《千年ぶりの客》
扉の向こうは──小さな部屋だった。
王の玉座ではない、応接間でもない。──書斎だ。古い机。本が積まれた棚。壁に地図。窓から白い光が差し込んでいる。
そして、部屋の隅にベッドがある。毛布がくしゃくしゃに丸められている。枕元に──パンの食べかすと、空の水差し。
生活感があった。千年間、ここで暮らしていた痕跡。
部屋の奥──机の前に、誰かが座っていた。
椅子に腰掛けて、本を読んでいる。旅人の服を着た──若い男。フードを被り、手には杖。ステンドグラスの絵と同じ姿。
男が──本から顔を上げた。
金色の目。疲れた目。千年分の疲れが溜まって……でも、敵意はない目。
「……来たか」
重苦しい声。光の神殿で聞いた声と同じ。だが、目の前で聞くと──もっと普通の声だった。若い男の声。少しかすれている。千年間、誰とも話していなかったから。
「聖王カレンか」
「カレンでいい。──王と呼ばれるのは好きじゃない。好きだったことは、一度もない」
カレンが立ち上がった。身長はトワと同じくらい。旅人の服。杖。──王冠はなかった、鎧も。
カレンがトワを見て──次に、六人全員を見渡した。
目が一人ずつ、丁寧に確認するように動く。
「六人。──いや、精霊が二体と、獣が一匹。総勢九か」
「セレスとルーナはにんずーにはいらない。トワのいちぶ」
「……変わった理屈だな」
カレンの口元が僅かに動いた。笑おうとして、できなかったのだろう。
「千年間……誰も来なかった。この部屋に。……管理システムが暴走してからは、わたし自身も出られなくなった」
「【闇】がシステムに食い込んでいたからだろ。俺たちは、それを破った」
「知っている。──この部屋から、全部聞こえていた。翼を六枚切り落とす音も。お前たちが叫ぶ声も。──パンの匂いも」
「パンの匂い?」
「ここまで届いた。──懐かしい、匂いだった」
トワはアイテムストレージから、エリーのパンを取り出した。
「届けに来た。聖都のパン屋エリーが焼いた。ルーチェのパン」
カレンの目が、パンに向いた。金色の目が揺れた。
「エリー……あの小さかった女の子が。まだ……パンを焼いているのか」
「お前が記憶を消しても──手が覚えていた。パンの焼き方を、ルーチェ草の匂いを」
「身体が覚えている、か」
「お前の街の住人は、全員そうだ。記憶を消されても、身体が覚えていた。手が覚えていた。お前が消しきれなかったものがある」
カレンがパンを両手で受け取った。手が震えている。
匂いを嗅いだ。ルーチェ草の香り。千年前と、同じ匂い。
千年間、誰にも会わず、何も食べず──いや、管理システムが最低限の食事を自動供給していたのだろう。だがそれは「食事」であって「料理」ではない。
エリーのパンは、料理だ。誰かが、誰かのために焼いたパン。
カレンがパンを一口、齧った。
咀嚼している。ゆっくりと。味を確かめるように。
「……おいしいな」
小さな声。かすれた声。──だが、確かに「おいしい」と言った。
「ああ……おいしいよ。──エリー」
カレンの目から涙が落ちた。金色の目から、透明な涙が。
パンを握ったまま泣いた。声を出さずに。千年分の涙を、一欠片のパンが決壊させた。
セレスがトワの肩の上で、じっとカレンを見ていた。
「トワ。──カレン、エリーのパンで、ないてる」
「ああ」
「おいしいもので、なくひとは、わるいひとじゃない」
タマキが泣いていた。ハルが目を赤くしていた。アストレアが目を伏せていた。ゼクスは壁にもたれて──天井を見上げていた。
シロがカレンの足元に歩み寄って──パンの欠片を見上げた。尻尾を振っている。
「……お前も、食べたいのか」カレンがパンを少しちぎって、シロに差し出した。
シロがぱくっと食べた。尻尾がさらに振れた。
「犬……ではないな。光の白狼か。──懐かしい。昔、わたしも森で白狼に出会ったことがある」
「シロっていいます」ハルが言った。
「シロ。──安直な名前だな」
「トワさんがつけました」
「旅人のネーミングセンスは、千年経っても変わらないらしいな」
「悪かったな、ネーミングセンスが悪くて」
カレンがまた口元を動かした。今度は、少しだけ笑えた。
「座ってくれ。椅子が足りないが、床でもいいか」
「床で構わない。──長い話になるんだろう」
「ああ、千年分の話だ」
六人が床に座った。シロがトワの足元に丸くなった。セレスがトワの膝の上に移動した。ルーナが影の中から耳だけ出している。
カレンがパンの残りを、大事そうに机の上に置いた。
「どこから話せばいい」
「最初からだ。お前が旅人だった頃から」
「最初から、か。──わかった」
カレンが窓の外を見た。白い光の差す窓。千年間、この窓から外を見ていた。出られない外を。
「わたしは……旅人だった。ソルシアの旅人ではない。ルミナリアの旅人だ。──この国にも、昔は旅人がいた」




