死神の課外授業
「宮園さん」
メガネの奥の陰湿な目が、みどりにひたりと向けられる。
蛇に睨まれたカエルのごとく、みどりはそろりとうつむいた。
「君が忘れ物をするのは何度目かな」
「……すみません」
「教科書と、辞書。それからノート。あとは鉛筆と消しゴムに、ついでに言えば赤ペンも」
それはもう授業に必要なほぼ一式である。
「宿題も、ついさっき慌ててやったね? いくらなんでも読めません」
あの字は、さすがに。
言外に告げられたセリフに、うぐぅっと喉の奥が鳴る。
言葉つきは丁寧なのに、言い方がいちいちイヤミっぽい。英文読解の古賀教師は、みどりを完全に目の敵にしている。よれよれのニットにダサいメガネ、通称コガセンと呼ばれる彼が、みどりは心から苦手だった。
死神みたいに不健康そうな外見のまま、彼はみどりを見下ろした。
「いくらなんでも、見逃すには多すぎます。放課後、英語準備室に来るように」
「えー……」
「なんですか、宮園さん?」
「……なんでもないです」
ただの高校生であるみどりが、死神に敵うはずはなかった。
「あんたが悪い。さっさと行きな」
親友の奏ちゃんは、そう言って冷たくみどりを見捨てた。
奏ちゃんは最近コガセンの手伝いをしているようで、しょっちゅう英語準備室に出入りしている。親友の方が大事じゃないの? と思ったけれど、彼女もみどりの授業態度には思うところがあるらしい。
たまには絞られてくればと言われ、とぼとぼと英語準備室に向かった。
中では古賀教師が待っていて、「いらっしゃい」と陰気に(主観だ)言われた。全然いらっしゃりたくなかったけれど、仕方ない。せめてもの抵抗に、ふくれっ面で頷く。
与えられた役割は、次の授業で使う英語教材の仕分けだった。
「こんなに読むんですか?」
みどりは英語が大の苦手だ。思わず口に出すと、当たり前のように頷かれる。
「使える構文が多く入ってるからね。一通りの流れで覚えると、記憶に定着していいんだよ」
コガセンは自分の仕事を始めている。みどりの事など忘れたみたいだ。
英語準備室で二人きりという状況は、場合によっては誤解を生むが、扉は細く開いている。彼は見かけによらず紳士だ。
うえーめんどくさい、と思いながら、みどりは言われるまま資料を分けた。
書かれているのは英語だが、付箋がついているので簡単だ。単語を読むわけでもなく、もちろん意味など理解せずに、色だけでぽいぽいと仕分けていく。そんな様子を見ていたコガセンが、なぜかひっそりとため息をついた。
「……うんまあ、西本さんと同じようにとは思わなかったよ……」
「はい? 何がですか?」
「君の友達は、とても責任感のある勤勉な人だということだよ」
よく分からなかったが、「そうなんですか」と返しておく。意味は分からないものの、奏ちゃんは親友なので、彼女が褒められるととても嬉しい。
奏ちゃんもこういう手伝いをしてるのかなと思ったけれど、わざわざ聞く気にはなれなかった。
そのまま、作業する音だけがしばらく続く。
「宮園さんは、英語が嫌いなのかな」
ふとコガセンが口を開いた。
「え、いや、あの」
「いつもものすごく汚い字で宿題をやってくるし、正解率もひどいものだし、何より授業に対する情熱がない。僕の授業は退屈かな。そのせいで君はつまらない?」
いえ、とみどりは口ごもった。
コガセンの授業が好きじゃないのは当たっている。というか、英語全般が好きじゃない。みどりは英語が苦手だし、コガセン自体も苦手だし、何よりも、彼の授業は気が抜けない。思いもしないところで指名されるし、宿題はばんばん出してくるし、ぼーっとしていると当てられる。みどりは彼の標的のひとりだ。
でもそれをこの状況で言えるほど、みどりは豪胆な人間じゃない。
目を泳がせていると、「まあいいや」と彼は目をそらした。
「僕の授業は面白みがないからね。これでも、興味を持ってもらえるようにと努力はしているつもりなんだけど」
「あれで?」
教師にタメ口を利いてしまい、はっとして口をつぐむ。
だが彼は気にする事なく、「あれで」と真顔で頷いた。特に気に障ってはいないらしい。その事にほっと胸をなで下ろす。
「僕にとって、英語は遊び場のようなものなんだ。知らない表現を見つけるたびに、よしやった! と思ってしまう。言葉の背景を知った時も同じだ。洒落た言い回しなんかを覚えた日には、絶対に友人に使うね。賭けてもいい。作者にしか気づかない遊びなんかを見つけたらもう嬉しくて、嬉しくて……ふふふ」
メガネの奥の目がギラリと光る。やばい、この人もオタクだった。
「そんな僕からすると、英語に興味のない人間の気持ちが分からない。考えてみたことはないかい? 君の目の前に今、一冊の本がある。そこには横文字の文章が書かれていて、内容は分からないが、とても面白そうだ。傍らには辞書もある。さあ、そうしたら?」
「――……英語得意な人に和訳してもらって、口頭で聞きます」
「……!!」
彼はとてもショックを受けたような顔をした。
「自分で読まないの?」
「いやだから、あたし英語苦手なんですってば」
先生知ってるでしょ、と言うと、彼は少し気まずそうな顔をした。みどりの成績を思い出したらしい。
「た……例えが悪かったかな。それなら――そうだ、絶対に三キロ痩せられるダイエット方法が書いてある本! 肌も髪も損なわず、むしろツヤツヤに保ちながら、間違いなく痩せられる。そんな本の内容が英語で書いてあったら?」
割といいところついてくるなコイツと思ったが、やはりみどりはにべもなく言った。
「だから人に聞きますってば。大体ね? なんで翻訳本があると思ってんですか。英語苦手な人のためでしょ」
「それは違うよ、宮園さん」
彼は真面目な顔でみどりを見た。メガネの奥の澄んだ瞳に、少々どきっとする。
「それはね――英語を好きになってもらうためだよ」
「は……?」
「翻訳は扉だ。その先の世界へ行こうと、いつでも君を誘ってる。そのためのパスポートみたいなものなんだよ」
いきなり何を言い出すんだこの人、と思ったが、堂々とした口調に圧されてみどりは黙った。
「だからね、そのパスポートを捨ててしまうのはもったいない。望めば多くの人に発行されるものなのに。学校に通えて、英語の授業を受けられる人には特に、資格取得のパッケージツアーみたいなものなのに」
「えっ何パッケージツアーって……旅行? なんで?」
「学校に行かなくたって、その気になれば触れられる。言語も文字も、信じられないくらいたくさんの人に等しく与えられた権利なのに」
彼の目は真剣だった。目を瞬いたみどりは思わず言った。
「権利?」
むしろ義務だろうと思ったのが伝わったのか、彼は「そうだよ、権利」と繰り返した。
「君がいつかどこかで知らない国の人と出会った時、母国語だけじゃなく、英語を知っていれば、意思が通じる可能性が高くなる。本や標識でも同じだ。何気なく見た文字に意味があること。知らなくても過ごせるけど、知っていれば意味を持つ。世界が色づいてくるんだよ」
「…………」
「だからね、僕はその手伝いがしたいんだ」
彼のまなざしは深く透き通っていた。
英語を好きになって、その先の世界に踏み出してほしい。
役に立つかもしれないし、立たないかもしれない。それは誰にも分からない。
けれど、その知識は財産だ。いつか何かの折に必要になった時、きっと自分を助けてくれる。
だから。
「君にも好きになってもらえたら嬉しいな」
コガセンは柔らかく笑っていた。
いつもの陰気な雰囲気が薄れ、年相応の男性の顔だ。不覚にもどきっとしてしまい、慌ててみどりはうつむいた。
「……あたし、英語苦手だし」
「苦手でもいいよ。嫌いじゃなければ」
「好きじゃないし」
「英語は君を嫌いじゃないよ。断言してもいい」
「えーなにそれ……」
「言葉は人を嫌わない。君が英語を口にしたら、英語は君を好きになる。言語ってそういうものなんだよ」
まったく意味が分からなかったが、みどりはしぶしぶ頷いた。
「……とりあえず、宿題は、やります」
「それは当然だね。次にあの文字だったら差し戻します」
「えー!?」
「当たり前だろう。いくらなんでも読めません。やればいいってものじゃないよ」
鬼、と内心で毒づきながら、先ほどよりもコガセンに対する苦手意識が薄れているのを感じる。
見るだけで顔をしかめるくらい苦手だけれど、英語はみどりを嫌っていない。
それは、なんとなく悪い気分ではなかった。
――いつかどこかで、かぁ。
そんな日が来るとは思えなかったが、何気なく手元を見る。
プリントされた紙に、みどりでも分かる英単語が書かれていた。
――HAPPY.
幸せとか、嬉しいとか、もはや日本語並みの英語だ。
知らなかったらこれを見ても、何も思いはしないだろう。
でもみどりはこれの意味を知っているから、なんとなく嬉しい気持ちになる。
――あ、もしかしてそういう意味だった?
ふと何かがひらめいた感じがする。
知らないよりも知っている方が、世界が広がる。
いつかどこかで出会った誰かと、ほんの少し心が通じるための手段。
他の言語でもいいけれど、英語は圧倒的なシェアを誇る。使えるに越した事はない。
英語はやっぱり好きじゃない。
見ているだけで眠くなるし、聞いていると頭痛がするし、書けと言われても分からない。
だけど。
「……次の授業は、最後まで起きてるように……します」
目標としては下過ぎたが、彼は目を丸くした。
それから、仕方ないなぁと言うように笑った。
「期待してます、宮園さん」
その約束が守れるかどうかは――もう少しだけ、先のお話。
了
お読みいただきありがとうございます。その後宮園さんの英語の成績はちょっぴり上がり、西本さんが驚きます。でも、うっかりな忘れ物は継続中。




