桜
三月下旬。現実世界。
桜が咲き始めていた。三分咲き。来週には満開になるだろう。
日曜日の午後。冬夜と宮瀬が大学の近くの並木道を歩いていた。
「久坂くん、春だね」
「ああ」
「去年の春は──覚えてる?」
「覚えている。お前がBCOを始めた頃だ」
「そう。去年の今頃、わたしはBCOの初心者で、スライムにヒールを唱える練習をしてた。久坂くんが、わざと弱く戦って、わたしに回復の練習をさせてくれた」
「あの時は、Lv10のオークにわざと殴られていたな」
「BCO最強のプレイヤーがオークに殴られてるの、今思い出しても面白いよね」
「面白くはなかったぞ。痛いという、嫌なフィードバックがあるゲームだ」
「でも、わたしのためにやってくれた」
「練習のためだ」
「──うん。練習のため。わたしも、そう思ってた。最初は」
宮瀬が立ち止まった。桜の木の下。花びらが一枚、宮瀬の肩に落ちた。
「久坂くん」
「なんだ?」
「蓮くんの本、読み返したの。『七千時間の旅路』。三回目」
「三回も読んだのか」
「三回読んで、三回泣いた。──でもね、三回目に気づいたことがあるの」
「何にだ?」
「主人公が、旅の途中で変わっていくの。最初は一人で、何も求めずに歩いていたのに、仲間ができて、名前を呼ぶようになって、笑うようになって。──蓮くんが書きたかったのは旅じゃない。旅を通じて、人が変わることだったんだって」
「蓮に言え、本人が喜ぶぞ」
「言ったよ。蓮くんは『やっと気づいたか』って言ってたもん」
「なるほど……蓮らしいな」
「久坂くん。──久坂くんも、変わったよね」
「そうか、俺は変わったか?」
「去年、オフ会で『大学の友人』って紹介した人が。今はこうして、桜の下を一緒に歩いてる」
冬夜は黙って歩いた。桜並木を目に映しながら、特に否定することも、相槌を打つこともなく。
「あの時、『いつか違う言葉が見つかるかもしれない』って言ったよね」
「……確かに、そう言っていたか」
「『違う言葉』は――見つかった?」
冬夜は、ぴたりと足を止めた。
七千時間以上も、歩いてきた。ゲームの中で、見聞録で世界を読み、足の裏で地形を感じつつ、一歩ずつ踏破してきた。だが、現実の一歩は、ゲームの一歩より遥かに重い。
「……見つかった」
宮瀬の目が大きくなった。
「見つかった……の?」
「ああ──だが、言葉にするのが下手だ。七千時間歩いても、会話は上手くならなかった」
「いいよ、下手でも。──聞かせて?」
「お前は……俺の隣を歩いている人だ。友人や、パーティメンバーや、薬師とかじゃない。──『隣を歩いている人』。それが、一番正確な言葉……だと、思う」
「……それ、告白?」
「告白──ではないと思う。あくまでも、事実の報告だ」
「事実の報告で泣かせないでよ」
宮瀬が目を擦った。笑いながら泣いている、うれし泣きだ。
「久坂くん。──わたしも同じ。『久坂くんの隣を歩いている人』……それが、わたし」
「ああ……そうだな」
「来年も?」
「来年も、再来年も。──歩き続ける限り」
「旅人の告白だね。──歩き続ける限り、って」
「告白ではない。事実の──」
「もういいよ。事実でも告白でも。──わたしは、嬉しいから」
桜が舞っている。三月の午後。春の入口。
手は繋がなかった。でも肩が触れていた。いつもの距離。いつもの二人。
──これでいい。急がない。旅はゆっくりでいい。




