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友達の山田くんには秘密がある  作者: 片山絢森
おまけ

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42/43

僕のヒーロー(前編)


 約束だよ、と彼は言った。

 ――僕が花を咲かせるから、どうか。

 どうか――……。



    ***



「……あ」


 目を開けると、そこは自分の部屋だった、

 見慣れた部屋の天井を見つめ、二、三度、目を瞬く。


(夢か……)


 ほうっと息を吐くと、胸に灯っていた熱がこぼれた。


(とおる)? 起きたの?」

「あ、うん」


 廊下から聞こえてきた母親の声に、小さく頷く。見えているはずはなかったのに、母親はそう、と柔らかな声で言った。


「朝ご飯できてるから、食べちゃいなさい。学校、行くんでしょう?」


 うん、ともう一度頷き、間宮は布団から起き上がった。

 和室の六畳が自分の部屋だ。いつもは布団で目隠しされている奥に、間宮の世界が詰まっている。ずらりと並んだ本やノートに、親しみを込めた視線を送って布団を詰めた。

 土日は憂鬱になるけれど、平日なら大丈夫だ。階段を降りた先に怪物はいない。


「おはよう、お母さん」

 声をかけると、母親は嬉しそうに振り向いた。


「今日のお魚、とってもおいしく焼けたのよ。食べる?」

「……うん」

「お味噌汁は大根と油揚げ。お新香と、……あと何にしようかしら」


 かいがいしく世話を焼かれると、なんだか気まずい。うまく言えないけれど、たまに叫び出しそうになる。うわああああ! みたいな感じだ。だけどそれを言うわけにもいかず、もぞもぞと身じろいで我慢する。


「ご飯、どれくらい食べる? 多めによそう?」

「じ、自分でやる」


 しゃもじを慌ててひったくり、ぺたぺたと盛りつける、母親は残念そうだったが、許してほしい。それくらいやらなくてはいたたまれない。


(だって)


 間宮は学校に行っているけれど、授業を受けているわけではないのだ。

 毎朝保健室に直行して、そこで自習しているだけ。こんなに世話を焼かれると居心地が悪い。多分、罪悪感のようなものに押しつぶされそうになるのだ。母親のやさしい笑顔の重みに。


(……ごめんなさい)


 もう何度目になるか分からない言葉を、胸の(うち)で呟く。


 期待通りの息子になれなくてごめんなさい、お父さん。

 自慢の子供になれなくてごめんなさい、お母さん。



    ***



 間宮は根暗な生徒である。

 外と中なら中がいいし、大勢とひとりならひとりがいい。狭いなら狭いほど安心するし、明るい場所と暗がりなら暗がりがいい。まるでゴキブリみたいだと言われた事もあるが、さもありなんと思っている。


 桐生は逆に、きらびやかさをまとって生まれてきたような存在だ。

 顔はいいし、頭もよく、性格だってすこぶるいい。非の打ちどころのない人物と言われれば、間宮は真っ先に彼の名前を挙げるだろう。それくらい桐生は完璧だ。


 本来なら関わる事などなかったはずの二人だが、些細な偶然がきっかけで知り合いになった。いや、「なってしまった」だろうか。少なくとも、桐生にとっては。


 入学して早々、なんとなくクラスに馴染めずにいた間宮は、早々に保健室登校になっていた。クラスで間宮を知る人間はほとんどいない。その事がわずかな救いだった。母親は心配したし、厳しい父親には殴られたりもしたけれど、そうすると余計に足がすくんでしまった。


 幸い、学校には理解があり、ちゃんと勉強する事と、決められた量のレポート提出を果たす事で出席と同じ扱いにしてもらった。寂しいと思わなくもなかったが、心の安定が勝った。毎日ひとりで教科書に向かいながら、間宮はぼんやり考えていた。


 ――このまま卒業までここにいるのかなぁ。


 それは気楽だけれど、漠然とした不安もある。


 卒業してもこんなだったら、大学には通えない。大学にも保健室ってあるのだろうか。いや、大学生になったら、同じ制服を着て教室に押し込められる事はなくなる。そうしたら普通に生活できる気もする。けれど、本当にできるかは分からない。


 そもそも、自分は大学生になれるのだろうか。

 いや、大学に行きたいのだろうか?


 堂々巡りの思考はいつも回る事に疲れ果て、すり切れて動きを止めるまで続く。


 桐生に出会ったのはそんな時だった。

 彼の事は知っていた。普通に登校していたわずかな間でも、そのオーラは群を抜いていた。

 きらきらとまぶしくて華やかな人達。その中心で、ひときわ輝きを増す特別な生徒。


 あちこちから囁かれる女子の声で、「桐生」という名前を知った。すごいなぁと思ったが、それだけだった。


 だって彼は人種の違う生き物だ。メダカが深海で生きられないように、間宮も輝く人々の中では生きられない。間宮が生きるのは深海の底だ。泥とヘドロにまみれて過ごす、そんな毎日。


 ――それなのに。


「あれ? ごめん、人がいるとは思わなくて」


 間宮が隠れていた廊下の陰にやってきたのが彼だった。


「い、いや……全然」


 失敗した、と思った。

 いつもは用を足したい時、授業中を選んで外へ行く。登校も下校も時間をずらし、昼は母親の用意してくれた弁当を食べる。だから、間宮が教師以外の人間と出会う事はめったにない。


 だがこの日、なんだか腹の調子が悪くて、保健室を出てしまったのだ。その時点で授業終了の五分前だった。

 無事に用を足したものの、誰かが近くを通る気配がして、間宮は慌てて物陰に逃げ込んだ。


 そこに現れたのが桐生だった。

 驚きに声も出ない間宮を見て、申し訳なさそうに眉を下げる。


「怪しい者じゃないんだけど、驚かせてごめん。びっくりした?」

「い……いや」

「あ、そっか。桐生だよ。よろしく」

 間宮の戸惑いをどう解釈したのか、彼はにこっと笑って自己紹介した。


「……知ってる」

「え、本当に?」


 目を丸くした顔は、近くで見るとさらに整っていた。

 切れ長の目にすっとした鼻、整った唇。その辺のアイドルなんて目じゃないほどの美形ぶりだ。女子がきゃあきゃあ言うのも頷ける。もはや嫉妬する気さえ起こらない。

 けれど、その当人は間宮の予想とははるかに違い、感じよく話しかけてきた。


「名前、聞いてもいいかな?」

「え、……あ」

「よかったらだけど。せっかく知り合ったんだし」


 その声に、ふと心が動いてしまったのはどうしてだろう。


 彼の表情が穏やかで、間宮を蔑む色など微塵もなくて、その声が春風のように柔らかかったからかもしれない。無意識に首を上下させ、間宮は自分の名前を告げていた。


「間宮くんだね。よろしく」

「……うん」


 頷くと、彼はまたにこっと笑った。

 それで終わりかと思ったが、彼はまた間宮の前に現れた。

 その後も、そのまた後も。

 そして――彼は間宮の友達になったのだ。






 あの日の出来事を、間宮は今でも思い出す事がある。


 もしあの日、自分がトイレに行かなかったら。

 桐生がここを通らずに、別の場所を選んでいたら。


 考えても仕方ない。けれど、何かひとつ違っていたら、今の未来は起こらなかったかもしれないのだ。そう思うと、今ここに自分が存在している事さえも何かの理由がある気がする。


「……神様っているのかな」

 ポツリと呟くと、そばにいた桐生が首をかしげた。


「神様がどうかした?」

「い、いや、なんでもない」


 そっかと言いながら、桐生が弁当を食べる。週二回、二人でお昼を食べるのが恒例になった。桐生は人気者なので、毎日誰かしらに誘われるが、この日だけはいつも間宮を優先してくれる。


 どうしてだろう、とぼんやり思う。

 反発する気が起こらないのは、彼の行動に憐れみの感情がないからだ。同情されるようなそぶりが少しでもあれば、間宮は彼を拒絶していた。


 けれど、桐生はそんな様子もなく、ごく自然にそばにいる。

 読んだ本の話をして、授業で笑った話をして、購買のサンドイッチのお薦めはどれかといった話をする。

 それは他愛のない話題であり、さらさらと耳を流れていく。


「そろそろ教室に行ってみない?」とか、「友達紹介しようか?」なんて話は出ない。それが間宮には心地いい。


「……それで、気になる人がいるんだ」

 その日も桐生の話を聞いていると、クラスメイトの話題になった。


「珍しいね。どんな人?」


 桐生は博愛主義だが、突出して誰かに興味を寄せる事はあまりない。その前に相手が群がってくるせいもあるけれど、物事の見方が平温なのだ。これは冷たいという意味じゃなく、温かみのある冷静さという意味だ。

 そんな彼の興味を惹く人物というのは、確かに珍しい事ではあった。


「なんだか不思議な感じがするんだ。気のせいかなぁ」

「好きなの?」


 普通に聞いてみると、桐生は弁当を詰まらせた。ゴホゴホと咳き込んで片手を振る。


「ちがっ……そうじゃなくて」

「ごめん、冗談だったんだけど」


 あまりにも反応がよかったので、間宮はくすっと笑ってしまった。

 彼の口から出てきた「気になる」生徒の存在は、間宮もちょっと興味を持った。ちょっぴりの嫉妬と、それ以上の好奇心だ。


 影が薄くて目立たないのに、なぜか目を惹かれる。

 言葉にすると難しい、不思議な存在。


 入学直後は教室にいる事も気づかなかったと聞かされて、さすがに嘘だろうと思ってしまった。もしそうなら、彼も間宮と同じ側の人間だ。

 桐生くんに気にされていいなと思いつつ、友人のために言葉を紡ぐ。


「気になるなら声かけてみたら? きっと嫌がらないと思うよ」

「そうだなぁ」

「その人と友達になりたいんじゃないかな、桐生くんは」

「……僕が?」


 目を瞬いた後で、「そうかもしれない」と頷く。彼はその突出した容姿や背景から、友達というよりも騒がれるべきアイドルになってしまっているので、純粋な友達は多くない。

 間宮と初めて会った日も、人が来ないところを求めて廊下の陰にやってきたとの事だった。


「いつか、間宮くんに紹介できたらいいな。ほんとに特別な雰囲気なんだ」

「ちょっと、興味はあるかな」


 誰かに会ってみたいと思ったのは初めてだった。






 それから少ししたころ、小さな事件が勃発した。

 いつものように朝起きて下に行くと、父親が席に座っていた。


「起きたのか、亨」

 じろり、と見つめられて身がすくむ。


(なんで……)


 今は会社に行っている時間じゃなかったのか。

 そう思ったのが伝わったのか、「今日は出張だ」と告げられる。


「そんなことより、亨。まだ教室には行けないのか」

「…………」

「一番後ろの席にしてもらえ。そうすれば、授業くらい受けられるだろう。嫌ならその都度教室を出て、トイレにでもこもればいい。何が問題だ。まったく、情けない」


「ちょっと、お父さん」

「お前は黙ってろ」


 母親が口を挟んだが、父親はぴしゃりとはねつけた。

 きっちりとスーツを着たこの父親が、間宮は子供のころから苦手だった。


 男は強いものだと決めつけて、山ほどのノルマを押しつける。その関係で、間宮は武道やらスイミングやらにたくさん通った。それだけでなく、学習塾にも通わされた。

 百点で当たり前、一問でもできないと厳しく問われる。時には拳も飛んできた。次第に間宮は萎縮していき、今までできていた事ができなくなった。


 型は好きだが、人を殴る事は嫌いだ。

 泳ぐのは嫌いでもないが好きでもなく、本やピアノの方が楽しい。武道の先生は厳しかったけれど、奥さんはやさしくて、間宮にピアノを教えてくれた。


 間宮は闘争心を持たない子供だった。

 まったくなくはないけれど、人と争うのは苦手だ。それくらいなら、自分が引いた方がいい。母親も同じ性分だったが、父親には理解できないようだった。事あるごとに戦え、逃げるなと言われ続けているうちに、間宮はすっかり疲れてしまった。


 教室に入れなくなったと知った時、父親はものすごい顔をした。間髪入れずに頬を張られる。母親が身体を張ってかばってくれなかったら、ボコボコに殴られていただろう。ガテン系とは違い、父親はスーツとネクタイのまま間宮を殴る。そして乱れた服装を顔色ひとつ変えずに直すのだ。幼いころからずっとそうだった。


 母親にかばわれる自分が情けなくて、でもあまり殴られなかった事にほっとして、間宮は自分に失望した。なんて情けないんだろうと思った。


 今なら仕方ない事だと分かる。小さいころのトラウマを、そう簡単に克服できるはずがない。間宮にとって、父親は今でも恐ろしい存在なのだ。この家で一番偉くて、怖くて、何があろうと逆らえない。


 明日は教室に行けと言われた時、間宮は「はい」と返事をした。そうする以外の選択肢はなかった。


 翌日、間宮は誰よりも早く学校へ行き、教室に足を踏み入れた。

 久々に入った教室は、うっすら見覚えがあるだけの、なんという事もない空間だった。

 うろ覚えの席を座席表で探し、おそるおそる近づく。机に触れると、どこかなつかしい感じがした。


 椅子に座る事はせず――というかできず、鞄を机に置く。

 息を詰めたまま、間宮は周囲を見回した。


 黒板には昨日の日付が書き込まれ、季節の行事表が貼ってある。提出物の一覧に、各種ポスター。壁の色に床の色、机と椅子のコントラスト。そう言えばこんな色だったか。席から見る景色にも覚えがある。


 このまま誰も来なかったらいいのに。

 そんな事を思いながら、キンと音がしそうな静寂を噛みしめる。


 いつまでもそうしていられそうだったが、遠くで誰かの声がして、ビクッ!! と全身が硬直した。


 それが限界だった。

 鞄をひっつかみ、慌てて教室を飛び出していく。誰にも見つからないようにと願いながら、間宮は保健室に駆け込んだ。ベッド脇のカーテンを閉め、その下にうずくまる。


 父親の命令を果たせた安堵と、そういう意味じゃないんだろうという悲しさがごちゃ混ぜになって、喉の奥が引き()れた。理由の分からない涙がにじみ、じわりと制服に染みていった。




 教室に行きましたと言うと、父親は無言で顎を引いた。

 それで問題は解決したと思ったのだろう。しばらくは平和に時が過ぎた。

 ……間宮が、それ以降も保健室登校をしていると知られるまでは。



    ***



「どういうことだ」

 間宮をにらみつけた父親は、鬼のような顔をしていた。


「嘘じゃないのよ、お父さん。ちゃんと亨は教室に行ったの。本当なのよ」

「お前は黙ってろ。亨、言いなさい。お父さんに嘘をついたのか」

「……そうじゃない」


 間宮は小さく首を振った。


「き……教室には、入ったんだ。言われた通りに、ちゃんと……」

「そういう意味じゃない。私は授業を受けろと言ったんだ。誰もいない教室に入って、それが何になる?」

「それは……」

「そんな卑怯な真似をして、親を騙そうなどとは。このクズめ」


 向けられた舌鋒の鋭さに、間宮は思わず胸を押さえた。言葉のナイフで切り裂かれるようだった。


「そんなこと言わないで。少しずつよ。誰が悪いわけでもないじゃない」

「お前は黙ってろと言ったはずだ」

「いいえ、やめないわ。亨は私の子供でもあるんですもの」


 この子はいい子よ、と母親は言った。


「あなたが思うより、ずっとたくさんいいところがあるわ。やさしい子よ。いい子なの」

「それが何になる。親に金を使わせて、ぬくぬくと甘えているだけの寄生虫だ、こいつは」

「お父さん!」


 母親が声を上げたが、父親はそれを無視して間宮を見た。


「文句があるなら、学校を辞めなさい」

「…………っ」

「教室に行けないなら、金を払い続ける意味もない。学校を辞めて働いて、家を出ていけ。それがお前にはお似合いだ」

「ぼ、ぼくは……」

「それが嫌なら、今日から授業を受けなさい。できるな、亨?」


 それは反論を許さない声だった。

 はい、と答えようとして、返事は喉の奥に貼りついた。


 ――できない。


 それはできない。できない。できない。

 うつむいたまま黙り込んでしまった息子に、父親は「亨」ともう一度言った。不自然なほど静かな声だった。


「……で、でき……」


 ――できま、せん。


 言い終える前に、頬に熱い衝撃が来た。

 殴られたのだと知った時は、母親が間宮に覆いかぶさっていた。


「お父さん! やめて!」

「どけ、この出来損ないが!」

「亨を殴らないで! やめて!」


 自分よりも小柄な母親が、命がけで自分を守っている。くしゃくしゃになった長い髪から、かすかに甘い香りがした。


 お母さん――。


 間宮の目から涙があふれた。覆いかぶさる母親と身を入れ替え、今度は自分が母親を守る。肩にも背中にも衝撃が来たが、そんなものはちっとも構わなかった。


「このっ……生意気な!」


 ドカッと蹴りつけられ、痛みにちかちかと星が散る。倒れ込んだ間宮の横をすり抜け、父親はまっすぐ二階に向かった。瞬間、嫌な予感がした。

 大きな音が立て続けに聞こえた時、予感は確信に変わった。


「お父さん!!」


 自分の部屋に入った間宮は、その惨状に立ちすくんだ。

 そこそこ片づいていた自分の部屋は、足の踏み場もないほど散らかっていた。

 押入れのものはすべて出され、引きずり出された布団の上に、ノートや本が散らばっている。


 ――正確に言えば、ノートや本だったものの残骸が。


「あ、ああっ……」


 それは、間宮にとっての砦だった。


 どんなに嫌な事があっても、部屋に戻れば逃げ場所がある。

 何度も読んだ絵本や小説、大好きな物語を綴ったノート。

 父親に見つかれば捨てられる。だから、こっそりと押し入れの奥に隠していた。


 だけど、父親はとっくに知っていたのだろう。そして見逃すつもりもなかった。


 本は折られ、表紙が破かれて、ノートはズタズタに裂かれていた。

 新しい一冊を手に取り、父親は中央から引き裂いた。


「――――!!」


 間宮は声にならない悲鳴を上げた。


「こんなものがあるからいけないんだ。この軟弱者が」

 やめて、と間宮は駆け寄った。だが腕の一振りで弾き飛ばされる。


「やめて! やめてよ、お父さん!」


 間宮の泣き声をBGMに、父親は新しい本を踏みつけて、次のノートを引き裂いた。使い物にならないくらい、乱暴な手つきで裂いていく。もはや修復が不可能なのは明らかだったが、間宮はその足にしがみついた。


「お願いだから、やめてよ……!!」


 足元にはガラスの小鳥が転がっていた。小学生のころ、母親が買ってくれたのだ。とても気に入っていたけれど、父親が捨てろとしょっちゅう言うので、それも一緒に隠していた。


 小鳥は奇跡的に無傷だったが、それが却って悲しかった。

 間宮の宝物をすべて破壊し尽くすと、父親は乱れたネクタイを直した。


「――会社に行ってくる」


 細切れになったノートの切れ端を踏みつけて、父親は間宮の部屋を出た。後にはへたり込む間宮が残された。


「亨……」

「……ぼくも、学校に行ってくる」


 そんな場合ではなかったが、登校の時間が迫っていた。

 ここで休んでしまったら、何かがぽきりと折れてしまう。それだけはなぜか分かっていた。そうならないために、強く足を踏みしめる。

 母親は声をかけられない様子だった。その手足に傷がない事を確認して、ほっと息を吐く。


「行ってきます、お母さん」

「気をつけて」


 いたわりの混じった声を背に、間宮は鞄をつかんで家を出た。

 空は能天気なほど晴れていて、明るい日差しがまぶしかった。






 当然ではあったけれど、桐生には何があったのか気づかれてしまった。

 間宮の頬は腫れていたし、普段と違う様子だったから、それも仕方ないだろう。本気になって心配してくれる友達の存在はありがたかったが、すべてを吐露する事はできなかった。


(なんか……もういいかも)


 家に戻ると、部屋は綺麗に片付いていた。

 折れた本は修復され、破かれた表紙もテープで留められ、ガラスの小鳥は机のそばにたたずんでいる。ノートだけはどうにもならなかったらしく、丁寧に拾い集められたまま、部屋の隅に積んであった。


 鞄を置き、間宮はしばらく座っていた。

 手の先にノートの残骸がある。何気なくつまみ上げ、指先でなぞる。


 取り返しはつかないけれど、置いていてもどうしようもない。名残惜しげに握り込み、そっと手放す。夕日が差し込んで、部屋はオレンジ色に染まっている。まるで花が咲いたみたいだと思い、間宮はぼんやりと呟いた。


「異世界の扉……」


 その話を教えてくれたのは桐生だった。

 彼も物語が好きなようで、間宮とたくさんの話をした。その中でも特に二人の興味を惹いたのは、学校に伝わる七不思議のひとつだった。


 ――青空に花が咲いた時、異世界に続く扉が開く。


 だけど、間宮は知っていた。

 それにはもうひとつの話があって、そちらは少し違うのだと。


 異世界の殺人鬼の話を聞いたのは偶然だった。

 異世界の扉が開く時、異界から殺人鬼がやってくる。そして、その銃で撃たれると、存在ごと消えてしまう。


 最初に聞いた時は物騒だと思った。それから、さすがに嘘だろうとも思った。

 だけど、どうしても忘れられなかった。


 もしもそんな人がいるなら、目の前に現れてほしかった。

 その銃口を自分に向けて、引き金を引いてほしかった。


 本当は消えてしまいたかった。

 教室に向かう事もできず、さりとて退学する勇気も持てず、うじうじと縮こまっている卑小な自分。

 期待外れになってしまった落ちこぼれ。出来損ないの子供。望まれない存在。


 どうして自分は生きているんだろう。

 どうして普通に暮らしているんだろう?


 お母さんを悲しませて、お父さんを失望させて、それなのに死ぬ事もできずにいる。


 いっその事、生まれなければよかったのかもしれない。

 そうすればがっかりさせずに済んだ。こんな思いを味わわなくても済んだのに。


(もしも)


 本当に異世界の殺人鬼がいるのなら、ぼくの存在を消してください。

 誰も傷つけず、誰からも傷つけられないように、最初からいなかった事にしてください。


(そうすれば)


 こんな風に傷つく事もなかった。

 誰かを失望させる事もなかった。


 みっともなくて情けない、泣きそうな自分。

 誰の記憶に残る事もなく、ちっぽけなまま消えていく。

 だからあの時言ったのだ。



 ――いっそのこと、違う世界に行きたいなぁ。



 ここではないどこかへ行って、二度と帰らなくて済むように。



 ――空に花を咲かせて、異世界の扉を開けたいなぁ。



 異世界から殺人鬼を呼び出して、存在ごと消し去ってしまえるように。



 どちらでも構わなかった。ただこの世界にはいたくなかった。

 この世界から間宮の存在が消えて、みんなが忘れてしまうなら、どちらでもよかったのだ。


 ――それなのに。


(桐生くん……)



 ――僕が花を咲かせるよ。



 だからどうかあきらめないでと。

 やさしく笑って、彼は間宮に言ったのだ。


 それを聞いた時、間宮は反射的に否定した。


 無理だと思った。

 できないと思った。


 どうせ間宮の気を変えさせるための出まかせで、その場限りの慰めなのだと。

 けれど、桐生はそうじゃなかった。

 それが分かったのは、もう少しだけ先の話だ。


 初めてその音を聞いた時、何が起こったのか分からなかった。


 次いで、心の底から震えたのだ。


 ――花火。


 青空に咲いた花は、どんな色をしていたのだろう。


(桐生くん)


 ぼくの友達。ぼくのヒーロー。

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