第8話 助けた未来の裏側
潮見二号線は、湾岸を高架で走る。
午後三時五十五分、校外学習帰りの小型バスが、黒い水面の上で止まっていた。
道路の右半分が孔界へ沈み、左のガードレールだけが車体を支えている。車内に児童十二人、教師一人、運転手一人。
報告どおり十四人。
「右側を開けるな」と未来の俺は書いた。
右側の乗降扉は孔界の真上にある。開ければ重量移動で落ちる。分かりやすい。
分かりやすい情報ほど、前提を疑う。
環の観測機を飛ばす。映像では、左の非常窓の先に道路がある。
《軌跡視》では違った。
「左側、過去の車線です。今は足場がない」
孔界が映像だけを補っている。
「正面から出す」
澪が決めた。
久世が道路へ四つの印を置き、バスの荷重を高架の支柱へ分散する。澪はワイヤーを車体前部へ固定した。
俺は運転手と通話をつなぐ。
「全員、座席の左へ移動させないでください。一列ずつ前へ。走らない」
『右の扉を開けたほうが近い!』
教師の声が入る。
「開けないでください」
『でも子どもが怖がって――』
黒い水面から、子どもの泣き声をまねる残響体が浮かんだ。右扉の外で「先生」と呼ぶ。
車内の児童が右へ寄る。
バスが傾いた。
「久世さん!」
「持たせる!」
《分圧》の印が明滅する。
澪が車体へ触れた。
「《定着》」
三秒だけ傾きが止まる。
一秒目、俺は前面の非常ハッチを外す。
二秒目、環が歩板を差し込む。
三秒目、最初の児童が澪の腕へ飛び込む。
固定が切れた後は、一人動くたび久世が荷重を分け直した。環は軌跡を見て、黒い水面が薄い瞬間だけ合図する。
十二人目の児童が出て、教師、運転手と続いた。
最後に俺が歩板から離れた瞬間、バスは孔界へ沈んだ。
黒い水面は大きく波打ち、空の車体だけを吐き出して閉じた。
午後四時二分。
死亡報告が回避へ変わる。
背中に落下の感覚が走ったが、俺は時刻と強さを口にした。澪が記録する。
児童たちは全員、地上で教師に囲まれていた。
間に合った。
その安堵が胸へ届くより先に、榛名から通信が入る。
『中央駅地下の位相値が上がりました。過去最大です』
市内地図の中心で、黒い点が脈打っていた。
十四人を救った同じ時刻に、第一核が目を覚ました。
*
ー助けた未来の裏側ー
救助後、俺は児童の人数を三度数えた。十四人、怪我なし。
中央駅地下の位相値は、二・四倍。
二つの数字を並べると、救助が誤りだったように見える。
「数式にするな」
久世が温かい缶を俺へ渡した。
「何をです」
「十四人の命と、位相値。単位が違う」
「次にもっと大きな孔界が起きたら」
「そのとき止める。原因を作ったのは君じゃない」
「使ったのは俺です」
澪が会話へ入った。
「使うと決めたのは四人。分けるなら責任も四つに分ける」
「責任は《分圧》できない」
「一人に集中させないことはできる」
久世が自分の能力を指すように掌を上げた。
環は救助映像を見直していた。
「黒い水面、バスを落とす前から中央駅の方向へ線を伸ばしてます。報告を使ったことだけじゃない。『選ばれなかった落下』を吸ってるみたい」
未来を変えること自体が餌なのか。
それなら、問題は救助ではなく、餌を集める第一核にある。
「核との接続を切る」
俺は言った。
「報告を全部やめる前に、報告がどこから来るかを調べる」
澪が頷く。
「目の前の救助は続ける。残痛が動作へ影響したら、あなたは現場を外れる」
「了解」
「素直だと調子が狂う」
「改善しました」
環が笑った。
対策局へ戻ると、受付に黒い車が待っていた。運転手が俺の名前を告げ、一通の封書を差し出す。差出人は霧生統真、位相災害研究者で明日保証計画の責任者だった。
便箋には一行だけあった。
――あなたの明日を、誰も死なない明日のために使わせてください。
*
ー明日を保証する男ー
霧生統真の研究室には、時計が一つもなかった。
代わりに壁一面の画面へ、天ヶ瀬市の明日が表示されていた。
交通量、降雨、救急搬送、孔界発生率。数字の横に予測精度が並ぶ。
「未来を扱う場所に時計がないのは意外です」
俺が言うと、霧生は銀縁眼鏡の奥で目を細めた。
「時刻は結果です。重要なのは、その時刻へ至る選択です」
黒いスーツの左手に、古い結婚指輪がある。
「雨宮さん。あなたは四年前、第一核へ触れた」
質問ではなかった。
「記録にないはずです」
「映像は残っていました。榛名君には伏せていた資料ですが」
隣の澪の表情が硬くなる。
霧生は机へ黒い結晶の模型を置いた。
「第一核は未来を予測しません。可能性の差を感知する。あなたは死ぬ可能性が高い分岐から、情報を受け取っている」
「なぜ今になって」
「我々の明日保証塔が、眠っていた核を起こしたからでしょう」
自分たちの実験が原因だと、彼は隠さなかった。
「計画を止めるべきです」
「逆です。中途半端に起こしたから、分岐を食べ始めた。ならば分岐を減らし、誰も死なない経路を一本だけ選ぶ」
画面に、潮見二号線の事故が映る。
俺たちが介入しない未来では十四人が落ちる。介入した未来では全員が助かる。その先に、中央駅の位相値上昇。
「あなたの報告を都市予測へ接続すれば、事故の前に避難経路を一つへ絞れる。回避後の余分な分岐も生まれない」
魅力的だった。
残痛なしで、人を助けられる。
澪が問う。
「一つへ絞るのは誰です」
「計画が、統計的にもっとも生存率の高い道を選ぶ」
「人が途中で変えたくなったら」
「変更は新たな危険を生む」
「答えになっていない」
霧生は穏やかなまま、左手の指輪へ触れた。
「四年前、妻は娘を迎えに行く予定を変えた。その一度の変更で、二人とも第一孔界にいた。選択肢がなければ生きていた」
悲しみが、論理の形をしていた。
研究室の警報が鳴る。
中央市場で孔界発生。大型の残響体を確認。
霧生は画面へ経路を表示した。
「ここで試せます。私の予測は、犠牲ゼロの道を示している」
表示された一本の緑線は、死亡報告がまだ届いていない俺の端末へ伸びていた。
「参加は断ります」
俺は立ち上がる。
「でも現場には行く。一本しかないからじゃない。四人で変えられる道を探すために」
霧生は引き止めなかった。
「結果を待っています」
その声は、自分の正しさを疑っていなかった。




