」
NPCたちがグランの周りに集まった。手を触っている。服を引っ張っている。泣いている者もいた。
「あなたのおかげで、いまの私たちがいる」
「あなたが歩いて、私たちが生まれた」
この集落は、グランが何千年も前に作ったものだった。
そこに命が生まれ、NPCたちが集落に定着した。
「グラン.この集落は、あんたが作ったのか」
「作ったというか……歩いていたら、できた。足跡から生き物が生まれて、生き物が集まって、集落になった。あの人と二人で歩いていた頃は、もっと賑やかだった」
「あの人……一人目の旅人のことか」
「あの人が名前をつけて、わたしが場所を作った。あの人は名前をつけるのがうまかった。見て、理解して、一番ぴったりの名前を選ぶ。わたしはその横で……場所を整える係だった」
「名前をつける者と、場所を作る者」
「だから二人で、ちょうどよかったんだ」
◇
集落を出て、始まりの道を歩いた。グランが先導する形になった。
分岐点のベンチに着いた、守苔が石を覆っている。
グランがベンチの左側に座った。
「ここで待っていた」グランが草原を見ていた。「あの人が右の道に行った後、ここに座って待っていた……何千年も」
「何千年も……ここに」
「待ってる間にベンチの石がすり減った。苔が生えて、石を守ってくれた。あの苔がなかったら、ベンチは風化して消えていただろう」
「守苔か……あの苔に、守苔という名前をつけたんだ」
「知っている。……いい名前だ、あの苔にふさわしい」
グランがベンチの石を撫でた。
「あの人はここに座って——こう言ったんだ。『帰ってくる。必ず帰ってくる。だから待っていてくれ』」
「穴の縁にも、同じ言葉が刻んであったな」
「二回言ったからな。一回目がここ、二回目が穴の縁……念押しだ。律儀な人だったからな」
律儀。一人目の旅人を「律儀な人」と呼ぶグランの口調は、懐かしむ声だった。
「どんな人だったんだ。一人目の旅人は」
「お前に似ている」
「俺に……?」
「歩くことしか考えていない。全部見たい、全部知りたい。自分の足で、自分の目で。……一つだけ違うのは、あの人は一人で歩こうとしたことだ」
「一人で……」
「わたしがいるのに。一緒に行こうと言ったのに。『お前には危険だ』と言って、一人で行った」
グランの声がほんの少し硬くなった。
「危険だと言われて——素直に待ったのか」
「待った。あの頃のわたしは、あの人の言うことを聞いていた。あの人が行くと言えば送り出し、帰ると言えば信じて待った」
「今は?」
「今は待たない。——自分で行くさ、お前と一緒に」
グランがベンチから立ち上がった。
「もう座らない。このベンチに座る日は終わりだ」
杖を地面に突いた。
こつん。いい音がした。
◇
右の道に入った。藍色の世界、夜の道。
グランが裸足で夜の草を踏んでいく。
「ルーナ」グランが呼んだ。
ルーナが影の中から顔を出した。
「なに」
「この道は、お前の力が一番通りやすい。先を照らせるか」
「照らすというか……暗い中で見えるようにすることならできるよ」
「やってくれ。わたしの目は老いている。暗い道は、足元が怖い」
「……うん」
ルーナが影を広げた。影の中に紫の光が走る。暗い道が、うっすらと紫色に染まった。暗いまま見える。不思議な感覚だった。
「ありがとう。……やはりお前は夜の精霊だ」
「グランに褒められると……なんか、照れる」
「照れるな、ほんとのことだろ」
星の湖に着いた。グランが湖のほとりに座った。
「この場所が、好きだったんだ」
「セレスが教えてくれたよ。あんたが、この場所で待っていたと」
「ベンチに座るのに疲れた時は、ここに来た。星を見ていると、待つことが少しだけ楽になった」
湖に星が映っている。水面が揺れない、完全な鏡みたいに。
「トワ」
「何だ?」
「あの穴の先に行く時が来たら——わたしの力も使え。二人目の旅人の力は、この世界と繋がっている。足跡の波紋――草を揺らす力、世界に触れる力。それが、お前の歩く道を支える」
「……ああ」
「それと——お前の仲間も連れてこい。薬師のお嬢さんだけじゃなく、呼びたい者がいるなら」
「考えておく」
「考えておけ。……一人で行って失敗した者がいる、一人で行くな」
タマキが湖のほとりに座った。硝子蛙が鞄からけろっと顔を出した。渡空魚がぱたぱた湖の上を泳いでいる。セレスがグランの膝に乗った。
「グラン。ここ、すきだったんでしょ」
「好きだった」
「セレスもすき。ほしがきれい」
「ああ……星がきれいだ」
「じゃあ、いっしょにみよ。いまは、ひとりじゃない」
グランが目を細めた。
「ああ。——一人じゃない」
三人と精霊二体と虫とカエル一匹と渡空魚十二匹で、星の湖を見ていた。
水面に星が映っている。
ずっとこうしていたい、と思える時間だった。でも、永遠にこうしてはいられない。穴の先に、帰ってこなかった人がいる。
帰らせないと。
グランが何千年も待った相手を、迎えに行く。




