第86話 総大主教の導き
ヌスポの街を出て八日目。
ようやく俺たちは、ある町に到着した。
ここはまだ、失踪者が相次ぐと言われる村ではない。
この町からも失踪者は出ているが、人数は少ない。
エルミアルダに聞いた話では、この町での失踪者は今年に入って一人だけだ。
これでは、個人的な理由で失踪したのか、それとも別の理由で失踪したのか、特定は難しい。
この町は、あくまで中継地点。
大きな街道が通っているのがここまでで、この先は街道から外れたルートを通ることになる。
とはいえ、行き方としてはそう難しい話ではない。
この町の北東に大きな森があり、この森に沿って東に移動すれば、次の村がある。
その村での失踪者は男性一名、女性一名の計二名。
その村を越え、さらに森沿いに進んだ先にも村があり、この村こそが俺たちの目的地だ。
然程大きくない村で、住人は四百人ほど。
しかし、そんな規模の村で、今年に入って実に七人もの失踪者が出ている。
人口比で考えれば、一パーセントを超える人が、今年になって失踪した。
次に失踪者が出れば、二パーセントだ。
これは、あまりにも異常な数値と言えるだろう。
■■■■■■
そうしてヌスポを出て、十日目の夕方。
俺たちは、失踪者が相次ぐ村に到着した。
村の入り口から見た感じは、ごく普通の村だ。
すぐ近くに食堂兼宿屋のような店があり、他に数軒の雑貨屋や食料品店が並ぶ。
もしかしたら、これで村の商業施設はすべてかもしれない。
まあ、村の規模を考えれば、この程度が妥当なところか。
村に入ると数人の村人を見かけるが、あからさまに奇異な目を向けられた。
多分、こうして余所者が訪れること自体が稀なのだろう。
とりあえず、俺たちは宿屋に直行する。
一階の食堂に入ると、一つのテーブルに着いた四人の客がいた。
やはりジロジロと不躾な視線を向けられるが、気にしても仕方がない。
ベリローゼが、食堂の親父に宿に空きがあるかを尋ねる。
「ツインの部屋はありますか? 一部屋借りたいのですが。」
「一部屋?」
食堂の親父が、怪訝そうに俺とレインを見る。
まあ、三人の客がツインを一部屋と言えば、こうした反応になるのは当然だろう。
「トリプルがあれば、それでも構わないのですが。」
「ああ、三人部屋が一つある。そこが空いてる。」
珍しく、この宿では三人部屋というのがあるらしい。
普通、ツイン以上の部屋となると、四~五人が泊るような大きな部屋になることが多いのだが。
「一晩で一万ペイルだ。」
しかし、宿泊代は高かった。
俺たちが普段使っているような安宿では、三人でだいたい六千~七千ペイルくらいか。
この値段では、安宿なら大部屋を借りるのと大して違いがない。
ベリローゼが判断に悩み、眉間に皺を寄せて振り返る。
俺は、そんなベリローゼに頷いた。
「分かりました。とりあえず、三日ほどをお願いします。もしかしたら延長するかもしれませんが。」
そう言って、ベリローゼが大銀貨を三枚渡し、鍵を受け取る。
俺たちは入り口の横にある階段を使い、二階に上がった。
二階の一番奥の部屋が、三人用の部屋だ。
廊下にはいくつかドアが並び、ドアの間隔から推測するに、一人用が三部屋、二人用が一部屋、三人用が一部屋といった感じか。
どうやら、それ以上の大きさの部屋は、そもそもないらしい。
突き当たりの部屋に入り、ほっと一息つく。
「…………高くない?」
それまで黙っていたレインが、開口一番に文句を言った。
それを聞き、俺は窓を開けながら苦笑する。
開けた窓から、素早くピイが入ってきた。
「こんな不便な村じゃ、客自体がほとんどいないんだろう。宿屋があるだけマシさ。嫌なら泊まらなければいいってだけだしな。」
「そうかもしれないけど。」
競争が働かないのだから、なるべく高く値付けをしたいと考えるのは当然のことだ。
一晩十万ペイルだとしても、泊まる奴は泊まる。
「客が少ないんだから、値段が上がるのも仕方がない。むしろ、まだまともな値付けの範囲さ。」
「そういうものなの……?」
簡単に市場原理について説明するが、レインは納得していないようだ。
リベルバースのような観光地や、帝都ならば納得もしやすい。
取り合いになるのだから、値段を吊り上げられても、仕方ないと諦めることもできる。
だが、こんな寂れた村の宿屋で、高い値段をつけられるのは納得がいかない様子だ。
「他に宿屋がないんだから、いくらに設定されても仕方がないだろ? そういうもんだと思って諦めろ。まあ、交渉くらいは構わないけどな。」
ただ、あまりごねても得することはない。
むしろ、情報収集のための料金が乗っているとでも考え、素直に払う方が得策だろう。
「これまでに起こったことを宿や食堂の奴らに聞くための、必要な費用とでも思っておけ。」
酒やメシを奢ったり、チップを握らせるくらいは、いつものこと。
割高な宿泊料金にも、文句も言わずに泊っているのだ。
その分を、情報料から差し引かせてもらえばいい。
そうしてバランスを取れば、トータルではいつもと変わらない出費となる。…………ことを目指す。
「まず、湯場で旅の埃を落として、食堂でメシだ。食いながら情報収集をするぞ。」
俺がそう言うと、レインが不承不承な面持ちで頷いた。
テーブルにじゃがいもと水を用意し、ピイには部屋でお留守番をさせる。
さすがに荷物の番などはできないので、手荷物を持ったまま一階へ戻った。
「湯場を借りるぞ。」
食堂の親父に声をかけ、階段横の通路から奥へ。
「さっき火をつけたから、まだ湯が温いかもしれん。」
どうやら、普段は宿を使う客がいないので、毎日湯場を用意しているわけではないようだ。
親父の話を聞き流して奥へ進むと、突き当たりに湯場があった。
レインとベリローゼがドアの前に立ち、置き引きに警戒する。
魔法具の袋をベリローゼに渡し、俺は脱衣所に入った。
「脱ぐ前に確認しておくか。」
そのまま湯場に入り、お湯を確かめることにした。
湯場に入ると、左の奥に水甕と竈があり、竈には鉄釜が置かれている。
焚き口が外にあるため火は見えないが、鉄釜と木蓋の隙間から、少しだけ湯気が上がっていた。
木蓋を持ち上げ、張られたお湯を見る。
沸騰はしていないが、鉄釜に気泡が立っていた。
「これなら、水の量を調節すればいけるか。」
素っ裸になった後、お湯が無くて震えるような目には遭わないで済みそうだ。
俺は脱衣所に戻り、衣服を脱ぐ。
秋も深まったため、陽が落ちるとすっかり気温が下がるようになった。
「何気に、今年ももう終わりか……。」
服を脱ぎながら、そんなことを呟く。
暦の上では、今は十二月に入ったあたり、という感じか。
勿論、この世界での暦は違う言い方にはなるが、元の世界での「今年最後の月」に相当する時期だった。
「……………………。」
今年も、もう終わる。
その事実に、胸の中にもやもやするものを感じた。
ティシヤ王国の滅亡の原因を探ると決め、もうすぐ丸七年が経とうとしている。
だが、これまでに得られた情報はあまりにも少ない。
生きるために傭兵をやっていたという事情もあるが、今のところは何一つ分かったことなどない。
その事実に、愕然としたものを感じていた。
俺は桶の一つを床に置くと、柄杓を使って鉄釜からお湯を掬う。
そうして何度か桶にお湯を入れると、今度は水甕から水を掬った。
桶のお湯に混ぜ、少し熱めのお湯を作ると、しっかりと頭を洗い、タオルで身体を拭いていった。
「…………どこかに、温泉でも湧いてないかね。」
ふと、そんなことを思いつく。
この世界では入浴という習慣がないため、風呂に浸かることがない。
だが、冷えてきた今のような時期こそ、温泉には最適だ。
「ターラッツォに聞けば、どこか知ってるかな。」
これまで情報屋ギルドから仕入れた情報は、政情や傭兵としての活動に必要なことがメイン。
たまには、こんな情報を得るのも悪くないかもしれない。
そんなことを考えながら、何度かお湯を入れ替え、身体を拭いていった。
鉄釜のお湯が減ったことで、中のお湯が完全に沸騰をし始める。
俺は、水甕の水を鉄釜に足した。
温くなり過ぎず、お湯が減り過ぎず。
そんなバランスを取りながら、清拭をこなす。
湯気が充満し、冷えていた湯場がかなり暖かくなってきた。
最後に熱いお湯を頭からかぶり、清拭を終えた。
「待たせたな。いいぞ。」
脱衣所を出て、レインとベリローゼと交代する。
今度は、俺が置き引きを警戒する番だ。
「慌てなくていいからな。」
「うん、ありがとう。」
「それでは、お願いします。」
俺はドアを閉めると軽く寄りかかり、腰に着けた魔法具の袋の具合を確認する。
さすがに三つも着けていると、着け心地は悪い。
だが、自分で買った分はともかく、収容所からかっぱらってきた分は、誰でも使える使用者登録されていない魔法具の袋だ。
常に警戒して身につけておかないと、誰に中身を盗まれるか分かったものではない。
良からぬことを考えてかどうかは分からないが、食堂の客のうちの何人かが席を立った時に、こちらをチラリと見てきた。
その都度こちらも視線を向けると、慌てて目を逸らした。
しばらくそうして見張っていると、湯場で水を流す音が止まり、脱衣所に気配が移った。
どうやら、二人とも清拭を終えたようだ。
(もっとゆっくり温まればいいのに。)
そう思うが、無防備な状態でいることが、とにかく落ち着かないのだろう。
その感覚は、俺にもよく分かる。
仲間が見張っていてくれて、安全だと分かっていても、居心地の悪さを感じてしまう。
そういう習性が、身についてしまっているのだ。
俺が寄りかかっていたドアから離れると、少ししてドアが開く。
「お待たせ、リコ。」
脱衣所から出てきたレインは、頬を上気させ、湿った髪をポニーテールにまとめている。
正直、長くて邪魔だろうとも思うが、まあ髪型についてとやかく言うのはやめておこう。
特に、女性の髪については、褒める以外はタブーだ。
元の世界では、褒めることさえタブーだったが……。
所謂、セクハラに該当するからだ。
褒めて喜ばれるのは、イケメンに限る。
一言一句、同じことを言ったとしても、どう受け取るかは相手次第。
『そういう、センシティブな話題には触れないように。』
会社の研修で、大真面目にそんな講義が行われるくらいには、デンジャラスなネタなのだ。
(……そう考えると、面倒な世界だったな。あっちはあっちで。)
いろいろ便利な世界ではあったが、ある面では非常に面倒だった。
正直、自分が気に入らないことは、何でもかんでも『ハラスメント』と声高に叫ぶ風潮には辟易していた。
それに引き換え、この世界の何と自由なことか。
ある程度の力を持たないと、生きるのもままならない世界ではあるが、自分の責任においてかなり自由に生きられる。
現代よりも、封建社会の方が自由だと感じるのもどうかと思うが、傭兵という『社会』から半歩はみ出した生き方を、俺は案外気に入っていた。
世襲が基本と知った時は絶望しかけたが、傭兵という仕事のおかげで何とか生きていられる。
不満は多々あれど、これはこれで悪くないかもな、なんて思っている自分がいることも確かだ。
俺はレインとベリローゼを伴い、テーブルに着いた。
適当にいくつか注文し、さりげなく周囲を窺う。
常連客と思しき男たちが四人、カウンターに近いテーブルで居心地悪そうにしていた。
普段なら、世間話や噂話を肴に、気分良く酒を飲んでいるところなのだろう。
だが、今日は異物が紛れ込んでいるため、口も重たいようだ。
俺たちも特に会話を交わさず、大人しく料理が出てくるのを待った。
出てきた料理は、値段の割にいまいちだった。
それでも、それなりに腹は膨れたので、文句はないが。
「レイン、まだ食えるだろ?」
向かいに座ったレインにそう聞くと、やや微妙な表情で頷く。
量的には食べられるが、味がいまいちなので、食べようか迷う、といった感じか。
「軽く摘まめる物は何がある?」
俺は、カウンターの中にいる親父に声をかけた。
「串肉なら、三本から出してる。燻製肉やチーズは盛り合わせがある。他は……。」
「燻製肉とチーズがいいな。二人前で。」
三人で軽く摘まむなら、これくらいでいいだろう。
燻製肉とチーズなら、親父の料理の腕は関係ないし。
そうして注文すると、親父は厨房に引っ込み、すぐに皿を持って出てきた。
二人前としては、少々寂しい量が乗った皿をテーブルに置く。
そのタイミングを見計らい、俺は声をかけた。
「この村で、失踪者が相次いでいるらしいな。」
途端に食堂の中が、やや不穏な空気になる。
余所者が、何しに来やがった?
こいつらのせいか?
失踪について、何か知っているのか?
そんな疑念を、客の男たちからも向けられている気配を感じた。
親父は一瞬だけ固まったが、すぐに溜息をつく。
「…………面白半分に引っ掻き回すのはやめてくれ。」
そう、重い口調で呟いた。
「面白半分じゃないさ。」
「ああ、そうかもな。だが、それで傷つく者がいることを、考えたことはあるか? まだ幼い子供を抱え、夫が行方知れずになった女房の気持ちは? 結婚を間近に控えた息子が失踪した、親の気持ちを考えたことは?」
親父にそう言われ、俺は唇を引き結ぶ。
エルミアルダから、俺は失踪者の大まかな情報を聞いている。
この村で失踪した七人は、すべて男性。
他の村や町を含めても、男性が九人、女性は一人だ。
この村に限って言えば、失踪者は十代後半から三十代前半。
これから家庭を持とうと、明るい未来を思い描いていた矢先に。
子供が生まれたと喜んでいた矢先に、失踪した者がいた。
失踪した者をよく知る者は、みな口を揃えて言っていたらしい。
――――信じられない、と。
俺は親父の言葉に反論せず、別の話を振る。
「西部の方にある、村人が丸ごと消えた村のことは?」
親父は怪訝そうな顔をするが、しっかりと頷いた。
「ああ、聞いたことはある。」
俺は僅かに俯き、悲しげな表情を作る。
「…………そこに、姉さんが嫁いでいたんだ。」
俺がそう言うと、親父は驚いた顔になる。
そうして、向かいに座ったレインも驚いた顔をしていた。
もうちょい演技しろや、お前。
「それじゃあ、もしかして……?」
「ああ、それっきりだ。話を聞いて、俺も駆けつけたんだけど、もう……。」
俺は微かに首を振り、項垂れる。
親父から、同情の籠った視線を感じた。
そうして、レインからは呆れたような視線を感じる。
(……よく、そんなでまかせがぺらぺら出るもんだ、とか思ってんだろ。)
俺はテーブルの下で、レインの足を蹴っ飛ばした。
げしっ!
「ぅくっ!?」
レインは思わず、足を押さえた。
しかし、それは見ようによっては、悲しみのあまりに俯いているように見える。
「どうしたんだ、そっちの子は……?」
「彼女は姉さんと仲が良かったから……。まだ、ショックが抜けないんだ。」
「そ、そうか……無理もないな。」
ベリローゼはレインを気遣い、肩を抱き寄せる…………振りをして、俯いたレインが身体を起こすのを押さえつけていた。
耳元で、何事かを囁いている。
それは励ましの言葉ではなく、きっと「そのまま俯いててください」とかだろう。
ベリローゼ、グッジョブ!
「関連があるか分からないが、この辺りの地域でも…………この村でも失踪が相次いでいる。だから――――。」
「何か手掛かりがあるかもしれない。そう、考えたわけか。」
親父の言葉に、俺は黙って頷いた。
だが、親父は力なく首を振った。
「すまないな。力にはなってやれそうにない。こっちも、何が起きてるかなんて分からないんだ。」
「そうか……。」
俺が残念そうに項垂れると、客の男たちも沈痛な面持ちで視線を落とす。
よしよし、いい感じに同情を引けたな。
「そう言えば……。」
俺は顔を上げ、今思い出したかのように尋ねる。
「黒いローブの連中を知らないか?」
「黒いローブ?」
「大分前だが、姉さんが言ってたんだ。そういう格好の連中を見かけるようになった。何をしているのかも分からず、薄気味が悪いって。」
俺は、本命のネタをブッ込んでみた。
だが、反応は芳しくない。
親父は腕を組んで考え込むが、特に記憶に引っ掛かるものはないようだ。
「……そんな話、聞いたことあるか?」
別のテーブルにいた客にも声をかけるが、そちらも空振り。
四人の男たちが、首を振る。
しかし、代わりに別の話が出てきた。
「赤い、首飾り?」
客の一人がその話を出すが、他の男たちは肩を竦める。
「それは関係ないだろ。」
「そうかもしれないが……、でも分からないじゃないか。」
客の一人は、失踪した男のうちの一人と、身内の関係にあるようだ。
失踪した前日に、赤い首飾りを「拾った」と言って持ち帰っているのを目撃している。
「だけど、あとで荷物を整理しても、それが無かったんだ。」
持ち帰ったところを見ている。
だが、残された遺留品には、そんな物は無かった。
つまり……。
(失踪の際に、持って行った?)
という可能性が浮上する。
まあ、換金しようと持ち出した可能性もあるが、少々気になる情報だ。
特に、失踪の前日というが引っかかる。
そして、これも失踪と直接関係あるかは不明だが、ある日の夜中に、北にある森に「誰かが向かった」のを見ている者がいる。
別の人物が失踪する、前の日の晩らしいが、その森に向かったのが失踪した人物かは不明だ。
遠目に、村の外に出て行こうとする人影を、たまたま見かけた人がいる程度の話だった。
「北の森には、何かあるのか?」
「いや、何もねえ。あの森には魔物が出るんでな。昼間に何人かで木を切り倒しに行くことはあるが、それ以外ではほとんど近づかない。」
狩りに行くようなこともほとんどないらしく、森に行くのを村人は忌避しているそうだ。
(…………なんか変だな。)
薪を作ったりするのに、森の木を伐採することはあるが、狩りには行かない。
だが、森とは自然の食料庫だ。
すぐ近くに森があるのに、利用しないのはやや不自然な気がした。
「その魔物ってのは、そんなにやばいのか?」
「ああ、ゴブリンはともかく、オークは厄介だ。」
「ゴブリンとオークか……。」
ファンタジーでお馴染みの魔物の名前に、俺は眉を寄せる。
ゴブリンやオークは、この世界では割とあちこちに棲息する魔物だった。
小人のように小さいが、やたらと好戦的で狂暴なゴブリン。
短躯で丸い体形だが、力が強いオーク。
この二種の討伐は、たまに傭兵ギルドの依頼でも出されることがある。
そんな魔物たちがいるから、この村の人は森には近づかない。
それはそれで分からなくもないが、こうした魔物が棲息する森はここだけではない。
他の森では、十分に警戒しながら、兎や鹿などの狩りを行っているのだ。
確かに一人で行くには危険かもしれないが、村の男たちが協力すれば、十分に対抗できる。
そして、得られる糧は村の貴重な食糧だ。
これをみすみす放棄する対応に、若干の違和感を覚えた。
(まあ、事情はそれぞれか。)
過去に大きな被害を出せば、「もう狩りはやめよう」という判断をしても不思議はない。
俺は親父と客たちに礼を言い、部屋に戻ることにした。
燻製肉とチーズの盛り合わせの乗った皿を手に、立ち上がる。
「行こう。部屋に戻るぞ。」
そう声をかけると、ベリローゼが寄り添いながらレインを立たせる。
立ち上がったレインは、じとっとした目を俺に向けていた。
お前は、もうちょいアドリブを憶えろよな。
■■■■■■
【総大主教ヤイヒム視点】
ネプストル帝国の帝都、ラジブール。
皇帝の居城、水晶城の謁見の間に、現在アウズ教の総大主教ヤイヒムが陳情に来ていた。
ヤイヒムは大袈裟な手振りで、皇帝であるシグフリッドに訴えた。
なぜ、ホルスカイト共和国に攻め入らないのか、と。
すでに三年も国境に帝国軍を張りつけておきながら、侵攻を思い留まっている。
半年前。
ヤイヒムは旧ヨッテンソーム地域での布教活動のために、帝国軍の増派を進言した。
賢明なる皇帝シグフリッドは、ヤイヒムの進言を容れ、不安定なヨッテンソームでの治安活動に注力することを約束した。
実際、シグフリッドは速やかに軍を再編し、旧ヨッテンソーム地域に追加の軍を送った。
その効果は絶大で、現在の旧ヨッテンソーム地域での布教活動は非常に順調だ。
オランジェス王国は帝国に下ったため、こちらでの布教も極めて良好。
まだ若干の抵抗勢力もあるが、唯一の神ヤーム・ラユの教えを定着させるのに、憂いは無くなったと言える。
……となれば、次に目を向けなくてはならない。
そう、ホルスカイト共和国だ。
おあつらえ向きに、現在の帝国と共和国は一触即発。
あとほんの一押しで、帝国軍の兵が共和国に雪崩れ込んでいくことだろう。
しかし、そんなヤイヒムの目論見に難色を示す者がいる。
宰相、コルエー・ヴァン・ネプストル。
前皇帝の弟であり、現皇帝の叔父であるコルエーは、宰相という地位を利用して思うままに権勢を振るっていた。
シグフリッドの目を曇らせる、稀代の奸臣。
噂ではコルエーの許可を得なければ、皇帝であるシグフリッドに上奏さえされない。
そして、それは事実である。
だが、賢明で聡明な皇帝シグフリッドは、アウズ教を信仰する心が篤かった。
なぜコルエーのような奸臣を傍に置くのか不思議でならないが、それでもヤイヒムが訪れた際は、常にスムーズに謁見が許された。
そう対応するように、シグフリッドがコルエーにも厳命しているからだ。
ヤイヒムは力強く、壇上のシグフリッドに訴えた。
「皇帝陛下! あとは陛下のご決断だけなのです! 国境では意気軒昂な、勇敢な帝国の兵たちが、陛下の号令を待ちわびているのです! 陛下のご英断一つで、あのような不徳の国など、瞬く間に下せるでしょう! 一体、何を迷われることがあるでしょうか!」
帝国軍の兵の代弁を、勝手に口走るヤイヒムに、謁見の間が一瞬剣呑な空気を漂わせる。
警備に立つ近衛兵らがヤイヒムを睨むが、ヤイヒムは壇上のシグフリッドしか見ていなかった。
そのシグフリッドは、玉座で頬杖をつき、黙ってヤイヒムを眺める。
シグフリッドの目には、何の色もない。
ヤイヒムの訴えが、まったく響いていなかった。
その事実に、ヤイヒムは内心焦っていた。
(……いつもなら、もう少し反応があるのだが。)
今日は機嫌が悪いのだろうか。
いや、シグフリッドがそんな個人的な理由で、ヤイヒムの進言を軽んじるはずがない。
きっと、何か理由があるのだ。
そう、シグフリッドの説得の方法を考えるヤイヒムだが、邪魔をする者がいた。
玉座の傍らに立つ、宰相のコルエーだ。
「総大主教聖下。これは、高度な政治的な問題なのです。戦争とは、勝てるから、負けるからで決めるものではありません。政治の延長線上の、あくまで選択肢の一つ。外交政策の一つと言ってもいいでしょう。」
コルエーの講釈に、ヤイヒムはむっとなる。
不遜なコルエーは、明言こそしないが「僧侶が政に口を出すな」と非難しているのだ。
(やはり、この男がシグフリッドの目を曇らせているのか……!)
宰相という地位を利用し、皇帝を惑わす奸臣。
現在の帝国の統治は、鎖国状態とはいえ安定していた。
そのため、国民の宰相に対する評価は高い。
三年前の、オランジェス王国と旧ヨッテンソーム地域を取り込んだ手腕も、皇帝シグフリッド、宰相コルエー体制の評価を押し上げていた。
(三年も足踏みしている愚図が……! 間違いなく、シグフリッドが共和国侵攻に踏み出せない原因は、コルエーだ!)
ヤイヒムは、悔しさにその身を震わせた。
国民は、その愚かさ故に。
皇帝は、コルエーの狡猾さ故に。
騙されているのだ。
コルエーさえいなければ帝国は、そしてこのアウズ大陸は、もっとより良いものとなるだろう。
(すでに、こちらの準備は整っているというのに……!)
だが、どうすればシグフリッドが賢明な判断を下せるだろうか。
さすがに、如何にヤイヒムが進言しようと、シグフリッドがそう簡単にコルエーを排除するとは思えない。
コルエーには、摂政として、そして宰相として長年シグフリッドを支え続けてきた実績がある。
ヤイヒムからすれば唾棄すべき男だが、シグフリッドがコルエーを信頼しているのも、また事実。
これを、軽く考えてはいけない。
その時、ヤイヒムの脳裏に閃くものがあった。
これは、神の意に合っている。
ならば、これは神の意である。
「…………先日、御神託がありました。」
ヤイヒムの言葉が、静かな謁見の間に広がった。
すぐに微かなざわめきが起き、謁見の間の空気が変わる。
「ほぉ…………御神託があったか。」
玉座に頬杖をついていたシグフリッドが、身体を起こした。
シグフリッドの、これまでの空虚な雰囲気から一変し、ヤイヒムの言葉が届いたことを確信する。
「御神託は、何と?」
シグフリッドが宰相を介さず、直接ヤイヒムに問う。
「彼の国に、教えを広めよ、と。一刻も早くと仰せです。」
「………………………………………………そうか。」
長い沈黙の後、一言だけ呟く。
シグフリッドは再び頬杖をつき、虚空を睨んだ。
深く、考え込んでいるようだった。
ヤイヒムは、それ以上は言わなかった。
多くを語る必要はない。
説得のために、言葉を尽くす必要などないのだ。
シグフリッドならば、御神託を聞けば、正しい決断を下せよう。
これまでのように。
「…………分かった。」
シグフリッドの声に、力が籠っている。
その声を聞くだけで、シグフリッドが正しい行動を決めたことを、ヤイヒムは理解した。
「陛下……。」
玉座の傍らに立つ、コルエーが動揺している。
コルエーもまた、シグフリッドがすでに決断したことを悟っていた。
シグフリッドはコルエーを見ず、ヤイヒムに微笑みかける。
しかし、その目に冷たいものを感じ、ヤイヒムは一瞬ぞくりとした。
「ご苦労だった、ヤイヒム。下がるがよい。」
「はい。失礼いたします、陛下。」
恭しく頭を下げ、再び顔を上げた時、ヤイヒムの表情は晴れやかだった。
コルエーは唇の引き結び、睨むようにしてヤイヒムを見ていた。
ヤイヒムはコルエーに微笑んで見せ、踵を返す。
清々しい気分だった。
(これで今日も、正しい道へ導けた。)
軽やかな足取りで、ヤイヒムは謁見の間をあとにするのだった。




