エピローグの裏側で(前編)
本編エピローグあたりのお話です。
(うまくごまかせたかな)
ひとりになって、桐生は廊下を歩いていた。
まだ体の奥が熱い。信じられない光景を見て、胸がどきどきと高鳴っている。
空に浮かぶ奇跡の花は、今までに見たどんな景色よりも美しかった。
慣れた足取りで保健室へ行き、コン、ココン、とノックする。
しばらく置いて、そっと扉が開く音がした。
「来たよ、間宮くん」
「……桐生くん」
中から出てきたのは、前髪で顔を隠した男子生徒だった。
「見た、あれ?」
「……うん、まあ」
彼はぼそぼそと返事する。耳を澄まさなければ聞こえないほど小さな声だ。だが桐生は慣れているので、特に気にせず言葉を継ぐ。
「異世界の扉は本当にあったんだ。作り話なんかじゃなかったよ、間宮くん」
「……うん……」
「もしかして、ちゃんと見えなかった? 僕のところからははっきり見えたんだけど」
心配そうな桐生に、間宮と呼ばれた彼は息を呑む。しばらく視線をうろうろさせた後、彼は観念したように目を閉じた。
「……見えたよ」
吐息のような声だった。
「よかった。じゃあ賭けは僕の勝ちだね」
「うん、まあ……」
「本当によかった。不思議な世界はあったんだ」
桐生は無邪気な顔で笑う。それを見た彼は唇を噛み、ぐっと喉を詰まらせた。
「……なんで?」
その声は少しだけ震えていた。
「なんで、そこまでしてくれるの?」
「なんでって、だって」
桐生が不思議そうな顔になる。
「当たり前だろう。友達なんだから」
「…………っ」
唇を噛みしめて、彼は視線をうつむけた。
何か言いかけて口を閉じ、また言いかけて口を閉ざす。震える唇は、何の言葉も生み出さない。けれど桐生は何も言わず、黙ってそれを見つめていた。
途方もなく長い時間が経った後、ようやく彼は顔を上げた。
「……見たよ」
今度の返事は、噛みしめるようなものだった。
「見たよ、ちゃんと」
「すごかったよね」
「うん」
「はっきり見えたよね?」
「うん……」
「ああもうすごいなあ、夢みたいだ!」
桐生の目がきらきらと輝く。まるで憧れのスーパースターに出会った子供のようだ。興奮で頬を赤くしながら、ほうっと小さなため息をつく。その顔のまま、彼は間宮に笑いかけた。
「間宮くんのおかげだよ。ありがとう」
「え、いや、なんでぼく?」
「だって間宮くんがいなかったら、あんな約束はしなかった。だから、これは間宮くんのおかげだ。本当にありがとう」
「えぇぇ……」
間宮は困惑した顔をしている。だが、桐生は本気でそう思っていた。
(だって)
桐生が花火を上げるきっかけをくれたのは、間違いなく目の前にいる彼だったから。
***
先ほど三崎くんに語った話に嘘はない。
桐生は不思議な事が好きだったし、異世界の扉に憧れていた。
そんな扉があるなら見てみたかったし、できるならそれを開けたかった。不可能かもしれないが、試してみたい。その気持ちに嘘はなかった。
――ただし、ひとつだけ。
彼に語っていない事があったのだ。
そしてそれは桐生にとって、もうひとつの「扉を開ける理由」だった。
桐生が間宮に出会ったのは、ほんの些細な偶然だった。
保健室登校をしていた間宮は、桐生と同じ学年の生徒だった。生徒名簿でうっすら名前を見た記憶はあるが、顔は知らない。それくらいの関わりだった。
そんな彼となぜ出会ってしまったのかといえば――まあ、トイレが原因だった。
平たく言えば、腹具合の悪かった間宮が休み時間にトイレを使用してしまい、ちょうどやってきた桐生と出くわしたのだ。彼はお化けにでも会ったような顔をしていた。
普通ならそれで終わりだったが、桐生と間宮は、なんというか妙に「馬が合った」のだ。桐生よりはるかに読書家である彼は、様々な書籍に詳しかった。特に物語方面の知識量が半端ではなく、桐生はすっかり心を射抜かれてしまった。
桐生の父親は厳しくて、息子が物語を読む事にいい顔をしなかった。読書に使う金は多めに渡してもらっていたけれど、その中で必ず一冊、実用的な本を選ぶ事を義務付けられていた。ちゃんと読んだかチェックもするため、桐生は嫌々ながらそれに従った。
実用的といっても、数学や医学系なら文句も言われないが、星や植物の本だと渋い顔をされる。必然的に、本棚には二種類の本が並んだ。すなわち、好きなジャンルと、そうでもないジャンルだ。
桐生は物語が好きだった。
推理小説もSFも好きだが、一番好きなのはファンタジーだった。特に、設定がよく練られた架空の世界が好みで、いつも心を躍らせていた。
間宮はそんな話を思う存分できる、ほとんど初めての存在だった。
彼の家も父親が厳しく、保健室登校を知った時には殴られたという。桐生の父親も厳しいが、手は上げない。無意識に、眉をひそめたのが見えたのだろう。間宮は困った顔で笑った。
「大丈夫だよ。慣れてるから」
そういうのは慣れるものではない。けれど、桐生は何も言わなかった。
それからも二人は会話を交わし、一緒に過ごす時間が増えた。
間宮の頼みにより、彼の存在は秘密にされた。桐生もそれに不満はなかった。
秘密の友達という響きは特別で、なんだかくすぐったい気さえした。
間宮と物語の話をして、クラスの友人の話をして、勉強で分からないところを教えたりする。間宮も楽しそうにしていたし、桐生だって楽しかった。教師も諸手を挙げて歓迎してくれたが、そちらの方はおまけだった。
間宮といる時間は、桐生にとって、この上なく幸せなひと時だったのだ。
――それが崩れたのは突然だった。
その日、間宮は頬を腫らして現れた。
聞けば、今でも保健室登校を続けている事に激怒した父親が、間宮を殴りつけたのだという。このまま教室に行けないなら学校を辞めて働け、家を出て行けと言われ、逃げるように家を出たそうだ。
教師は力になってくれると言っていたし、母親も彼の味方らしい。けれど、専業主婦である間宮の母親には自由になる金が少ない。加えて保護者がどうしてもと願えば、強引に退学になる可能性もある。
しかるべき場所に訴えれば、どうにかなる案件かもしれない。けれど、間宮はそれを嫌がった。そんな事をするなら学校を辞めると言った。
教室にさえ入れないのに、アルバイトができるはずもない。授業料が払えなければ、学校を辞めるしかない。どちらにしても、選択肢が多いはずはなかった。
――ぼくが悪いんだ。うまく学校に馴染めないから……みんなと同じようにできないから。
間宮は別に、誰かにいじめられたわけではない。
嫌な事をされたわけでも、トラブルがあったわけでもない。
それでもどうしても、教室に入れなかった。あの空間にいる事ができなかったのだ。
そんな告白を、桐生はただ聞いていた。
――いっそのこと、違う世界に行きたいなぁ。
そんな折、ふと間宮が口にした。
――空に花を咲かせて、異世界の扉を開けたいなぁ。
その話は知っていた。この学校に伝わる七不思議だ。
青空に花が咲いた時、異世界に続く扉が開く。
子供じみた内容だし、見た人は誰もいない。もう十年以上前から伝わっている話らしい。本当にくぐった人がいるとかいないとか、その辺りも曖昧だ。見た人がいないのに、どうしてくぐった人がいるのか。その辺りの矛盾を考えてしまうのはいけない癖だ。父親の教えの弊害かもしれない。
もちろん、作り話に決まっている。
それは分かっていたけれど、口が勝手に動いていた。
――じゃあ、試そうか。
どうしてそんな事を言ってしまったのか。
案の定、間宮は目を丸くしていた。
それからぎゅっと眉を寄せ、無理だよ、と吐き捨てるように言った。
――そんなの本当にあるはずない。無理に決まってるよ、馬鹿らしい。
――そんなことない。やってみなくちゃ分からないよ。
――どうやってやるのさ? 方法も分からないくせに。
――分かるよ。
桐生はいっそ胸を張った。自信なんてかけらもなかったけれど、ここで引き下がったら一生後悔すると思った。
――空に花を咲かせればいいんだろう。だったら……花火を上げるよ。
――は?
――真っ昼間の学校で、花火を打ち上げる。それでどうなるか試してみよう。
間宮は唖然とした顔をしていた。ぽかんと、口を大きく開けている。
そんな表情を見るのは初めてで、思わず笑いが込み上げてきた。
――約束だよ。僕が花を咲かせるから、どうかあきらめないで。
賭けをしよう、と桐生は言った。
――僕は異世界の扉がある方に賭ける。それを確かめるために、空に花を咲かせるよ。
――桐生くん……?
――だから、もしも成功したら。
その先の言葉を、間宮は唇を噛みしめたまま聞いていた。
そして桐生は賭けに勝った。
つい先ほど、青空に花が咲き誇り、異世界の扉が開いたのだ。




