第85話 ベリローゼの故郷
マダム・エルミアルダと面会した二日後。
俺たちは、交易都市ヌスポを発って、失踪が相次いでいるという地域に向かった。
前回、律儀にメッジスたちにヌスポを離れることを伝えたら、ついて来られてしまった。
このことを教訓に、今度はレインの訓練にやって来たカンザロスにだけ、ヌスポを出ることを伝えた。
カンザロスは少々複雑な表情を浮かべたが、とりあえず了承してくれた。
エルミアルダには、俺たちがいない間に帝国から情報が届いたら、カンザロスたちの泊っている宿にも情報を届けるように手配してある。
これで、何の憂いもなく調査に向かえるというものだ。
そうしてヌスポを発って三日。
街道を歩きながら、レインが困った顔をしていた。
「メッジスさんたちに手伝ってもらえばいいのに……。」
俺が、面倒を嫌ってメッジスたちを連れて行きたがらないことに、何度目かの苦言を呈す。
ベリローゼは何も言わず、真面目な顔をして周囲を見回していた。
ベリローゼとしては、どちらでもいいという考えのようだ。
「手が必要になったら、改めて依頼をするさ。連れて行くメリットは確かにあるが、二人と情報共有しにくいというデメリットもある。」
どちらに重きを置くか、の問題でしかない。
ただ、今のところは手が必要になるかどうかも分からないので、自分たちだけで行く方を選んだ。
それだけの話だ。
人手がいる、と確定してから、改めて正式に依頼をするべきだと俺は考えていた。
「あいつらがもう少し静かな連中だったら、最初から連れて行ってもいいんだけどな。…………連れて行くと煩せえからなあ。」
「もう、またそんなこと言って。」
レインが苦笑する。
そこで俺は、先程から周囲を気にしているベリローゼに声をかけた。
「どうしたベリローゼ? 何かあったか?」
「いえ、何でもありません。」
俺が尋ねると、ベリローゼが首を振る。
「何か…………気になることでもあるの?」
「いえ、本当に何でもありませんから。」
レインも重ねて尋ねるが、ベリローゼは微笑んで否定した。
「まあ、何かあれば報告しろよ。」
「はい。」
若干、ベリローゼの態度に気になるものを感じるが、本人が言いたがらない。
(絶対に、何かありそうなんだけど。)
そう思うが、とりあえず俺たちはそのまま街道を進むことにした。
その日の夕方。
俺たちは街道沿いのムッノーバという町に着き、宿屋を探した。
ここはそこそこ大きな町で、宿屋自体も町の入り口付近だけで二つあった。
…………が、そんな好立地の宿屋に泊るわけもなく、少々奥まった安宿を探す。
そうして安宿を探している間も、ベリローゼは周囲を見回しては、少し上の空な感じだった。
「……で、何があったんだ?」
宿屋で湯場を借り、食事を済ませ、部屋に戻った時にベリローゼに声をかけた。
「先に言っておくが『何でもない』は通用しないからな。あからさまに様子がおかしいんだ。ごちゃごちゃ言わずに、何を気にしているのか言え。」
「リコ、それは……。」
「レインだって気になるだろう? あのベリローゼが上の空になるんだ。余程のことに決まってる。」
「それは、そうだけど……。」
ベッドに胡坐をかき、俺はベリローゼに「話せ」と迫った。
だが、無理矢理に聞き出すやり方は、レインとしては気が引けるようだ。
俺とレインの視線を受け、ベリローゼが椅子から立ち上がる。
恭しく頭を下げ、謝罪した。
「申し訳ありませんでした。以後、気をつけ――――。」
「だ か ら、んなこたーどうでもいいんだよ。いいからわけを話せ。気になるわ!」
被せて俺が言うと、ベリローゼが少し困った表情になる。
「…………これは、とても個人的なことなのですが……。」
「個人的……?」
それはそれで、非常に珍しいことではあった。
あのベリローゼが、個人的なことを気にするとは。
基本的にベリローゼは、俺やレインを優先して行動を選択する。
ベリローゼが『使用人』という立場にこだわるなら、それはごく自然なことだ。
俺は、ベッドの上で転がって遊んでいたピイを持ち上げ、膝の上に置いた。
「何だ? 知り合いでも探していたのか?」
「いえ、そういうわけではなく、何となく見覚えのある物を探していたと言うか……。」
「…………どういうことだ?」
いまいち要領を得ないベリローゼの話に、俺は続きを促す。
「その……何となく憶えている気がしまして。それで……。」
「憶えてる? ベリローゼは、この辺りに来たことがあるのか?」
どうにもベリローゼの言うことがはっきりしない。
むしろ、これは本人も戸惑っている……?
「あー……、まず確認したいんだがな。その『憶えてる』ってのは、何のことだ? 道中でも周りを気にしていたよな? ってことは、街道の風景に見覚えがあったってことか?」
俺がそう言うと、ベリローゼが頷いた。
「まあ、街道の風景なんざ、どこも似たような感じだとは思うが……。それでも、この辺りの風景に見覚えがあるように感じたってことか?」
「はい。」
ベリローゼがはっきりと肯定したことで、凡そのことに見当がついた。
本人にもはっきりしない物を探していたのだから、深く突っ込まれても困る、というのは理解できなくはない。
「それなら、周りを気にしていたのも納得だが…………ベリローゼが、そこまで気にするのが引っかかるな。」
昔に来た場所を、何となく憶えているというのは、俺にも経験がある。
何気なく、見覚えのある物を探してしまう感覚も、分からなくもない。
だが、上の空になるほど探すものだろうか?
「いつ頃来たんだ?」
「それは…………分かりません。」
「分からない?」
思わず、レインと顔を見合わせる。
俺がどう確認しようか考えていると、ベリローゼが自分から話しだした。
「おそらく、三つか四つくらいのことだとは思うのですが……。父や母と一緒に、馬車で通った憶えがあるのです。」
「ちょ、ちょちょ、ちょっと待って! ベリーちゃんの、お父さんとお母さん!?」
ベリローゼの話に、レインが大きな声で確認する。
「ベリーちゃん、孤児だって言ってなかった!?」
「っ!?」
そうだ!
元々は孤児で、幼い頃に誘拐された、というような話をしていた。
ベリローゼと初めて会った時、俺はずっと疑っていた。
気配を消すことの得意なベリローゼが、気配を感じられない山賊の仲間ではないか、と。
その時、ベリローゼは自分の生い立ちを語ったのだ。
俺とレインが驚いた顔をすると、ベリローゼは困ったような顔になった。
「私が孤児であったことも事実です。…………その頃に、家を出ることになったからです。」
「どういう、ことだ?」
俺がそう尋ねると、ベリローゼはぽつりぽつりと語り出した。
まるで、自分でも思い出しながらのように。
幼い頃の記憶には、小綺麗な屋敷があるという。
庭には花畑もあり、使用人や庭師も雇っていた。
おそらく父は、商会を営んでいたのではないか、と今にして思うそうだ。
だが、この記憶は本当に微かなものでしかない。
なぜなら、すぐに屋敷を出ることになったから。
なぜ出ることになったのかは、分からない
父に追い出されたのか、商売に失敗したのか。
ベリローゼが比較的しっかり憶えているのは、移り住んだぼろぼろの小屋と、疲れ果てた母の姿だった。
幼いベリローゼを育てながら、母は懸命に働いた。
しかし、元々が病弱だったのか、無理が祟ったのか、母はすぐに亡くなったらしい。
ベリローゼが五歳の時だ。
母の葬儀は、おそらく近所の人が手配してくれたのだろう。
わけも分からぬうちにすべてが終わり、そして…………ぼろぼろの小屋からも追い出された。
ベリローゼは独りになった。
いきなり外に放り出され、これからは一人だけで生きていかなくてはならない。
「ですが…………できるわけがありませんでした。」
年齢のことを考えれば無理もないことだし、そもそもベリローゼは母親の手伝いくらいしかしたことがない。
何をどうすればいいのか分からず、裏路地で膝を抱えて泣くことしかできなかった。
「ベリーちゃん……。」
ベリローゼの話を聞き、レインが泣きそうな顔で呟く。
そんなレインに、ベリローゼが優しく微笑む。
「それでも、貧民窟というのも、案外捨てたものではありませんでした。」
膝を抱えて泣いていたベリローゼに気づき、助けてくれた孤児たちがいた。
「路上で生活する孤児たちは、みな同じように、ある日突然一人になるのです。そのため、かつての自分たちと同じように、いきなり孤児になって右も左も分からない子供は、なるべく保護するような流れになっていました。」
孤児たちはお互いに協力し合い、裏路地で共同体を形成していた。
ベリローゼにも役割が与えられ、決められた場所で旅行者などを狙って、物乞いをすることになった。
いきなり怒鳴られたりして怖い思いもしたが、それでも少しは稼ぐことができた。
そうして稼いだお金は、コミュニティ全体のものとして、自分で使うことはなかったという。
それでも、少ないながらも一日に二回は食事が貰えたし、何より同じような境遇の子供たちが周りにいることで、安心が得られたので不満はなかったそうだ。
ベリローゼが俺の方を見て、にっこりと笑う。
「そうやって物乞いをしていた時に、たまたま見かけました。」
「…………? 何をだ?」
ベリローゼが何のことを言っているのか分からず、聞き返す。
「捨て犬を拾ってくれる人をです。優しそうな人が拾っていくのを見て、羨ましく感じたのを憶えています。」
「……………………あれか。」
最初に出会った時、ベリローゼが木箱に入っていたことだろう。
前に「子犬を拾ってくれる人を見た」というのは言っていたが、ベリローゼはその子犬のことが心底羨ましかったらしい。
まあ、境遇を考えれば、そう思ってしまうのも無理ないのかもしれないが……。
だが、そんな生活もすぐに終わりを告げた。
「ある日、仲間の一人が大はしゃぎで戻ってきました。」
その男の子は、新たに作られる孤児院の話を拾ってきたのだ。
孤児院の院長という人が、コミュニティの全員を保護してもいいと言ってきたらしい。
それを聞き、俺は大きく溜息をついてしまう。
「…………それが、使用人協会か?」
「はい。」
うますぎる話に警戒する子供もいたし、実際コミュニティから離脱した子供もいたそうだ。
しかし、ベリローゼを含む大半の子供が、その孤児院の話に乗ってしまった。
差し入れられた沢山の食事を、みんなで泣きながら食べた。
信じられないほど美味しいスープもあり、久々にお腹いっぱいになった。
そうして、いつの間にか眠ってしまっていた。
気がついた時には猿ぐつわをされ、手足を縛られ、数人ごとで箱詰めにされていた。
長い長い道中、食事の時以外は箱の中。
箱に入るのを嫌がった子供や騒いだ子供は、見せしめに殺された。
「…………分かった。もういい。」
ベリローゼの話を遮り、俺は首を振った。
「すまなかった。嫌なことを思い出させて。」
「いえ。もう、済んだことですから。」
ベリローゼはそう言うが、目を閉じ、何かを堪えるように唇を引き結ぶ。
「…………ベリローゼが元々暮らしていた屋敷ってのが、この町にあるのか?」
「おそらく、ですが。」
「家の名前は?」
「ヨーフス、です。」
ベリローゼ・ヨーフス。
これが、ベリローゼの本当の名前らしい。
「もう十年以上も前のことではあるけど、それなりの家だったのなら、当時のヨーフス家の事情を調べることもできると思うぞ?」
商会だったのか、大地主だったのか、代々の資産家なのかは分からないが、そうした家の騒動なら憶えている者もいるだろう。
そう思って提案してみるが、ベリローゼは首を振る。
「私はもう、あの家とは何の関係もありませんから。没落していようと、隆盛を誇ろうと、他人の家のことに興味はありません。」
「そうか……。」
本人がいいというのを、無理に調べることもないだろう。
どちらにしろ、俺自身が共和国の情報屋ギルドとは関わりづらい立場だ。
調べるとしても、ヌスポに戻ってターラッツォに相談するのが一番だろう。
「お母さんのことは、確認しなくてもいいの?」
レインが、亡くなった母親のことを尋ねる。
もしかしたら、どこかにお墓があってもおかしくない。
もっとも、話を聞く限りでは、しっかりと弔われているとは思えないが。
「おそらく、共同墓地に入れているだけでしょう。わざわざ調べてまで、墓参りするほどではありません。」
「…………本当に、いいのか?」
重ねて確認するが、ベリローゼははっきりと頷いた。
本人は、完全に過去と決別してしまっているようだ。
あまり良い思い出でもないようだし、掘り下げるのも悪いか。
(でも、少し気になるのは気になるな。屋敷を出た後、父親には一度も会っていないようだし。父方はともかく、母方の親族とも関係が断たれているのか……?)
どんな事情があったのか、調べておいた方がいい気はする。
ヨーフス家に何が起こったのか。
なぜ、母親とベリローゼは、屋敷を出なくてはならなかったのか。
なぜ、父親は姿を見せなかったのか。
母方の親族は?
その結果を、ベリローゼに教えるかどうかは別にしても。
「分かった。まあ、無理強いはしないさ。」
俺があっさり受け入れると、レインが複雑な表情をする。
俺としては、こんなことで押し問答するくらいなら、裏でさっさと調べるだけなんだが。
「レイン。人には事情はそれぞれだ。お前だって、何年墓参りしてない?」
「うっ!?」
俺がツッコミを入れると、途端に苦し気な表情になった。
その顔を見て、俺とベリローゼは笑う。
何の因果か、天涯孤独の身の上が、三人揃ったわけだ。
こんな殺伐とした世界じゃ、然して珍しくもない話ではあるが。
俺はピイの身体を撫でながら、レインとベリローゼを見た。
「明日は早くに発つぞ。今日は早めに休もう。」
「ええ、分かったわ。」
「かしこまりました。」
俺の提案に、二人はいつも通りに頷くのだった。
■■■■■■
【ロズテアーダ修王国 聖都アーズズ】
奥の院と呼ばれる、修王の修行場。
この、修王と大修しか入ることの許されない修行場で、まさに今修行が行われていた。
石造りの修行場の壁には、薄っすらと霜が張りついていた。
修行場の中には、無数の篝火。
酸欠を起こしかねない数の火が焚かれながら、壁には霜がついている。
霜は、壁だけではない。
石畳にも霜が張りついては、溶けていく。
先程から、その繰り返しだった。
「猊下……。」
十六人の大修が、修行場の中央を見つめる。
修王は現在、修行場の中央に立ち、オーラを纏って仁王立ちしていた。
だが、それは不思議な光景だった。
修王の足元から氷が上がり、膝の上まで凍りつかせる。
しかし、その氷が瞬時に溶けた。
すると、再び氷が足元から上がり始める。
先程から、その繰り返しだった。
大修の一人が、額の汗を拭う。
おそらく、この修行場の温度は真夏を超えているだろう。
それなのに、足元に霜がついては、消える。
修王の足を凍らせては、溶ける。
異常すぎる異常に、流れる汗が暑くて掻いているのか、冷や汗を掻いているのか、自分でも分からなかった。
「あれは!?」
一人の大修が声を上げると、修王の足元の氷が、一気に伸びた。
一瞬にして、修王の頭からつま先までを氷漬けにした。
「げ、猊下!」
「どうか、猊下っ……ご無事で……!」
十六人の大修たちは、全員が修王から視線を逸らさない。
修王は今、戦っているのだ。
修王を氷漬けにしようとする力と、それを阻害する力。
二つの力は拮抗していたが、ついに修王が飲み込まれてしまった。
修王は今、九百九十九個目の修行という、誰も成し遂げたことのない偉業に挑んでいた。
その姿から目を逸らす不心得者は、一人もいなかった。
たとえ、その修行の果てが、修王の死であっても……。
「……み、見ろ!」
その時、修王を飲み込んだ巨大な氷に、ヒビが入り始めた。
見る間にヒビは広がっていき、破砕する。
ガシャーーーンッ!
砕けた氷が弾け、大修たちに降り注ぐ。
大修たちは氷を払いながら、修王を凝視した。
修王の身体からは、様々な色のオーラが立ち上っている。
「おおっ、……猊下!」
オーラを纏っているということは、修王が無事であることの何よりの証左。
大修たちが安堵の息を漏らしたと同時に、再び氷が足元をからせり上がる。
「…………もはや決した。つまらん足掻きはよせ。」
修王は呟き、足元の氷を踏みつけ、粉砕した。
「フゥーーーーーーーーーーーッッッ!!!」
大きく息を吐き出すと、その身体を包み込んでいたオーラが鎮まる。
俯いていた視線を上げ、一歩、一歩と正面の大修に近づく。
「修王、猊下……。」
大修たちは感動に打ち震え、跪いた。
その、神々しい修王の姿に、涙を流す。
そんな大修たちに構わず、修王は篝火にあたり始めた。
「さすがに、老体にこの寒さは堪えるな……。」
その呟きを聞き、大修の一人が慌てて立ち上がる。
「猊下にお召し替えを! 羹を持て!」
「「「ははっ!」」」
その指示に、大修たちが一斉に立ち上がり、準備を始める。
指示を出した、五十代半ばの大修が修王に跪いた。
「猊下、九百九十九個目の修行の完遂、おめでとうございます。」
「ああ。」
修王は衣服を脱ぐと、用意された布で身体を拭く。
溶けた氷により、修王の身体は全身が濡れていた。
その肉体の、なんと頑健なことか。
齢七十を越えてなお、衰えとは無縁。
そう、大修たちは思うのだが、当の本人の最近の口癖は「年は取りたくないな……」だった。
もっとも、そんな軽口を聞ける者は、大修たちの中でもほんの一握りの者だけだが。
大修たちが篝火は片付けていき、修王の周りに置いた、数個を残すのみとなった。
三十代前半に見える比較的若い大修が、お盆に器を載せて、修王の下にやって来る。
衣服を着替えた修王は、羹を啜り、一息ついた。
この修行場は無数の篝火によって、元々真夏を超えるような暑さだった。
普通なら、そんな中で羹を啜るのは、それだけで苦行のようなもの。
だが、修王は本当に美味そうに、羹を啜る。
それだけ、身体が冷え切っていたのだ。
身体の、芯から。
「ほぉぉーー……。」
羹を飲み干し、修王は長い息を漏らす。
空になった器を若い大修に返すと、修行場を出た。
現修王クベイトスが、ついに九百九十九個もの修行を完遂させた。
この事実を知る者は、大修の位階に在る者だけ。
修王の修行そのものを秘しているため、一般に公表することも、大修でない者に漏らすことも許されない。
このことを、大修筆頭とされるニゼシャイラは、非常に残念に思っていた。
これほどの偉業を成し遂げた者は、過去の修王にもいない。
残された修王の修行は一つのみで、クベイトスならば必ず完遂するだろうと、ニゼシャイラは確信していた。
ニゼシャイラ自身は、もはや修王となることはない。
すでに五十五歳となり、修王となるには遅すぎるからだ。
修王に即位するのは、五十を迎える前の者が良いとされる。
就任後に、修行を行う時間を確保するために。
ニゼシャイラは三十八歳の時に、千修教の修行をすべて修め、大修となった。
これは、大修への就任としては早い方だ。
初めて修王の修行のことを教えられた時、自身が修王となることも考え、野望を燃やしていた。
だが、そんな自信はあっという間に砕かれる。
当時すでにクベイトスが修王に就いていたが、その修行の凄まじさに慄いたのだ。
ニゼシャイラから見ても、当時のクベイトスは遥か高みの存在だった。
そのクベイトスが、血反吐を吐き、のたうち回っているのだ。
なぜ、このような修行を他の大修たちは黙って見ているのか。
そのことに憤り、修行を中断させようとさえした。
だが、その場で他の太守たちに叩きのめされた。
「猊下の務めを愚弄するか! 不心得者がっ!」
そう、大喝された。
聞けば、代々の修王は、こうして務めを果たしてきたのだという。
それから十七年の歳月が流れ、ニゼシャイラはクベイトスの修行を見続けてきた。
途中、地方の統治を任され、聖都アーズズを離れていた時期もあり、すべてを見届けてきたわけではない。
それでも、クベイトスが修行を一つ、また一つと完遂するたび、その事実は報告が届いていた。
報告を受けるたび、クベイトスの滅私の姿勢に、心から崇敬の念が湧いた。
修王自らが、あれほどの苦行を耐えているのに、自分が怠けるわけにはいかない。
自然と、そう思うことができた。
現在、ニゼシャイラは修王国で相国という立場にある。
これは、帝国でいう宰相にあたる地位だ。
いや、宰相よりも権限は大きいかもしれない。
修王に報告、確認をしなくても、あらゆる国家権力を行使する権限が与えられているからだ。
一応、形の上では皇帝にお伺いを立てなくてはならない帝国の宰相よりも、制度上は権限が大きいと言えだろう。
相国であるニゼシャイラの下に、各大臣を務める大修や、地方を任された大修たちが置かれ、すべての権限を掌握する立場。
これは、皇帝の下に宰相とすべての大臣が置かれる帝国とは、大きく異なる点だ。
とはいえ、こんなものはあくまで組織として必要なために作られた仕組みに過ぎない。
巨大国家となったロズテアーダ修王国を運営するためには、こうした仕組みにした方が都合が良かった、というだけの話。
修王がいちいち裁可を下していては修行がままならないため、相国の地位にある者が代行できるようにした。
それだけの話だった。
何より修王の身に、修行中に万が一があった場合のことを想定した仕組みと言えた。
修王が命令を下せない事態に備え、普段から相国に権限を集中させておいた結果である。
きっと、相国が良からぬことを考えれば、修王国を好き放題にできるだろう。
だが、そのような例は過去にも皆無だった。
修王の務めを目の当たりにし、何も感じないような者は、そもそも千修教の修行をすべて修めるようなことはできない。
ひたむきに教えに向き合い、修行を修めた者が堕落することはないと言えた。
もっとも、修王の目は誤魔化せないし、何かあれば他の大修たちすべてが敵に回る。
周囲の者に「堕落している」と見做されれば、大修という一流の武僧たち数十名が敵となり、排除されるのだ。
このような環境にあれば、どんな怠け者でも背筋を伸ばさざるを得ないだろう。
修王の修行を見届けたニゼシャイラは、その後仕事に戻った。
黙々と仕事をこなし、ほぼすべての書類を片付ける。
そうしてニゼシャイラは、いくつかの書類を抱え、クベイトスの私室に向かった。
権限としては修王の裁可を必要としないが、普段から重要な事柄は、修王に報告するようにしていた。
クベイトスの部屋に着くと、警備の僧兵が敬礼する。
軽く返礼したところで、ドアが開けられた。
大修の中ではもっとも若い、キアフレゾが中から開けたのだった。
キアフレゾは、現在三十二歳。
一年前から大修となった新米だ。
優しそうな眼差しを持つが、その才は桁違いだった。
現在は、クベイトスの身辺警護役兼世話役のような立場である。
一応、他の役職にも就いているのだが、クベイトスの意向によりほぼそちらは名前だけになっていた。
三十八歳で大修となったニゼシャイラでさえ、早い方とされる。
だが、キアフレゾはそんなニゼシャイラよりも七歳も早く大修となったのだ。
現修王クベイトスに次ぐ才能の持ち主と、もっぱらの噂である。
「ニゼシャイラ様、こちらへ。」
おそらく部屋の中から、ニゼシャイラの来訪を察知したのだろう。
キアフレゾは特に驚くこともなく、クベイトスの方へ案内する。
もっとも、それはニゼシャイラも同じ。
キアフレゾが中からドアを開けようとしている気配は、ニゼシャイラも感じていた。
案内されると、クベイトスは大きな地図をテーブルに広げていた。
一辺が三メートルにもなる、大陸の地図だ。
地図の上にはいくつもの駒が置かれ、レーキという棒を使って、その駒を動かしていた。
ニゼシャイラはテーブルの反対側に立つと、敬礼した。
「猊下。ご報告をよろしいでしょうか。」
「…………ああ、構わん。」
クベイトスはジッと地図を見ながら、駒を動かす。
ニゼシャイラは、特に気にすることなく、そのまま報告した。
「国境付近で、共和国軍の部隊と思われる一団が壊滅していた件ですが――――。」
いくつかの重要案件を報告し、その都度了承を得る。
「共和国の評議員のうち、こちらの提案に乗ってきたのはこれで――――。」
基本的に、すべて対応案は定まっていた。
クベイトスは、ただ是か否かを言うだけ。
「最後に、前線の状況ですが。」
そうして、最新の共和国と帝国の、国境の情報を報告する。
最新とは言っても、さすがに距離があるために、一カ月くらいのタイムラグがある。
急げばもっと早くに届けられるが、通常の報告であればこの程度の鮮度で十分。
もしも開戦のような大きな動きがあれば、途中の報告を追い越して、情報が届けられる手筈だ。
「――――以上となります。」
「分かった。ご苦労。」
然程意外な報告はなく、クベイトスはほぼ聞き流すようにして報告を受けた。
現在、クベイトスの一番の関心事は別にあるため、それも仕方がない。
「まだ、見つけられませんか……?」
ニゼシャイラがそう尋ねると、クベイトスが小さく頷く。
「まったく、…………困ったものよ。」
今日、九百九十九個目の修行が完遂した。
それはつまり、修王の修行も残すところあと一個ということである。
だが、困ったことに、最後の一個は修行を行う準備が整わないでいた。
クベイトスが難しい顔をして、顎を撫でる。
「共和国内に、それっぽい痕跡があったようなのだがな……。」
「そうなのですか?」
ニゼシャイラたちが手伝えるものなら、いくらでも手伝うところだが、これは残念ながら手伝うことができない。
クベイトス自身が、何とかするしかなかった。
クベイトスは、手にしていたレーキをテーブルに置き、肩を竦める。
「さすがに、気まぐれが過ぎるぞ。オーゼスツイド。」
まだ、すぐに次の修行を行うことはできない。
十分に休息を取り、万全の状態を整えなくてはならない。
しかし、こちらが万全となっても、準備が整わないことにはどうにもならなかった。
クベイトスは駒の一つを手に取り、握り締める。
パキ……ゴリッ……!
駒は、いとも簡単に壊れた。
「…………何か、手を考えるか。」
そう呟くと、クベイトスは窓から見える空を睨むのだった。




