第7話 三秒だけ死を留める
一秒目。
久世が俺と警備員の間へ入り、両手を床へ付いた。
二秒目。
環が警備員の腕を引き、青い軌跡の薄い場所へ飛び込む。
三秒目。
俺は動けなかった。
残痛が胸から脚まで広がり、自分の身体なのに命令が届かない。
《定着》が切れる。
梁が落ちた。
久世の《分圧》が衝撃を床と三枚の壁へ散らす。それでも残った重さが俺の肩へ迫る。
澪が滑り込み、俺のジャケットをつかんだ。
二人で床を転がる。
背後へ梁が落ち、資料庫が白い埃に包まれた。
折鐘は衝撃の中心でひび割れ、灰色の粒子へ変わった。
「全員、返事!」
澪の声が今度は正しい方向から届く。
「久世、無事」
「白瀬、警備員さんと無事!」
俺も答えようとしたが、息しか出なかった。
澪が目の前へしゃがむ。
「雨宮。どこが痛い」
「全部、前に……死んだ場所」
「強さは」
「八。下がってる」
嘘をつかなかった。
澪は俺の脈を測り、久世に担架を頼んだ。
「歩けます」
「今の発言を却下する」
「四原則に却下権は」
「現場指揮権に含む」
環が警備員を連れて戻ってくる。
「ログ係、運ばれるのも役割です」
四人で帰る。
白板に書いた五つ目の達成条件を思い出し、俺は抵抗をやめた。
情報センターの外へ出ると、消えていた路地が地図へ戻った。歩行者は急にそこを認識し、何事もなかったように通り始める。
救急車の中で、俺は痛みが消えるまでの時間を測った。
二分四十三秒。
前回より長い。
「死を回避するたび、増えてる」
俺が言うと、澪は否定しなかった。
「検査する。次の現場は結果が出るまで禁止」
「その間に報告が来たら」
「私たちが行く」
「俺がいないと文面の意味が――」
「共有してる。あなたが一人で抱えないために」
救急車の扉が閉じる。
未来を知るのは俺だけだ。
そう思い込むことで、俺は自分だけが危険へ行く理由を作っていた。
眠りに落ちる直前、澪の声が聞こえた。
「三秒じゃ足りないなら、その後を私たちが動く。だから、止まっていい」
翌朝、目を覚ましたのは自宅の洗面所だった。どうやって帰ったのか、一瞬思い出せない。
胸、背中、肩へ、三種類の痛みが同時に走った。鏡の中の俺には傷一つない。
それでも足が崩れ、冷たい床へ倒れた。
スマートフォンは寝室に置いたまま、助けを呼ぶ声も出ない。
救った数だけ、俺の中に死が増えていた。
*
ー救った数だけ痛みが増えるー
洗面所の床で、俺は三度死んだ。
胸を槍が抜け、天井が背中へ落ち、暗い地面の下で身体が潰れる。
実際の身体には何も起きていない。だからこそ、逃げ場がなかった。痛む場所を押さえても傷はなく、呼吸を整えても別の死が重なる。
玄関の鍵が開いた。
「雨宮!」
澪の声がして、足音が近づく。
彼女は洗面所へ滑り込み、俺を仰向けにしようとして止まった。
「どこが痛い」
「胸、背中、全身。回避した順番」
「呼吸できる?」
頷く。
澪は端末で救急要請をし、俺の手へ小さなボタンを握らせた。
「押せる?」
一度押す。指は動く。
「今の身体は動く。痛みは未来の記録。分けて考えて」
命令されるまま、右手、左手、足先と順に動かした。身体が現在へ戻ってくる。
痛みは五分ほどで薄れた。
「どうして来たんですか」
「朝六時の定時連絡がなかった」
班で決めた規則だった。死亡報告の有無にかかわらず、六時五分までに共有欄へ入力する。
俺は未来ばかり見て、今朝の連絡を忘れた。
救急班の検査でも外傷はなかった。だが、胸部の位相撮影にだけ、黒い枝のような影が三本映った。
一本は東口崩落。
一本は三番扉。
一本は槍。
情報センターの梁を避けた分まで、先端に新しい芽がある。
「回避した死亡と一致する」
澪は画像を見つめた。
「なぜ言わなかった」
「毎回消えたから」
「消えてない」
静かな声のほうが痛かった。
「あなたが言わなければ、私たちはないものとして作戦を立てる。隠すのは、現場情報を消すのと同じ」
返す言葉がなかった。
「すみません」
「謝罪より、次の行動」
「全部記録する。痛みで動けない可能性を作戦に入れる」
澪はようやく頷いた。
検査室の扉が開き、白衣の女性が入ってきた。三十代半ば、髪を後ろで束ね、分厚い端末を抱えている。
「榛名透子。位相生態研究室です」
彼女は黒い枝の画像を拡大した。
「雨宮さん。あなたが未来を変えた時刻を、秒まで教えてください」
「何か分かったんですか」
「分からないから、怖い仮説を消しに来ました」
榛名の端末には、市内の孔界反応を示す折れ線が表示されていた。
俺が死を回避した四つの時刻で、反応値が階段のように上がっていた。
*
ー残痛の検査結果ー
榛名は、俺の痛みに「残痛」という仮の名前を付けた。
「幻肢痛に似ていますが、失ったのは手足ではなく、起きなかった未来です」
「起きなかったものを、身体が覚えている?」
「正確には、あなたへ接続した何かが記録している」
画面上の黒い枝は、心臓の少し手前で一点へ集まっていた。四年前、第一孔界で黒い結晶へ触れた場所だ。
俺は初めて、その記憶を詳しく話した。
中央駅地下。崩れた壁。暗闇で脈打つ結晶。柊木を捜しながら触れたこと。
もう一度だけ、間違いを見つけさせてくれと願ったこと。
榛名の指が止まる。
「第一核との接触者記録に、あなたの名前はありません」
「避難者として処理されたからです」
「霧生さんが知れば――」
彼女は言葉を切った。
「霧生?」
「研究責任者です。今は市の明日保証計画を進めている」
澪が問う。
「死亡回避と孔界の拡大は因果関係がありますか」
「相関だけです。ただし、四回とも一秒以内。偶然とするには揃いすぎている」
未来を変えるたび、迷宮が育つ。
俺が救った人の数と、次に危険へさらす人の数は釣り合うのか。
考えを読んだように、澪が言った。
「原因は孔界。救助した人間じゃない」
「でも俺が使わなければ」
「使わなければ昨日の警備員は梁の下にいた。分からない先のために、分かっている命を見捨てるのも選択だ」
端末が震えた。
定時外の死亡報告だった。
16:02 潮見二号線。
バスの右側を開けるな。十四人と俺が落ちる。
現在は十三時二十一分。
榛名の画面で、潮見地区の位相値が上昇している。
澪は俺を見た。
「行くかどうか、あなた一人で決めない」
俺は頷いた。
「十四人を助ける。終わったら、何が育ったかまで確かめる」
残痛を恐れないのではない。
恐れる対象に、見えない未来だけでなく、目の前の十四人も入れる。
四人の班へ出動要請が送られた。




