第1話 俺の死亡時刻は十八時四十二分
俺が死ぬまで、あと十二時間四十二分だった。
午前六時。目覚ましより先に、枕元のスマートフォンが震えた。
画面を埋めていたのは、見覚えのない黒い通知だった。アプリ名も送信者名もない。ただ、白い文字が四行並んでいる。
18:42 天ヶ瀬中央駅東口。崩落。
赤い傘の子を追って、俺は死ぬ。
寝ぼけた頭で三度読み、俺は通知を消した。
消えなかった。
電源を落としても、画面の中央に同じ文が残った。再起動すると壁紙より先に表示された。機内モードにしても変わらない。
スクリーンショットは撮れた。画像のプロパティには、撮影時刻のほかに妙な文字列が記録されていた。
source: tomorrow
「趣味の悪い不具合だな」
声に出すと、ようやく現実らしくなった。
俺は雨宮朔、二十六歳。避難経路支援ソフトを作る会社で品質保証を担当している。起きるかもしれない失敗を先回りして探し、開発者が嫌な顔をする報告書を書くのが仕事だ。
だから、怪しい表示を見たとき最初にすることは、信じることでも怖がることでもない。
再現条件を探すことだ。
通知時刻は六時ちょうど。文字数は句読点を含めて四十六。端末の通信履歴に受信記録なし。予定表には午後六時半、中央駅近くの取引先から直帰とある。
場所だけなら当てられる。俺の予定を盗み見た誰かの悪戯かもしれない。
問題は、赤い傘だった。
窓を開けると、空は雲一つなく晴れていた。
通勤電車の中でも、通知は消えなかった。画面を伏せても、ポケットの中で一時間ごとに短く震えた。時刻が近づいていることを、端末のほうが気にしているらしい。
会社に着くと、俺はいつもの試験室へ入った。
避難経路アプリの更新版には、地下街で出口が閉鎖された場合、自動で別経路を提案する機能が追加されていた。午前中の試験は問題なし。昼前、俺は出発点を階段の途中へずらし、歩行速度を最低に設定した。
案内矢印が一瞬だけ反転した。
「止めてください」
隣の開発担当がため息をついた。
「雨宮さん、その条件、実際にあります?」
「足を痛めた人が階段で警報を受けたらあります。反転は一秒ですが、その一秒で戻る人もいる」
「公開、今日なんですけど」
「だから今日直します」
嫌われる言い方だと分かっている。それでも、一度見つけた誤りを見なかったことにはできない。
午後三時に修正版が届き、五時に試験を終えた。矢印はもう反転しなかった。
一つの失敗は消えた。
ポケットの端末が震えた。
死亡予定まで 01:42
「予定って言うな」
誰もいない試験室で呟いた。
取引先との打ち合わせは予定より十分早く終わった。中央駅を避けるなら、二駅手前から歩けばいい。東口へ近づかなければ、赤い傘も崩落も関係ない。
俺は地下鉄の改札前で足を止めた。
四年前も、そうだった。
天ヶ瀬中央駅で最初の孔界が発生した日、俺は警報に従って逃げた。親友の柊木和真は、転んだ人を助けるために戻った。生き残った俺の端末には、あいつからの最後の音声が今も保存されている。
――生きてるなら、次を直せ。
正しい判断は、駅へ行かないことだ。
だが通知が本物なら、赤い傘の子は俺が行かなくてもそこにいる。
俺は中央駅の一つ手前で降り、地上を走った。
東口広場へ着いたのは十八時三十四分。帰宅を急ぐ人々が行き交い、空はまだ明るい。雨は降っていない。赤い傘など見当たらなかった。
十八時三十六分。
広場の位相警報灯は緑。地面に亀裂なし。地下から異音もない。
十八時三十八分。
俺は自分が悪戯に負けたのだと思い始めた。通報するにしても、根拠がスマートフォンの怪文書では相手にされない。
そのとき、広場の向こうで赤い色が揺れた。
小さな女の子が、晴れた空の下で赤い傘を差していた。
傘は子どもの手を離れ、風もないのに駅舎のほうへ転がった。女の子が追う。
俺も走った。
「待って! 傘はいい、止まって!」
少女が振り返る。足元の舗装が、黒い水面のように波打った。
十八時四十一分。
警報灯が赤へ変わるより先に、地面が沈んだ。
俺は少女の腕をつかんだ。引き寄せた反動で、二人そろって黒い水面へ倒れ込む。
落下する視界の端で、スマートフォンの数字が切り替わった。
十八時四十二分。
通知は、時刻どおりだった。
*
ー赤い傘を追うなー
落下は一秒も続かなかった。
なのに、着地した場所は地上から何十メートルも下に思えた。
背中を硬い床へ打ちつけ、肺の空気が抜ける。腕の中で少女が泣いた。泣けるなら息はある。俺は痛みをこらえて上体を起こした。
駅の地下通路に似ていた。
白い壁、案内板、閉じた店舗のシャッター。ただし天井は水面のように揺れ、その向こうに夕焼けが逆さに透けている。床には黒い雨粒の跡が点々と続いていた。
孔界。
四年前から世界のあちこちへ現れるようになった、現実と重なった異空間だ。
「怪我は?」
少女は首を振った。赤い傘はしっかり抱えている。
「お母さん、あっち」
指した先には誰もいない。
「名前、言える?」
「楓」
「楓ちゃん。俺は朔。まず出口を探す。お母さんは救助の人が捜してくれる」
俺自身が救助を待つ側だ。それでも、四年前と同じ顔を子どもにさせたくなかった。
スマートフォンを見る。通信圏外。死亡報告は残っている。
18:42 天ヶ瀬中央駅東口。崩落。
赤い傘の子を追って、俺は死ぬ。
時刻は過ぎた。俺は生きている。
報告が外れたのか。死ぬ場所へ到着しただけなのか。
遠くで金属を三度叩く音がした。
救助班の合図だ。俺も通路脇の手すりを拾った硬貨で三度叩いた。
返事は二度。待機しろ、の意味だった。
やがて黄色い照明が近づいた。先頭にいた女性は濃紺の髪を肩で切りそろえ、黄色い救助ジャケットの背へ伸縮式の槍を背負っていた。
「要救助者二名を確認。歩ける?」
「二人とも歩けます」
彼女は楓の目線までしゃがみ、名札を見せた。
「御影澪。迎えに来た。お母さんも別班が見つけている」
断言した声に、楓の肩から力が抜けた。
澪は俺へ視線を移す。
「あなたが通報者?」
「通報する前に落ちました」
「どうして発生地点が分かった」
説明する時間を迷った。
死亡報告の画面を見せる。澪は眉を寄せたが、笑わなかった。
「受信した時刻は」
「今朝六時」
「改ざんの可能性は?」
「否定できません。通信履歴には何もない。ただ、場所と時刻は一致した」
「死因は崩落」
彼女が周囲を見た。
「まだ起きていない」
その言葉と同時に、天井から細い砂が落ちた。
澪は無線へ呼びかけた。
「東口直下、構造変動あり。要救助者二名。帰還路を――」
雑音が答えた。
通路の奥で、駅の案内表示が点灯した。
東口 120m
俺たちが来た方向を指している。
救助班は澪を含めて三人。大柄な男性が楓を抱き上げ、もう一人が後方を警戒した。澪は俺に簡易マスクを渡す。
「通知を信じるなら、十八時四十二分以降に崩落する。ここを離れる」
「東口へ戻るんですか」
「孔界内の表示は信用しない。私たちが付けた標識を使う」
壁際に黄色い反射テープが貼ってあった。三角の先端が左の通路を示している。
俺たちはテープをたどった。
曲がり角を二つ越えると、さっき通ったはずの売店前へ戻った。床に俺の靴跡がある。
「環状化」
澪が短く言う。
後方の隊員が赤い発煙筒を置いた。もう一度同じ角を曲がる。今度は発煙筒が天井に立っていた。
現実の向きまで折れている。
楓が大柄な隊員の肩で身じろぎした。
「傘、返さなきゃ」
「誰に?」
澪が尋ねる。
「あの子」
楓の指した先、薄暗い通路に小さな人影が立っていた。
赤い傘を差した女の子だった。
大柄な隊員の腕の中にも、楓と赤い傘がある。
二つ目の傘の下で、顔の見えない少女がこちらへ手招きした。
床の黒い雨跡が、その足元から俺たちの下へ伸びてきた。
「全員、動くな」
澪が槍を引き抜いた。
黒い跡が、ひび割れのように枝分かれする。
頭上で、巨大な何かが軋んだ。
報告にあった崩落は、まだ終わっていなかった。




