第12話 街から出口が消えた日
榛名透子は、研究棟からデータを持ち出していた。
第一核の摂食モデル。
都市収束の実行手順。
俺の返信先を中継器にする設計書。
すべてが環の端末へ届いた。
『雨宮さん、聞こえますか』
点検用回線から環の声がする。
「聞こえる。床の九割が孔界。椅子と壁際だけ残ってる」
『三人で向かってます』
「澪は資格停止中」
『今さらです』
榛名の声も入った。
『第一核は未来を見ているのではありません。都市から選択肢を回収し、食べやすい形へ折り畳んでいます』
「明日保証計画は、餌を一つに集める装置?」
『最終段階では逆です。一つ以外の未来を一度に食べさせ、核を満腹状態で固定する。そのとき街も固定されます』
誰も死なない。
誰も違う選択をできない。
霧生の目指す安全は、明日を一日だけにすることだった。
「停止方法は」
『四基の中継器を同時に切る。ただし霧生さんが中央権限を持っています』
予報室の壁が動き始めた。
椅子を中央へ押し、俺を結晶の前へ戻そうとする。
「急いで」
『もう入口です』
扉の向こうで衝撃音。
久世が隔壁の力を別の面へ逃がしている。環が消された保守経路を探し、澪が最短で進む。
俺は椅子の金属脚を外し、点検口へ差し込んだ。
胸の残痛が一斉に戻る。
結晶が近いせいだ。
東口の崩落。槍。梁。落下。
立っていられない。
「痛み、九。動作低下」
共有回線へ報告する。
澪の声が返る。
『受け取った。今からそっちへ行く』
未来の俺ではなく、今の俺の情報を聞いてくれる。
俺は点検口をこじ開けた。
向こうから黄色い救助槍の穂先が突き出した。
『迎えに来た』
*
ー予報室からの脱出ー
点検口が開いたのは、人一人が腕を通せる幅だけだった。
澪がこちらへ手を伸ばす。
「三秒、壁を止める」
「残りは?」
「みんなが動く」
《定着》が発動する。
狭まっていた壁と、広がる黒い水面が止まった。
一秒目。
久世が外側の隔壁へ印を置き、圧力を天井へ逃がす。
二秒目。
環が点検口の奥へ標識糸を投げ、俺の腕へ巻く。
三秒目。
俺は椅子を蹴り、点検口へ飛び込んだ。
固定が切れる。
床が消えた。
久世が糸を引き、澪が俺の手首をつかむ。環は二人の足元に残る軌跡を指した。
「右半歩! そこだけ現実!」
四人で保守路へ転がり込む。
背後で予報室が黒い水面へ沈んだ。
「一時間、まだ経ってない」
俺が言うと、澪は息を整えながら答えた。
「待つ理由が減った」
時計を見る。予報室を出るまで、二十二分だった。榛名の「三十分、持ちこたえてください」は、守られていた。
榛名が構造図を送る。最寄りの中継器は同じ地下階にある。
「逃げるだけじゃ、また使われる」
俺たちは中継器へ向かった。
警備用の隔壁が閉じる。環が過去の保守員の軌跡から隠しレバーを見つけ、久世が作動衝撃を分ける。
中央室には、黒い結晶を囲む四本の柱があった。
一基だけなら停止できる。
俺は試験用端末を接続し、予報室で生成された死亡報告を大量入力した。同じ時刻に異なる退路を持つログをぶつけ、装置へ矛盾を起こす。
警告表示。
安全経路を一つに確定できません。
「それでいい」
澪が柱を三秒固定し、久世が内部圧力を外壁へ逃がす。環が配線の軌跡から主回路を選ぶ。
俺が停止キーを押した。
一基目の光が消える。
街の推奨経路表示が四分の一、白紙へ戻った。
管制画面に霧生の顔が映る。
『残念です。まだ不確実さを善と呼ぶのですね』
「善じゃない。直せる余地だ」
『では、直す必要のない明日を完成させます』
残る三基が最大出力になる。
霧生は都市収束を前倒しした。
*
ー街から出口が消えた日ー
天ヶ瀬市から、出口が消えた。
市境へ向かった列車は中央駅へ戻った。
高速道路を走る車も、トンネルを抜けると出発地点にいた。
徒歩で橋を渡った人は、同じ橋の入口へ戻された。
時計は進む。人の記憶も残る。
場所だけが、一つの選択へ折り畳まれていた。
対策局は地上避難所を開放した。街の外へ出せないなら、孔界の少ない広場へ集めるしかない。
俺たちも救助へ回った。
「中央駅へ行くんじゃないの」
環が問う。
「市民を置いて深層へ行けば、霧生の言う安全と同じになる」
澪が答えた。
明日保証計画の推奨表示は、全員を中央駅へ導いていた。俺たちは表示を消し、学校や公園へ分散させる。
久世が建物の安全を確認し、環が変動していない地面を地図へ記す。榛名は対策局から第一核の信号を追った。
夜までに、主要避難所への誘導が終わった。
死者はいない。
だが街の外から届く通信は、同じ十秒を繰り返していた。
『天ヶ瀬市の皆さん、落ち着いて――天ヶ瀬市の皆さん、落ち着いて――』
「収束率、七十二パーセント」
榛名が告げる。
「百になると?」
「今日とほぼ同じ明日が、第一核の内部で固定されます。事故は起きません。新しい選択も起きません」
翌朝までに深層へ入ると決めた。
四人は対策局の床で短い休息を取った。
俺は眠る前、澪へ尋ねた。
「資格、戻ってませんよね」
「街ごと規則の外だから」
「便利な解釈です」
「あなたに言われたくない」
少し笑い、目を閉じる。
次に目を覚ますと、窓の外は昨日と同じ薄い青だった。
同じ位置を鳥が飛び、同じバスが無人の道を曲がる。
対策局の時計だけが、正しく翌日を示していた。
街は同じ朝を歩き始めていた。
*
ー同じ朝を歩く街ー
午前七時十二分、対策局前を青いバスが通る。
午前七時十三分、自転車のベルが二度鳴る。
午前七時十四分、空の植木鉢が二階から落ち、割れずに元の窓へ戻る。
三回目の反復で、俺たちは外へ出た。
「同じ行動をすると、同じ場所へ戻されます」
環が青い軌跡を指す。人々の線は昨日の経路へぴったり重なっている。
「なら、正しくない行動をする」
俺は横断歩道の手前で靴紐をほどき、結び直した。
昨日の俺はそんなことをしていない。
信号が青になる時刻が一秒ずれる。
植木鉢が落ちる位置も少しずれ、初めて地面で割れた。
「失敗を作った」
澪が言う。
「予測にない小さな遅れです。収束は完成した未来しか反復できない」
環は地図の角を一枚破り、久世はわざと左右違う手袋を着けた。澪は救助槍を背中でなく左手に持つ。
昨日と違う小さな選択を重ねる。
道は中央駅へ戻らず、旧市街へ伸びた。
「間違えるほど進める街か」
久世が苦笑する。
「計画にとっての間違いです」
人を危険へ置く必要はない。歩幅、言葉、選ぶ飲み物。安全な差異だけで未来は枝分かれする。
第一核はそれを消そうと、街の景色を揺らした。
久世の足が止まる。
道路脇に、古い一軒家が現れていた。
窓から小学生ほどの女の子が顔を出す。
「お父さん、今日は早いね」
久世の娘だ。
だが彼の家族は市外にいる。
「行かないで」
久世は俺たちへ言った。
「これは、俺が見ないといけない」
数秒、彼は動かなかった。娘の声はあまりに自然で、俺たちの声より近くに聞こえる。止めるべきか、俺たちには判断できなかった。
家の扉が開く。
その向こうには、彼が一度も失敗しなかった人生が待っていた。




