第2話 明日を一度だけ直す
赤い傘の少女が一歩近づくたび、天井の軋みが大きくなった。
「残響体です」
後方の隊員が警棒を構える。
「待って」
俺は止めた。
少女の靴は床へ触れていない。傘も濡れていない。それなのに足元から黒い雨跡が広がっている。
攻撃すればいいのかもしれない。だが、俺の死亡報告には怪物のことなど書かれていなかった。
書かれていたのは、崩落と赤い傘だ。
「御影さん。あれが近づくと崩れるんじゃない。俺たちがあれを追うと、崩れる場所へ誘導されるんじゃないですか」
「根拠は」
「表示です」
壁の案内板は東口を右と示している。救助班の反射テープは左。どちらを選んでも同じ売店へ戻った。
会社で見つけた経路案内の反転が頭に浮かぶ。
出発点を階段途中へ置いたときだけ、アプリは現在地の向きを逆に判定した。
ここでも、基準が逆なのではないか。
「床じゃなくて、天井側が正しい通路です」
全員が揺れる天井を見上げた。
夕焼けの透ける水面。その向こうに、逆さまの駅前広場がある。
「あちらが地上なのは見れば分かる」
「そうじゃありません。標識が天井に立っていた。俺たちが同じ場所へ戻ったんじゃなく、途中で上下を反転させられて、反対側の同じ構造へ入ったんです」
澪は一秒だけ考え、床の黒い跡へ槍の穂先を触れさせた。
「固定する。久世、支点を」
大柄な隊員――久世が、楓をもう一人へ預けた。壁と床へ掌を当て、白い印を残す。
「《分圧》、二面」
次の瞬間、少女の赤い傘が開いた。
上から轟音が落ちてくる。
澪は槍を床へ突き立てた。
「《定着》」
黒い雨跡を中心に、空気が硬くなった。
崩れ始めた天井が、三秒だけ止まる。
一。
久世が床を蹴った。白い印から衝撃が逃げ、壁全体が波打つ。
二。
停止した瓦礫の隙間へ、夕焼けの光が差した。天井だと思っていた面に、人一人が通れる裂け目がある。
「あそこが出口です!」
三。
澪の《定着》が解けた。
久世が楓を抱え、裂け目へ跳ぶ。後方隊員が続く。澪は俺の襟をつかんだ。
「あなたが先」
「でも――」
「救助員の指示に従って」
反論する暇はなかった。俺は壁を踏み、裂け目へ手を伸ばす。
上下の感覚がひっくり返った。
夕焼けへ落ちる。
次に背中を打ったのは、東口広場の舗装だった。周囲で警報が鳴り、人々が封鎖線の外へ避難している。
久世たちが楓を運び出す。澪も裂け目から転がり出た直後、黒い水面が閉じた。
広場の一角が沈んだ。
音は大きかったが、誰もその下にはいなかった。
赤い傘の残響体は、閉じる寸前の孔界で薄い膜になり、灰色の粒子へほどけた。
「お母さん!」
楓が叫んだ。
封鎖線の向こうから女性が駆けてくる。救助員に止められ、確認を受け、それから楓を抱き締めた。
その光景を見た瞬間、膝から力が抜けた。
俺は死ななかった。
楓も、澪たちも生きている。
死亡報告の画面を見る。
白い文字が一文字ずつ薄くなり、最後に時刻だけが残った。
18:42 回避
「未来が変わった」
俺の呟きを、隣の澪が聞いた。
「違う」
「え?」
「あなたが変えた。一人で、とは言わないけど」
澪は倒れそうな俺の肘を支えた。
その手の温度に安心した途端、胸の奥で何かが潰れた。
息が止まる。
地面の下で圧迫されたような痛みだった。実際には傷一つないのに、肋骨の内側だけが崩落を覚えている。
俺は胸を押さえて座り込んだ。
「雨宮?」
澪が初めて俺の名前を呼んだ。
痛みは十秒ほどで引いた。
救急班が来るころには心拍も呼吸も正常だった。だが、あれを錯覚だとは思えなかった。
回避された十八時四十二分。
そこで死んだはずの俺だけが、まだ俺の中に残っている。
*
ー三番扉を開けた女ー
翌朝六時、俺は病院の簡易ベッドで目を覚ました。
通知はすでに待っていた。
12:16 旧市街地下。三番扉。
御影澪が開けて、俺は死ぬ。
昨日より短い。
そして、昨日より始末が悪かった。
カーテンの向こうで椅子が鳴った。
「起きた?」
御影澪が、紙コップのコーヒーを二つ持って立っていた。黄色い救助服ではなく、紺色の対策局シャツを着ている。
俺は通知を隠すより先に端末を差し出した。
澪は一度だけ読み、俺の顔を見た。
「見せていいの」
「見せないと、俺があなたを疑って単独行動するかもしれない」
「自覚はあるんだ」
「品質保証は、隠された不具合を一番嫌います」
澪はコーヒーを一つ置いた。
「じゃあ先に言う。旧市街地下共同溝で、小規模孔界の反応が出てる。今日の正午から調査予定」
「三番扉も?」
「共同溝には保守扉が七つある。三番も実在する」
一致が早すぎる。
「調査を中止できませんか」
「できる。でも孔界が広がれば、上にある住宅区を避難させることになる。あなた一人を危険へ連れていく理由はないけど、調査自体をやめる理由には足りない」
正論だった。
俺は通知の画像を拡大した。送信元なし、作成者なし。昨日と同じsource: tomorrow。文字数は三十七。
御影澪が開けて、俺は死ぬ。
彼女が俺を殺すとは書いていない。
「三番扉を開けなければいい」
「扉の向こうに要救助者がいたら?」
「別の方法を探す」
「それが現場で決められるならね」
澪の声は冷たくない。ただ、希望を作戦と呼ばない人の声だった。
検査では、胸に異常は見つからなかった。
退院手続きを終えると、対策局の職員が俺を地下の会議室へ案内した。中央駅の監視映像、端末の画像、俺の行動記録が大きな画面に並ぶ。
説明を三度求められ、同じ内容を三度答えた。
「未来からの通信だと証明できますか」
「できません」
「昨日の孔界発生を事前に知る手段は」
「俺にはありません」
「御影隊員と面識は」
「昨日が初対面です」
返答のたび、自分の話が信用に値しないことだけが明確になる。
それでも監視映像には、警報より四分早く現場へ来た俺が映っていた。孔界内の記録端末には、俺が上下反転を指摘した音声も残っている。
会議の終わりに、澪が一枚の書類を机へ置いた。
「臨時情報解析補助員。今日一日だけ」
「俺を連れていくんですか」
「通知を検証する。外れたら、あなたを現場から外せる。的中したら、外に置いても危険は消えない」
「あなたが開けると書いてあります」
「だから私が行く。自分の手が何をするかは、自分で確認する」
俺は書類を読んだ。
単独行動禁止。現場指揮は澪。危険時は救助員の命令を優先。取得情報は全員で共有。
署名欄の上でペンが止まる。
昨日、駅へ行った判断は正しかったのか。
助かったから正しい、では足りない。俺が行かなければ孔界が起きなかった可能性すらある。
それでも、知らないまま正午を迎えるよりはいい。
俺は署名した。
十一時四十分。旧市街地下共同溝の入口へ着く。
空は晴れていた。
なのに地下階段の奥から、絶え間ない雨音が聞こえていた。
澪が救助槍を伸ばす。
「三番扉は最深部。まず、そこへ着くまでに通知が何を省いたか確かめる」
彼女は先頭で暗闇へ降りた。
十二時十六分まで、あと三十六分だった。




