第11話 作られた死亡報告
三日間、天ヶ瀬市では大きな事故が一件も起きなかった。
孔界による負傷者もゼロ。
救急搬送は例年の半分。
明日保証計画を知らせる市の窓口には、感謝の声が届いた。
「この数字を否定できますか」
霧生は会議で尋ねた。
否定できない。
俺の残痛も増えていない。
だが環の記録には、別の数字があった。
推奨経路外へ進めなかった事例、百二十七件。
予定を変更できなかった事例、四十三件。
本人が変更しようとしたこと自体を忘れた疑い、九件。
「死亡者ゼロと比べれば、軽微です」
研究員が言う。
「軽いかどうかを、変更したかった本人に聞いてない」
澪が返す。
霧生は沈黙した後、聞き取り調査を約束した。
その日の夕方、澪の端末へ非公式の救助要請が入った。
母親からだった。
推奨経路の外にある保育施設へ、子どもを迎えに行けない。何度歩いても同じ交差点へ戻る。
対策局は出動を却下した。
対象地点に生命危険なし。推奨経路を維持してください。
「子どもは安全です」
俺は画面を確認した。
「明朝、迎えに行ける予測になってる」
澪が俺を見る。
「五歳の子に、母親が来ない夜を安全と言う?」
答えられない。
計画上の死者はいない。
だから、計画からこぼれた不安は数えられていない。
「内部から解除経路を探す」
俺は言った。
「どれくらい」
「一時間」
「子どもにとっては長い」
澪は救助ジャケットを着た。
「命令違反になります」
「記録して」
「俺も行く」
「あなたは中に残って。閉じる側を見つける人が必要」
互いの役割を選んだだけだ。
それでも、彼女が扉を出た後の監視室は、一本の道しかない孔界より狭く感じた。
*
ー選べない安全ー
澪の位置は、同じ交差点を回り続けた。
環と久世が現地で合流し、三人の軌跡を送る。道路は直線なのに、推奨外へ出た瞬間だけ座標が始点へ戻る。
「明日保証塔から位相信号が出ています」
俺は管制記録で見つけた。
計画は人を案内しているのではない。
予測から外れる道を、孔界で折り畳んでいる。
「停止権を使います」
中央端末へ入力する。
権限保留
契約では俺と澪のどちらにも即時停止権がある。だがボタンは灰色だった。
霧生へ連絡する。
『全市運用中です。一部停止は別地域の安全率を下げる』
「契約違反です」
『あなたを危険へ置かないための措置でもある』
「俺のために、俺の権限を消した?」
『結果を見てください。死者はゼロです』
現地映像で、母親が道路へ座り込んだ。澪が隣へ膝をつき、何かを話している。
子どもは安全。
母親も安全。
数字だけなら問題はない。
俺は試験端末から推奨経路を一つ追加した。保育施設までの道を「機器点検ルート」として安全候補へ偽装する。
位相信号が揺れた。
折り畳まれていた交差点が、十秒だけ開く。
『今です!』
環の声。
澪たちが母親を連れて走る。
十秒後、道はまた閉じた。だが四人は保育施設側にいる。
画面の向こうで、母親が子どもを抱いた。
霧生から通信が入る。
『今の変更で、西区の事故予測が〇・三パーセント上がりました』
「ゼロでなくなったら、全員を閉じ込めるんですか」
『危険を許す理由がありません』
「選ぶこと自体を危険扱いしてる」
俺は計画の内部記録を複製した。
推奨外経路閉鎖は、想定外の現象ではない。都市収束という正式機能だった。
澪が保育施設から戻る。
対策局の監察員が待っていた。
「御影隊員。命令違反について聴取します」
「その前に救助完了を記録してください」
彼女は手首を差し出すように装備を外した。
命令に従わなかったことを、後悔していない顔だった。
*
ー澪は命令に従わないー
澪の資格は一時停止になった。
処分期間は三日。明日保証計画の実証期間と同じ長さだった。
「狙った処分です」
環が怒る。
「現場監視から外すためでしょう」
久世も同意した。
俺は計画室に残ると伝えた。
澪は驚かなかった。
「止めないの」
「中止権を消した記録と、都市収束の仕様を外へ出す。内部端末からしか取れない」
「また一人で危険へ残る」
「違う。環に複製を送る。久世さんには塔の構造図。あなたには毎時連絡する」
俺は四原則を書いた共有画面を見せた。
「一人で抱えない。でも、中にいる役割は必要です」
澪はしばらく黙っていた。
「一時間連絡がなければ迎えに行く」
「資格停止中です」
「命令に従わないのは知ってるでしょう」
少しだけ笑った。
離れることと、信頼をやめることは違う。
澪が装備を返しに行くのを見送り、俺は一人で塔へ戻った。四原則の三つ目、現場を優先する、を胸の中で唱える。今この瞬間の現場は、誰もいない一人の部屋だ。それでも、一人で決めていいわけではない。決めたことを、後から誰かに直してもらえる形にしておく。今の俺にできる安全策は、それだけだった。
計画室へ戻ると、中央の椅子だけが照らされていた。
霧生は俺を責めなかった。
「御影さんの救助で、母子は安心した。理解はします」
「なら、なぜ道を閉じる」
「あの変更から派生した二万の未来に、七件の重大事故がある」
「起きていない事故です」
「あなたは起きていない自分の死を信じて行動した」
痛いところだった。
「違いは、俺の報告には選び直す余地がある。計画は一つ以外を最初から消す」
霧生は左手の指輪を回した。
「選び直した結果、救うほど第一核を育てた」
反論の言葉が出ない。
中央端末へ、新しい指示が表示された。
雨宮朔 地下予報室へ移動
地図上の目的地は、明日保証塔の地下。
危険指数は表示されていない。
俺は環へ位置を共有し、澪へ一時間の時計を送った。
地下予報室へ続く扉が閉まる。
中には、俺のための椅子と、胸の高さに浮かぶ黒い結晶が待っていた。
*
ー作られた死亡報告ー
地下予報室の扉には、内側の取っ手がなかった。
黒い結晶が脈打つたび、胸の返信先が冷える。
「霧生さん。これは何の試験です」
天井のスピーカーが答えた。
『都市収束の校正です。座ってください』
「意図的に危険を作って報告を発生させない。契約条件です」
『危険はありません。あなたが指示に従う限り』
床の一部が黒い水面へ変わった。
俺は椅子へ座らない。
水面が少しずつ広がる。出口側から迫り、立てる場所を奪う。
『座れば止まります』
安全な経路は一つ。
計画が街でやっていることを、俺一人へ縮めた部屋だった。
俺は位置標識を床へ置き、変化の速度を測った。水面は俺が椅子を見たときだけ遅くなる。
選択を読んでいる。
「あなたは俺を殺したくない。でも、死ぬ未来を作りたい」
『その未来から、最も安全な都市経路を抽出する』
端末が震えた。
10:15 地下予報室。
椅子から立った瞬間、床がなくなる。
現在は十時十三分。
死亡報告が作られた。
霧生は俺を死なせず、死ぬ可能性だけを栽培している。
俺は椅子へ座った。
黒い水面が止まる。
一分後、報告どおりに立てば床が消える。なら立たないのが正解だ。
だが正解へ座り続ければ、俺の返信先は装置になる。
装置になる、というのは比喩ではなかった。ここで大人しく座り続ければ、俺は死亡報告を生成するためだけの部品になる。品質保証の仕事なら、そういう部品はまず疑う。今の俺自身がその部品だと気づいて、ようやく怖さの正体が分かった。死ぬことより、選ばずに生かされることのほうが怖かった。
「環、聞こえるか」
共有端末は圏外だった。それでも音声記録を開始する。
「報告の全文、時刻、室内条件。意図的生成を確認」
十時十五分。
俺は椅子から立たず、椅子ごと横へ倒した。
床が消える。
椅子の脚が壁際の細い保守縁へ引っかかった。俺は背もたれを踏み、非常配線へ手を伸ばす。
一本しかない行動を、同じ目的の別動作で外す。
警報が鳴った。
扉は開かない。
だが天井の点検灯が、一度だけ緑へ変わった。
外から誰かが制御へ触れている。
榛名透子だった。
彼女から一行のメッセージが届く。
記録を外へ送りました。三十分、持ちこたえてください。




