第9話 報告にない救助
中央市場の屋根を突き破り、黒い巨人が立っていた。
胴から伸びる腕は六本。
一つが商品棚を薙ぐたび、避難しなかった人の動きを写した新しい腕が増える。
俺の端末が震えた。
19:40 中央市場。
九本目で岳が死に、十本目で俺。
現在は十九時二十六分。
「九本目と十本目を警戒」
共有した直後、澪が首を振った。
「数を正解にしない。増える条件を探す」
霧生の予測経路は、市場西口から巨人の背後へ一直線に伸びていた。従えば最短で核へ届く。
だが西口には、避難が遅れた店主が三人いる。
俺たちは緑線を外れた。
環が《軌跡視》で避難者の線を追い、久世が崩れた屋根を支える。澪が店主を連れ出す間、俺は巨人の腕を数えた。
七本。
避難者が右へ逃げようとして左へ変えた瞬間、その二つの動きが腕になった。
「選ばなかった動作を増やしてる! 迷うほど腕が増える!」
「なら指示を一つに」
澪が全員へ退路を示す。
巨人の八本目が地面を叩く。久世の《分圧》が衝撃を柱へ逃がした。
九本目が久世へ伸びる。
報告どおり。
俺は位置標識を投げ、腕の進路を変えた。九本目は標識を「久世が選んだ退路」と誤認し、空の通路を潰す。
「九本目、回避!」
十本目が俺へ来る。分かっていた、避けられる。
右へ跳ぶと決めた瞬間、環の叫びが聞こえた。
「床がない!」
彼女の足元が孔界へ沈む。
死亡報告にはなかった崩落だ。
俺が右へ行けば十本目を避けられる。
左へ行けば環に届く。ただし未来の俺はそこで死んでいる。
一瞬の迷いを、巨人が食べた。十一本目の腕が生える。
報告の数字は、もう役に立たなかった。
*
ー報告にない救助ー
俺は左へ走った。
十本目の腕が背中をかすめる。十一本目は、選ばなかった右の退路を潰した。
環の身体が腰まで黒い水面へ沈む。
「手を!」
腕をつかむ。俺の足元も崩れた。
澪の《定着》が二人の位置を止める。
三秒。
久世が床へ印を置き、崩落の力を市場の外壁へ逃がす。
環が片手で観測機を飛ばした。
「巨人の腕、全部に軌跡があります!」
「どこへ戻ってる」
「胸の核じゃない。足元!」
固定が切れる前に、久世が俺たちを引き上げた。
俺は巨人を見る。
増えた腕は、選ばれなかった動作を再現する。その根元には、人々の迷いが通った青い線が集まっていた。
倒すべきは本体ではない。
「全員、別の動きを考えてください。でも動かない」
「迷いを増やすの?」
環が聞く。
「増やして、一つに集める」
俺は右へ走るふりをし、左を見た。澪は槍を上げて下へ踏み込む構え。久世は前へ体重をかけて後ろへ印を置く。環は三方向へ観測機を向けた。
巨人の腕が一気に増える。
十二、十三、十四。
全部が、実行されなかった動きを追って互いに交差した。
「今は一つだけ! 足元の核!」
四人が同じ方向へ走る。
増えた腕は自分同士で衝突し、巨人の胴を縛った。
澪の槍が足元の黒い節へ届く。
「《定着》」
核が三秒止まる。
久世が全腕の衝撃を核へ分圧し、環が最も濃い軌跡を指す。
俺は位置標識をその一点へ貼った。
巨人の腕が、自分の核を選ばれた退路だと誤認して打ち下ろす。
黒い身体が内側から崩れ、灰色の粒子になった。
市場へ静けさが戻る。
死亡報告は回避へ変わった。
俺は残痛に備えたが、今度は弱い。
未来の指示どおり十本目だけを避けたのではない。報告から外れた環を救い、その場で別の解法を作った。
「報告なしでも、役に立てた」
口にすると、澪が訂正した。
「報告があってもなくても、でしょう」
環が床へ寝転がったまま手を上げる。
「あと、助けられる側も役に立ちました」
「それは本当にそう」
俺は彼女の手をつかんで起こした。
霧生の緑線は、市場の入口で途切れていた。
一本の安全な道では、ここへは来られなかった。
*
ー死なない俺は役に立てるかー
翌日、死亡報告は来なかった。
午前六時の黒い画面も振動もない。
安全だとは限らない。それでも胸の奥が軽くなるのを、俺は否定できなかった。
その日の任務は、閉じかけた小規模孔界から観測機を回収するだけだった。
敵は追路犬一体。要救助者なし。死亡予定なし。
「今日はログ係、休みでもよくないですか」
環に言われた。
以前の俺なら、未来情報がなければ参加する価値はないと思ったかもしれない。
「経路試験をする。孔界内の案内表示、条件で反転するはずだ」
俺は三種類の位置標識を置き、澪たちの進行速度を変えて記録した。
予想どおり、最後尾が一定距離を越えたときだけ出口表示が逆を向く。追路犬はその瞬間に現れた。
久世が衝撃を受け、環が軌跡を示し、澪が一撃で核を止める。
十五分で任務は終わった。
「死亡報告なし、残痛なし、全員帰還」
俺は記録欄へ入力する。派手さはない。誰も死ぬ予定ではなかった。
それでも、次の班が同じ孔界へ入るとき使える規則を一つ残せた。
自分が死ななくても、役に立てる。
その当たり前を確認するのに、ずいぶん時間がかかった。
地上へ戻ると、市内の警報塔が一斉に赤くなった。
環の端末へ、十を超える孔界反応が表示される。
「潮見区全域。こんな同時発生、記録にありません」
対策局から緊急通信。
住民約八百人。避難完了まで二十分。孔界の中心が複数あり、個別封鎖は不可能。
俺のスマートフォンは沈黙したままだ。
未来の失敗ログはない。
澪が俺を見る。
「どうする、分析担当」
俺は地図を開いた。
「全部倒さない。人の流れを一つずつ孔界から外す」
報告のない救助が始まった。
*
ー潮見区一斉孔界ー
潮見区には十二の孔界が開いていた。
一つずつ閉じる時間はない。
俺たちは高架上の交通管制室を拠点にした。環が道路と住民の軌跡を重ね、久世が倒壊危険のある建物を選別する。澪は現場班へ指示を出した。
俺は避難経路アプリの試験環境を開く。
「全員を同じ避難所へ送ると、三番と七番の孔界が人流を追って移動する」
「孔界が動く?」
「人の選ばなかった経路を食べるなら、選択肢が集中する場所へ寄る。四つの避難所へ時間差で分ける」
現場へ更新経路を送る。
最初の百人が西へ動く。三番孔界がそちらへ膨らむ前に、次の百人を北へ。環が軌跡の濃度を読み、俺が切り替え時刻を調整する。
七番孔界から追路犬の群れが出た。
澪と久世が現場へ向かう。
『雨宮、次の切替まで』
「二分十秒。南倉庫の避難が遅れてる」
『了解』
澪は追路犬を倒すのでなく、救助槍で道路標識を別方向へ向けた。群れが空の経路へ走る。久世がその衝撃を防潮壁へ逃がす。
南倉庫では、足の悪い住民が階段で止まっていた。
俺は管制室を環へ任せ、位置標識を持って走った。
「報告なしで前に出ない約束では?」
「単独じゃない。現地班と合流する」
環が地図へ俺の位置を加えた。
倉庫で十七人を誘導する。階段を使わず、荷物用の緩斜路へ回すと、孔界が正面の扉を飲み込んだ。
選ばなかった階段側が安全になる。
「全員、経路変更!」
現場班と二手に分け、孔界を迷わせる。
最後の住民が区域を出た時刻は十七時四十八分。
八百二十三人、避難完了。
十二の孔界は餌を失い、次々に縮小した。
管制室へ戻ると、環が拳を上げた。
「報告なし、大規模救助成功」
久世も澪も帰ってくる。
全員で拳を合わせた。
その瞬間、地下から低い脈動が響いた。
市内地図の中央駅から、黒い線が四方へ伸びる。縮小した十二の孔界を根のようにつなぎ、街全体を一つの輪郭で囲んだ。
榛名から通信が入る。
『第一核が、都市の大きさまで成長しています』
救助は成功した。
だからこそ、次の問題を直さなければならなかった。




