第5話 未来は字面どおりに来ない
「槍を刺すなら、先に説明してください」
「胸を刺すとは決めてない」
澪は探針の先を黒い糸へ近づけた。糸は逃げるように皮膚の下へ沈む。
「痛覚は?」
「ありません」
「呼吸」
「正常」
「怖い?」
「正常じゃないくらい」
澪の口元がわずかに緩んだ。
「それは記録しなくていい。私も怖い」
九時一分。
環は《軌跡視》で黒い糸の動きを追う。糸は心臓そのものではなく、胸ポケットのスマートフォンと俺の胸の間を往復していた。
「端末を狙ってる?」
俺は透明袋ごと外そうとした。
糸が一気に縮む。
視界が黒く染まり、共同溝が消えた。代わりに監視映像と同じ部屋が現れる。俺の前に澪が立ち、槍を構えていた。
九時二分。
「孔界が、報告の場面を作ってる」
自分の声が遠い。
胸の前へ黒い膜が盛り上がり、もう一つの俺の上半身を作る。そいつの心臓に当たる位置で、白い点が脈打っていた。
「核です!」
環が叫ぶ。
澪が踏み込む。
穂先は俺の身体へ向かって真っすぐ伸びた。
逃げれば核も動く。俺は足を止めた。
「《定着》」
澪の声。
俺の位置が固定される。呼吸すら重くなる三秒。
九時三分。
救助槍が、俺の胸の前で形を取った借殻の心臓を貫いた。
衝撃だけが身体を抜ける。
黒い核にひびが走り、寄生糸が光へほどけた。借殻は俺の顔を作りきれないまま崩れる。
《定着》が解け、俺は膝をついた。
胸に穴はない。鼓動もある。
だが未来の俺が最後に見たなら、こう書くだろう。
御影澪の槍が、俺の心臓を貫く。
「報告は嘘じゃなかった」
澪が槍を引き、俺の肩を支える。
「本当でもなかった」
「未来の俺が、見えた範囲で書いた事故報告だ」
品質保証の報告書も同じだ。観測できなかった原因は書けない。見えていない前提を、文章は勝手に補ってくれない。
端末の表示が変わった。
09:03 回避
同時に胸へ鋭い痛みが走る。
今回は、槍が貫いた感覚だった。
俺は息を止めたが、黙らなかった。
「残った。胸の中央。痛みは七。十秒くらい」
澪が時計を見る。
「記録した。次から痛みを隠したら、現場参加を止める」
「厳しいですね」
「未来のあなたより、今のあなたを優先する」
短い言葉だった。
痛みが引いた後も、それだけは長く残った。
*
ー四人目の役割ー
対策局は、俺の臨時参加を一日から十四日へ延長した。
正式名称は「特例情報解析補助員」。長すぎるので、環は初日から「ログ係」と呼んだ。
会議室の白板に、澪が四人の名前を書く。
御影澪――現場指揮、近接救助。
久世岳――防護、構造判断。
白瀬環――観測、地図更新。
雨宮朔――死亡報告解析、危険仮説、退路確認。
「未来予知とは書かないんですね」
環が尋ねる。
「予知じゃない」
俺は答えた。
「届くのは、試験に失敗した後のログだ。しかも情報が欠けてる」
「でも、明日のログでしょう」
「だから余計に、正解扱いしない」
澪が白板の下へ四原則を書き足した。
単独行動禁止。
全員へ共有。
現場を優先。
誰でも中止できる。
久世が五つ目を加えた。
「全員で帰る」
「原則というより目標では?」
「達成条件だ」
四年前、柊木は戻らなかった。
俺はその記憶を口にせず、五つ目をノートへ写した。
午後は装備訓練になった。
俺には伸縮警棒、位置標識、簡易センサーが支給された。戦うためではなく、距離を作って逃げるための道具だ。
澪との模擬訓練は十秒で終わった。
「目線で逃げる方向を教えてる」
「改善します」
「あと、自分を囮にする前提で動かない」
「してません」
「無意識なら余計に直して」
次は久世が衝撃の受け方を教え、環が観測機の映像へ偽の出口を混ぜた。俺は三つのうち二つを見破ったが、最後は床に描かれた矢印へ素直に従い、開始地点へ戻された。
「ログ係、案内表示に弱い」
「仕事では疑ってます」
「日常でも疑いましょう」
「疲れる生き方だな」
久世が笑った。
訓練後、環が市内地図を大型画面へ出した。
昨日まで存在した旧市街の道路が一本、灰色になっている。
工事でも通行止めでもない。地図データから、道路名と座標そのものが抜けていた。
「現地映像は?」
澪が尋ねる。
映像には建物の隙間が映っている。道幅ぶんの空間はあるのに、誰もそこへ入らない。歩行者は無意識に曲がり、車も手前で進路を変える。
「孔界が地上へ出てる」
俺が言うと、環は首を振った。
「もっと変です。孔界なら、通った軌跡が残るはずなのに」
彼女が《軌跡視》を使う。
画面上の道路へ、青白い線は一本も現れなかった。
道はある。
だが、帰ってきた人が一人もいない。
*
ー地図にない帰り道ー
地図から消えた道は、現地ではごく普通の路地に見えた。
古い書店と閉店した喫茶店の間。幅は四メートルほどで、奥に市立地理情報センターの裏口がある。
だが、人の流れだけが路地を避けていた。
歩行者へ道を尋ねても、「そこに道はない」と答える。目の前へ指を向けても、視線が入口を滑って隣の壁へ移った。
「認識をそらす孔界」
環は保護眼鏡を直した。
「地図屋としては、かなり腹が立ちます」
俺たち四人は腰をロープで結び、路地へ入った。
一歩で街の音が消える。
振り返ると、入口の向こうに路地の奥が続いていた。前にも後ろにも同じ情報センターがある。
「戻る方向がない」
久世がロープを確かめる。
環の《軌跡視》が青い線を浮かべた。俺たちの足跡は前後へ二重に伸び、途中で入れ替わっている。
「地図を作ります」
環は端末へ線を引き始めた。
「今のは北を捨てたほうがいい」
俺が言うと、彼女は顔を上げる。
「方角がない?」
「入口へ戻れないんじゃない。『戻る』と考えた瞬間、前後が入れ替わってる」
澪が位置標識を一つ置いた。
全員で前へ進み、同じ標識へ戻る。次は誰も後ろを振り返らず、環だけが軌跡を読む。線は一方向へ伸びた。
「帰ろうとしなければ進める。嫌な道ですね」
環の軽口に、笑う者はいなかった。
情報センターへたどり着くと、館内は無人だった。机には温かい飲み物が残り、椅子だけが整然と入口へ向いている。
中央端末に、完成済みの市内地図が表示されていた。
環が作ったものより精密で、孔界の位置まで赤い点で示されている。
「こんなデータ、私も知らない」
画面の右下に更新者名があった。
白瀬 環
環の端末が震える。
俺のスマートフォンも、予定外の時刻に黒くなった。
15:27 地理情報センター。
裏切り者は白瀬環。俺の退路を消す。
現在時刻は十五時九分。
環は報告を読み、冗談を言わなかった。
「私、外したほうがいいですか」
前章なら、迷ったかもしれない。
俺は端末を全員の中央へ置いた。
「四原則どおりにやろう。字面を原因にしない」
澪が頷く。
「環も検証に参加する。あなたの未来を、未来の文章だけで決めない」
環は一度だけ目を閉じた。
「了解。じゃあ、私がどう裏切るか、私が最初に見つけます」
完成地図の画面で、俺たちの帰路を示す線が一本ずつ消え始めた。




