第3話 三番扉を開けるな
地下へ降りる前に、御影澪は俺のスマートフォンを透明袋へ入れた。
「没収ですか」
「防水。あと、私たち全員が読める位置へ付ける」
袋は俺の胸元へ固定された。死亡報告を隠せないし、一人で読み違えることもできない。
共同溝の入口には、二人の調査員が待っていた。
一人は昨日、楓を抱えて走った大柄な男だ。
「久世岳。構造担当。昨日は名乗る暇がなかったな」
差し出された手は分厚いが、握り方は穏やかだった。
もう一人は、小型観測機を膝に載せた若い女性だった。丸い保護眼鏡の奥で目が忙しく動いている。
「白瀬環。地図担当です。未来の死亡者さん、端末見ても?」
「その呼び方はやめてください」
「じゃあ未来未死亡者さん」
「長くなっただけです」
環が笑い、澪が小さく息をついた。緊張を薄めるための冗談だと分かる。
午前十一時四十八分。
共同溝の平面図を広げ、俺は提案した。
「報告を使う条件を決めたいです」
澪が頷く。
「一つ。俺は単独行動しない。昨日みたいに現場へ飛び込まない」
「最初からそのつもり」
「二つ。通知の文章を原因と決めつけない。書かれているのは未来の俺が最後に認識したことだけかもしれない」
環が端末へ入力する。
「三つ。現場の観測が報告と食い違ったら、現場を優先する」
久世が付け加えた。
「四つ。中止の判断は全員が出せる。雨宮君もだ。怖いから、で構わない」
俺は一瞬、返事が遅れた。
自分の恐怖を作戦上の情報に数えたことがなかった。
「分かりました」
澪が時計を見る。
「確認。目的は三番扉を開けることじゃない。孔界の発生源を特定し、閉鎖区画に作業員が残っていないか調べ、全員で戻る」
四人で拳を軽く合わせた。
午前十一時五十三分、共同溝へ入る。
通路の左右には太い配管が走り、足元に排水溝がある。湿気はない。それなのに、奥から雨音が響いていた。
環が観測機を飛ばす。映像は十五メートル先で砂嵐になった。
「通信断。境界が近いです」
床へ引いた黄色い標識糸が、途中から黒く変色している。
その先を越えた途端、コンクリートの壁が遠のいた。共同溝は幅の広い地下通路へ変わり、天井から無数の配管が垂れている。
雨音はさらに近い。
だが、床は乾いたままだ。
澪が片手を上げた。
「音の間隔が一定じゃない」
耳を澄ます。
ざああ、という連続音の中に、四拍ずつ切れる箇所がある。
四本足の何かが、何体も走っている。
環の目が淡い緑に光った。
「《軌跡視》」
床の上へ、青白い線がいくつも浮かぶ。獣の足跡ではない。走った経路そのものが光の帯になり、俺たちを囲んでいた。
「雨じゃない」
久世が両手を壁へ付けた。
暗闇の中で、膜のように薄い犬の顔が一つ、二つ、持ち上がる。
「群れだ」
正午まで、あと五分。
三番扉は、まだ見えていなかった。
*
ー雨のない地下通路ー
黒い犬たちは、走っているのに前へ進んでいなかった。
四肢が床を叩くたび雨音が響き、青白い軌跡だけが俺たちの周囲へ重なる。
「追路犬。通らなかった道を塞ぐ残響体です」
環は観測端末へ目を落とした。
「記録上は一体ずつしか出ないはずなんですけど」
「記録外がいるのが現場だ」
久世が手袋の掌を床と壁へ押し当て、白い四角の印を残す。
先頭の追路犬が跳んだ。
澪の救助槍が横からその胴を払う。黒い膜がひしゃげたが、犬は空中で向きを変え、もう一度俺へ飛びかかった。
久世が割り込む。
「《分圧》」
犬の衝撃が、床と左右の壁へ散った。白い印から低い音が鳴り、追路犬は灰色の粒子へほどける。
残りが一斉に駆けた。
「戦わず進む。環、薄い軌跡は?」
澪の指示に、環が通路を見渡す。
「右奥。群れが一度しか通ってない線があります」
「雨宮、中央。久世、後ろ」
俺たちは走った。
音が背中へ迫る。右の通路へ曲がると、正面に錆びた扉が現れた。大きな数字の一。
一番扉。
平面図では、三番扉へ続く直線通路の最初にある。
澪が扉へ手を伸ばし、止まった。
「開ける前に確認」
俺の端末は十一時五十九分を示している。
死亡報告には三番扉とある。一番扉について何もない。安全という意味ではない。
「蝶番の粉が新しい。さっき誰かが開けた」
俺が指すと、環が《軌跡視》を狭めた。
「人の線が一本。向こうへ入って、戻ってない」
要救助者がいる。
澪が扉を開けた。
中は保守用の小部屋だった。作業服の男性が壁へもたれている。意識はあるが、右足を配管に挟まれていた。
「局の点検員です。警報の前から閉じ込められて……」
久世が配管の荷重を確認し、澪が男性の身体を《定着》させた。三秒の間に俺と環で足を抜く。
救出に成功した瞬間、正午になった。
死亡予定まで十六分。
「この人を入口へ」
澪が言うと、男性が首を振った。
「もう一人いる。相田が奥の弁を閉めに行った」
平面図では弁室の手前に三番扉がある。
報告の場所へ進む理由ができてしまった。
「戻る選択もできます」
俺は全員へ言った。
澪が作業員の脈を確認しながら答える。
「この人を環に任せる。久世と私と雨宮で奥へ行く。環は入口まで送り、戻れるなら追いつく。異議は」
環は不満そうだったが頷いた。
「地図、置いていきます。道が変わったら信じないでください」
「地図担当がそれを言うのか」
「正しい地図は、正しかった時刻の記録ですから」
環と作業員を見送り、三人で奥へ進んだ。
二番扉は開いていた。
その向こうに、三番扉がある。
時計は十二時九分。
扉の前には、濡れた靴跡が一組だけ残っていた。
雨は降っていない。
靴跡は扉へ近づくのでなく、扉からこちらへ出てきていた。
「相田さんのものなら、戻ったはずだ」
久世が言う。
だが、通路に人影はない。
澪が三番扉へ近づく。
取っ手に触れていないのに、扉が内側からゆっくり開き始めた。
*
ー戻らなかった足跡ー
「御影さん、離れて!」
俺が叫ぶより早く、澪は後ろへ跳んだ。
三番扉は誰にも触れられず、半分まで開いた。
隙間の向こうは弁室ではなかった。黒い雨が降る、夜の駅前広場だ。地面の下にあるはずの場所へ、街灯と横断歩道が広がっている。
十二時十一分。
死亡報告は「御影澪が開けて」と書いていた。
澪は開けていない。だが扉は、彼女が近づいたことで開いた。
未来の俺には違いが見えなかったのだ。
「主語から間違ってた」
「報告が?」
「俺の認識がです。扉はあなたを選んで開く」
扉の向こうで、黄色い救助ジャケットが揺れた。
澪と同じ背格好の人影が、夜の広場を歩いている。その肩に、作業服の男性が担がれていた。
「相田さん」
久世が呼ぶ。
人影が振り返った。顔は平らな黒い膜だった。
追路犬が人間の形を借りている。
澪は救助槍を構えた。
「あれを倒せば、作業員が戻る保証はない」
「本物は別にいる」
俺は濡れた靴跡を見た。
足跡は扉から出て、通路の途中で消えている。消えた地点の壁には細い縦線があった。
「久世さん、この壁の向こうは?」
「図面だと弁室だ」
つまり三番扉の見せる夜景が偽物で、壁に埋もれた本来の出入口が別にある。
十二時十三分。
黒い人影が扉を越えてくる。
澪が槍を突いた。穂先は胸を貫いたが、人影は粒子にならず、槍へ絡みつく。
「扉を閉める!」
久世が縁へ手をかける。扉は動かない。
俺は壁の縦線へ走り、非常用の工具を差し込んだ。隙間は浅い。
「構造が押されてる。三番扉の空間が本来の弁室を横へずらしてるんだ」
「戻す支点が要る」
久世が床と壁へ白い印を置く。
黒い人影は澪の腕まで覆っていた。救助槍を通じて彼女の姿を写し取り、顔のない頭に目と口の窪みができる。
十二時十五分。
「澪、三秒くれ!」
久世が初めて名前で呼んだ。
澪は絡まれたまま、槍の石突きを床へ打つ。
「《定着》」
三番扉と黒い人影が止まる。
久世が《分圧》を発動した。扉の空間を押していた力が、俺の前の壁へ流れる。
縦線が割れ、本来の扉が現れた。
俺は取っ手を引く。
弁室の床に、作業服の男性が倒れていた。
十二時十六分。
天井が崩れた。
報告どおりの時刻。報告どおりの場所。
だが俺は、未来の俺が知らなかった扉を開けていた。
久世の白い印が衝撃を左右へ逃がす。澪の《定着》が切れ、黒い人影と三番扉が一緒に歪んだ。
「雨宮、作業員を!」
俺は相田の腕を肩へ回した。
澪が救助槍を引き抜くと、写しかけの人影は形を保てず灰へ崩れた。夜の広場も三番扉も、薄い紙のように折れて消える。
残ったのは、普通の共同溝と弁室だけだった。
俺は生きている。
通知が変わる。
12:16 回避
今度は喜ぶ前に、胸と背中へ鈍い痛みが走った。瓦礫に押されたことのない身体が、押された記憶だけを訴えている。
澪が俺の顔を見た。
「また?」
「少しだけです」
「少し、で隠さない」
命令口調だった。
俺は頷き、痛みの位置と時刻を口にした。
未来を変えるなら、その代価まで記録しなければならない。




