スカーレットの憂鬱-8
みどりとぎくしゃくするようになって、数日が過ぎた。
みどりは桐生くんに相談しているようだけれど、奏にそんな相手はいない。必然的に、ちらちらと桐生くんを見てしまう。
彼はいつも通り、穏やかな表情を浮かべていた。本当に人間ができている。
「おい山田、こっち向け!」
「もうやめろってば峯田……」
「ていうかなんで山田のいる場所が分かるんだよお前……」
教室の後ろでは、いつも通りうるさい声が響いている。最初は先生に言った方がいいんじゃないかと思ったが、それほど深刻でもないようなのでやめた。ていうかあの人、ホントになんなの。
そんな事を思う奏の横で、みどりがパスケースを落とした。
――あ。
うっかり拾いそうになり、慌てて我慢する。同じ事をしてひどい目に遭ったのはつい最近の出来事だ。
教室ならば、誰かに盗まれる心配はない。
このクラスの人は――ごく一部を除いて――みんないい人だから、誰かが拾ってくれるだろう。
そう思い、席を立つ。次は移動教室だ。
みどりは奏の方を気にしていたが、あえて目を向けずに教室を出た。
***
授業を終え、教室まで戻る途中、奏はふと気がついた。
階段のそばにみどりが立っている。
このままだと、すれ違ってしまう事になる。別にケンカしたわけではないけれど、今は顔を合わせたくない。
くるりと背を向けて、奏は別の道を歩き始めた。
ずいぶん遠回りになってしまうが、仕方ない。みどりがどんな顔をしているかは見なかった。
――嫌な性格だなぁ、あたしって。
そういう意味では、悪役の素質があったのだろうか。
でも、今はまだ話したくない。
回り道をして帰る途中、「西本さん」と呼び止められた。
「……古賀先生」
立っていたのは古賀教師だった。今日もいつもと同じように、よれよれのニットを身につけている。
彼は猫背気味の体を心持ち伸ばし、「この間はありがとう」と口にした。
「分類が完璧で助かったよ。マーカー引き間違えたところまでチェックしてあって……よく分かったね?」
「色分けしてあるって言ったから……。そうじゃないかなって思っただけです」
二、三、分類違いじゃないかと思われるものが交じっていたので、それを除けておいただけだ。丁寧な説明書きがあったので分かっただけで、奏が優れているからじゃない。
だが、彼は感心したように首を振った。
「ちゃんと読まないと分からないよ。西本さんの仕事は丁寧だね。責任感もある」
「そういうわけじゃ……」
「君のノートはいつもきちんとしている。たまに走り書きの時もあるけど、要点はしっかり押さえてある。宿題もだ。君が忘れたことは一度もない。それって、割とすごいことなんだよ」
「すごい……ですか?」
そんなのは当たり前の事だろう。宿題をやるのは当然だし、ノートを取るのは生徒の義務だ。義務という言葉が大げさなら、仕事と言ってもいいけれど。
そう言うと、彼は笑って「いいや」と言った。
「それができる人ばっかりなら、教師は苦労しないと思うよ」
「そうですかね……」
「君はね、西本さん。尊ぶべき生徒だと思う」
「は……」
「次の授業まで、もう少しあるね。よかったらちょっと来てくれないかな」
誘われて、奏は無意識に時計を見た。この後中休みが入るので、確かに少し時間はある。どうかな、と聞かれ、おそるおそる頷いた。
二度目に入った英語準備室は、この間と同じように散らかっていた。
「掃除しないんですか?」
「安藤先生と同じこと言わないでくれよ。片づけは苦手なんだ」
頭をかきながら、古賀教師がごそごそと移動する。これじゃ彼女は大変だろう。例えば奏がそうなったら――と思った時、彼の左手の薬指に光るものに気がついた。
――なんだ。
やっぱり奏はヒロインになれない。
がっかりするほどの余韻もなく、作業している姿を見守る。
彼はやはりごそごそして、何かを探しているようだ。書類の下に敷かれていた鞄の中から何かを引っ張り出すと、「はい」と奏に差し出した。
「……これは?」
「僕が大好きな小説の原書。この間のお礼にと思って」
「い……いいですよ。どうせみどりの代わりだったし、それに」
――八つ当たりまでしちゃったし。
言葉の最後は呑み込んだまま、いらないと固辞する。だが、彼は首を振った。
「すごく助かったから、気にしないで。それに、これは君に読んでもらいたいんだ」
「……なんであたしに?」
「西本さん、英語が好きだろう。それに、翻訳のセンスもある。君が提出する宿題の訳文が、僕は一番好きなんだ」
「―――――」
「桐生くんもいい文章を書くけど、君のはなんて言うか、言葉選びが面白くて、秀逸だ。君の宿題を読むの、いつも楽しみにしているんだよ」
言いながらぱらぱらと本をめくり、楽しげに笑う。
「この本、日本語訳が出てるんだけど、君ならどう訳すのかなって思ったんだ。下心ありで悪いけど、よかったら受け取って。きっと勉強にも役立つと思う」
ふたたび差し出された本を、奏はそろそろと受け取った。表紙はくたびれているけれど、中はちゃんとしている。タイトルは奏でも読めるものだった。
――SCARLET.
「スカーレット……」
「日本じゃ有名じゃないけど、いい話だよ。スカーレットっていう女の子が主人公なんだ。美人じゃないけど魅力的で、愛されるキャラクターだよ」
奏は無意識に本の表紙をなでた。そこには赤毛の少女が描かれている。絶世の美少女ではなく、ごく素朴な、温かみのある顔立ちだ。
本当にもらっていいのだろうかと思っていると、「この間はごめん」と、頭を下げられた。
「やっぱり罰でもなく手伝ってもらうのは悪かったと思ってる。本当にごめん、西本さん」
「え……いや、あたしが手伝うって言ったんだし、別にいいです」
「それで怒ってたんじゃないの?」
「あたし、怒ってません」
本当はものすごく怒っていたが、そもそも古賀教師に向けるものでもない。要は心の問題だ。
奏が否定すると、彼はものすごくほっとした顔をして、「良かった…」と呟いた。
「もしかしてこれ、ワイロですか?」
「人聞きの悪いこと言わないでくれよ。真面目な生徒にご褒美があったっていいだろう」
「でもあたし、目立つわけでもないのに」
「それが何?」
彼は本当に不思議そうな顔をした。
「教師にとって、目立つ目立たないはどうでもいい。真面目に学校生活を過ごして、問題も起こさず、無事に卒業していく普通の生徒。そっちの方が大事だよ」
「だけど、記憶に残らないじゃないですか」
何年経っても思い出すのは、みどりのような生徒だろう。引っかかるところが多い分、思い出してももらえる。物語のヒロインのように華やかな人々。
だが、彼は不思議そうな顔のまま、「そうかな」と首をかしげた。
「確かに彼らは印象が強いけど……僕が思い出すのは、西本さんみたいな生徒たちだ。真面目で、頑張り屋で、どちらかと言えば目立たない。ただ静かにそこにいて、淡々と学校生活を過ごし、それゆえに人の印象に残らない。だけどね、西本さん」
そこで彼は奏の顔を見た。
「だからこそ、君たちは尊くて愛おしい。僕はそう思ってる」
「先生……」
「君は、学生だったころの僕によく似ているよ」
古賀教師はそう言うと、照れくさそうに微笑んだ。
奏はしばらく黙っていた。
胸に渦巻いている感情を、うまく言葉に乗せられない。結局、出てきたのは「…ありがとうございます」という、平凡な言葉だけだった。
「よかったら、また分類を手伝ってください。西本さんがよければ、いつでも大歓迎です」
「やっぱりこれ、ワイロじゃないですか?」
「失敬な。報酬の前渡しと言ってほしい」
どっちも同じじゃないかと思ったが、奏は思わず笑ってしまった。
「考えておきます。――それじゃ」
英語準備室を出ると、時間はそれほど経っていなかった。それなのに、ものすごく長居をした気がする。妙に気持ちがスッキリしていて、清々しいような気分だった。そういえば、どこかで花火が鳴った気がする。あれは何の音だろう。
教室に戻ると、何やら騒ぎが起きていた。
その中心にはみどりがいて、いつものうるさい男子――顔だけは無駄にいい峯田くんが、いつもと同じように吠えていた。
「い、いや、違う! ただ俺は山田が犯人だって言って、いや知って……!」
彼の言葉を聞き流し、奏はみどりの顔を見た。
みどりははらはらした顔をしていたが、騒ぎが一段落すると、ほっとしたように息を吐く。そして奏と目が合った。
「…………」
みどりはへらっと笑顔になった。
その顔はちょっと泣きそうで、力の抜けたような笑みだった。




