嫉妬
帰りの車内。
アルコールを飲んでいない由美がハンドルを握っていた。
湘南の夜景が、フロントガラスの向こうをゆっくり流れていく。
ラジオは小さくKポップを流していた。
「楽しかったわね」
由美が笑う。
だが助手席のタケルは、どこか浮かない表情。
窓の外を見たまま、小さく息を吐く。
「なんかさ」
「現実見せられた感じだよ」
「現実?」
由美がちらりとタケルを見る。
「僕が、いくら営業トップでもさ」
タケルは苦笑する。
「今日いた人達には全然敵わないなって」
投資家。
経営者。
それにアキラ。
自分とは違う世界の人間達。
由美は呆れたように笑った。
「なに言ってるの」
片手で軽くタケルの肩を叩く。
「タケルは全然負けてないわ」
タケルは小さく笑う。
その横顔を見ながら思う。
自分の妻ながら、今日も綺麗だ。
黒髪のショートボブ。
笑うと少し幼く見える目元。
出産をしてからも何も変わらない。
その時だった。
ふと。
タケルの頭に、さっきの光景が浮かぶ。
夜風の吹くバルコニー。
由美の笑顔。
アキラさん。
タケルはなるべく自然を装って尋ねた。
「そういえばさ」
「ん?」
「バルコニーでアキラさんと何話してたの?」
由美は少しだけ考える。
だがすぐに笑った。
「うーん……」
「昔の仕事の話だったかな」
「別に大した話じゃないわ」
タケルは「ふーん」とだけ返した。
だが。
その表情には、小さな疑いが残っていた。
「……何よ?」
由美が笑いながら横を見る。
「どうしたの?」
タケルは少し迷ったあと、小さく口を開いた。
「いや……」
「なんか、雰囲気良かったからさ」
由美が一瞬きょとんとする。
「アキラさんと」
タケルは続ける。
「なんか、距離近かったし」
そこまで言って、タケルは黙り込む。
自分でも子供っぽいと思った。
数秒後。
由美は吹き出した。
「なにそれ!」
肩を震わせて笑う。
「もしかして妬いてるの?」
タケルはむっとする。
「だってさ……」
だが由美は笑いが止まらない。
「やだもう」
「タケルってほんとわかりやすい」
「いや、別に……」
タケルは視線を逸らす。
由美はまだ笑っていた。
その笑い方は、タケルの知っているいつもの由美だった。
その時。
「しまった!ベビーシッターに間違えた時間を伝えた!」
タケルが慌てる。
「えぇ!?」
由美も慌てる。
車内の空気が一気に変わる。
「ごめんごめん!」
タケルが慌てて頭を抱える。
「パーティー終わる方の時間を教えちゃった!」
由美はハンドルを握ったまま呆れた顔をする。
「いつになったら、しっかりしてくれるのよ……」
タケルは返す言葉がなかった。
ただ。
少しだけ。
さっきまで胸に残っていた違和感が、薄れている事に気づいていた。
車は深夜の住宅街へ入っていく。
やがて、タケル達の家が見えてきた。
白い外壁。
大きな窓。
吹き抜けのあるデザイナー住宅。
車を停めると、二人は慌てて玄関へ駆け込んだ。
「ごめんなさい!!」
タケルが頭を下げる。
ベビーシッターは冷たい目で二人を見る。
そして無言でベビーベッドを指差した。
「十分前ネタトコロ」
カタコトの日本語。
「サワガナイ」
「はい……」
タケルは小さくなる。
多めのタクシー代を受け取ったベビーシッターが帰り、玄関のドアが閉まる。
家の中に静けさが戻る。
二人はそっとベビーベッドへ近づいた。
小さな寝息。
柔らかな頬。
小さな手。
春人は静かに眠っていた。
タケルは思わず顔を緩める。
「かわいいなぁ……」
そっと触ろうと手を伸ばす。
「起きるでしょ」
由美が小声で止める。
「いや、ちょっとだけ……」
「ダメ」
タケルは渋々手を引っ込める。
だが。
二人とも笑っていた。
ほんの少し前までの不安も違和感も、今はどこか遠く感じる。
その夜。
二人はキングサイズのベッドの中にいた。
間接照明だけが灯る寝室。
窓の外では、遠くの車の音が微かに聞こえる。
タケルは枕へ寄りかかりながら、スマホでネットニュースを眺めていた。
その時だった。
突然。
由美が、スマホとタケルの顔の間へ割り込むように頭を突っ込んできた。
「ねぇ、タケル?」
目の前に由美の顔。
黒髪が頬へ触れる。
由美はわざとニヤニヤしながらタケルを見ていた。
タケルは平静を装う。
「……なに」
由美は楽しそうに笑う。
「さっきの話、もういいの?」
「さっきの話?」
タケルが聞き返す。
「アキラさんとバルコニーにいた事よ」
タケルは一瞬、言葉を詰まらせた。
「それは……」
由美はその反応を見て、さらに笑う。
まるで面白いおもちゃを見つけた子供みたいに。
そして、そのままタケルへ体重を預ける。
柔らかい髪が首元へ触れる。
由美は耳元で、小悪魔みたいに囁いた。
「タケルったら、ヤキモチ妬いちゃったんだもんね」
「かわいい♡」
「やめろって……」
タケルは恥ずかしくなり、由美を引き剥がそうとする。
だが由美は離れない。
逆に、タケルの頬へ両手を添えた。
そして真っ直ぐ目を見つめる。
「馬鹿ね」
由美が小さく笑う。
「私が愛してるのは、タケルだけよ」
タケルは何も言えなかった。
由美の目は、嘘を言っている時の顔じゃなかった。
タケルはゆっくり目を閉じる。
そして、そのまま由美へ唇を重ねた。
窓の外では、静かな夜が続いていた。




