第4話 御影澪が俺を殺す
帰路には、追路犬が待っていた。
三番扉を構成していた残響体が崩れたことで、群れの走路が一つに集まっている。地下通路の雨音は、来たときより大きかった。
意識を取り戻した相田を久世が背負い、俺と澪が左右を守る。
「環まで七十メートル」
澪の無線に、途切れた声が返った。
『こちら白瀬。入口側、追路犬三。あと、私の後ろに知らない足跡が増えてます』
「立ち止まらず、標識糸を切って」
『帰り道なくなりません?』
「向こうに覚えられた道は、もう帰り道じゃない」
俺は環の言葉を思い出した。正しい地図は、正しかった時刻の記録。
追路犬は通らなかった道を塞ぐ。なら、標識で一つに固定した退路ほど狙われる。
「別々の道を通ったことにできませんか」
「どうやって」
俺は床の配管図を見た。共同溝は直線だが、左右の壁の中を細い点検管が並走している。
「久世さん。《分圧》で足音を左右の壁へ送れます?」
「衝撃なら」
「群れは人じゃなく、通った経路を追ってる。三方向に走ったように見せます」
久世は相田を下ろし、壁二面と床へ白い印を付けた。
俺たちは一斉に走る。
久世の足が床を踏むたび、同じ振動が左右の壁の奥へ伝わった。追路犬の雨音が三つに割れる。
黒い群れは迷い、壁へ飛び込み、存在しない点検路を追った。
「今!」
澪が先頭を走る。
曲がり角で環と合流した。彼女は救助した作業員を支え、標識糸をすべて切って腕へ巻いている。
「地図担当、地図を捨てました」
「よくやった」
澪が答えた。
最後の一体が天井から落ちる。
俺は避けきれなかった。
黒い顎が肩へ届く直前、澪の槍が横から入り、残響体を壁へ縫い止めた。久世が衝撃を壁全体へ逃がし、環が逃げた軌跡を指す。
「出口、左十メートル! 今だけです!」
全員で境界を越えた。
共同溝の非常灯が白く戻り、雨音が消える。
作業員二名は救急班へ引き渡された。俺たち四人も検査を受け、重い怪我がないことを確認した。
地上へ出ると、午後の日差しが眩しかった。
「一日だけの臨時補助員、終了ですね」
俺が言うと、環が不満そうに口を尖らせた。
「え、終わるんですか。班名まで考えたのに」
「勝手に?」
「死亡回避班」
「縁起が悪い」
久世が笑う。
澪だけは、俺の胸元の端末を見ていた。
「二件とも回避表示に変わった。でも孔界は続いている」
「俺の通知が原因だと思いますか」
「分からない。分からないから、次が来たら知らせて」
彼女は自分の連絡先を俺の端末へ登録した。
「真夜中でも?」
「特に真夜中」
その日の夜は、自宅へ戻った。
誰もいない部屋で胸の痛みを記録し、会社へ休暇申請を送る。二度死ぬ予定を回避した人間が、明日の勤務を心配している。妙に可笑しかった。
眠る前、柊木和真の古い音声を再生しかけ、やめた。今日は俺一人で直したわけではない。
その事実が、痛みより長く胸へ残った。
翌朝六時。
スマートフォンが震えた。
09:03 旧市街地下。
御影澪の槍が、俺の心臓を貫く。
今度は、言い逃れのできない文だった。
画面を見つめたまま、俺は澪へ電話をかけた。
呼び出し音は一度で途切れる。
『雨宮?』
「新しい報告です。あなたに見せます」
一秒の沈黙。
『分かった。隠さないでくれてありがとう』
怖さは消えなかった。
だが、誰を信じるかまで未来に決めさせるつもりはなかった。
*
ー御影澪が俺を殺すー
午前六時二十分、御影澪は俺の部屋に来た。
黄色い救助ジャケットの下は訓練着のまま。髪も少し湿っている。朝の走り込みを中断して来たらしい。
俺は死亡報告の画面をテーブルへ置いた。
09:03 旧市街地下。
御影澪の槍が、俺の心臓を貫く。
澪は黙って読んだ。
「今日は旧市街地下へ入る予定はない」
「昨日の孔界は閉じました」
「観測上はね」
彼女は端末で対策局へ連絡した。共同溝の監視映像を呼び出してもらう。
午前五時五十八分、閉鎖された入口の前を一人の男が横切っていた。
灰色のパーカ。黒い髪。少し猫背の歩き方。
俺だった。
同じ時刻、俺はこの部屋で眠っていた。室内の記録端末にも残っている。
映像の俺はカメラへ顔を向けた。輪郭は同じなのに、瞬きをしない。
「昨日の人型」
「借殻と仮称されてる。見た相手の姿を借りる残響体」
映像の俺は共同溝へ入った。
「俺を誘ってる」
「なら、行かない」
澪は即答した。
「でも九時三分に、あなたの槍が――」
「場所が旧市街地下だという前提なら、入らなければ成立しない」
昨日決めた原則どおりだ。通知に従って危険へ近づく必要はない。
俺たちは対策局の監視室へ移動した。
八時を過ぎても共同溝に変化はない。環が過去映像を解析し、久世が現地封鎖を確認する。
八時四十一分。
監視室の廊下で雨音がした。
天井も床も乾いている。
四人が同時に顔を上げた。
共同溝で聞いた追路犬の足音だ。
監視画面が一斉に暗転した。
次に映ったのは、旧市街地下ではない。俺たちがいる監視室だった。
画面の中で、澪が俺の胸へ槍を突き立てている。
時刻表示は09:03:00。
現実の時計は八時四十二分。
「旧市街地下が、こっちへ接続してる」
環が椅子から立つ。
廊下の端に、灰色のパーカの男が現れた。
俺と同じ顔で、俺より先に笑った。
澪は救助槍を伸ばしたが、穂先をそいつへ向けなかった。
俺と偽物の間に立ち、二人とも視界へ入れる。
「雨宮。質問する」
「はい」
「昨日、三番扉の前で私が言った最後の言葉」
「『雨宮、作業員を』」
偽物も同時に口を動かした。
声は出ない。
澪が槍を構える。
「見た目は写せる。記憶は写せない」
偽物の足元から、黒い雨跡が監視室へ流れ込んだ。
未来の映像と同じ場面が、二十分早く始まろうとしていた。
*
ー似すぎた救助者ー
借殻は、俺の動きを半拍遅れてまねた。
俺が右へ動けば右へ。拳を握れば、同じ指が閉じる。
「鏡じゃないですね」
環が観測端末を向ける。
「鏡なら左右が逆。こいつ、雨宮さんの外側だけ読んでる」
「読ませる情報を選べる」
俺はポケットからペンを出し、左手で持った。
借殻も左手へ黒い棒を作る。
次に右手へ持ち替え、投げるふりだけした。借殻は棒を本当に投げた。
澪が避ける。黒い棒は壁へ刺さり、孔界の膜を広げた。
「意図は写せない」
「じゃあ嘘の動きを増やしてください」
環の指示で、俺は肩を上げ、足を踏み替え、視線だけ別方向へ動かした。借殻は全部を行動として再現しようとし、形を崩す。
久世が床へ印を付けた。
「《分圧》。一面」
踏み込みの衝撃が借殻の足元へ集中する。黒い身体が浮き、澪の槍が胴を払った。
借殻は監視室の壁へ沈んだ。
倒してはいない。
雨音は壁の中を移動し、俺たちの背後へ回る。
「追うな」
澪が言う。
「九時三分まで十三分。部屋を出る」
全員で階段へ向かった。対策局の職員は上階へ避難済みだ。
二階へ上がったはずが、扉を開けると旧市街の共同溝があった。
孔界が建物の内側を飲み込んでいる。
環が《軌跡視》を使う。俺たち四人の線に加え、壁の中を走る薄い軌跡が見えた。
「借殻、先回りしてます」
「出口は」
「線が多すぎて……」
そのとき、胸元が冷えた。
黒い糸が、俺のパーカの内側から床へ垂れている。
いつ付いた。
借殻が監視室へ現れたときか。昨日、共同溝を出たときからか。
糸は皮膚の上ではなく、胸の奥へ続いているように見えた。
「動かないで」
澪の声が低くなる。
「俺に寄生してる?」
「可能性がある」
時計は八時五十六分。
槍で貫かれる未来が、急に別の意味を持った。
俺の姿をした借殻は、外から襲う敵ではない。
俺を内側から写し取っている。
「除去方法は」
久世が尋ねる。
澪は答えなかった。
救助槍の穂先を畳み、細い探針へ換装する。
「雨宮。報告を見せて」
俺は画面を彼女へ向けた。
九時三分まで、あと六分。
黒い糸が心臓の拍動に合わせ、少しずつ太くなっていた。




