スカーレットの憂鬱-5
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コンコン、コン。
ノックをすると、「どうぞ」という返事があった。
「失礼します」
放課後の英語準備室。そして、古賀教師の個室でもある。顔を出した奏に、彼はメガネの奥の目を瞬いた。
「西本さん? 何か質問かな」
「あ、いえ、そうじゃなくて。あたし、あの、みどりの代わりで」
「宮園さんの?」
ぱちり、ともう一度瞬きする。そんな顔をすると、少しだけ子供っぽい。
「……宮園さんのはペナルティのつもりだったんだけど、伝わってなかったかな」
「そうじゃなくて、みどりはあの、用事があって、おばあちゃんのお見舞いを忘れていて、それで」
「ああ、そうか」
なら悪い事言っちゃったな、と頭をかく。よれよれのグレーのニットから見える手首が骨ばっていて、どきんと胸が高鳴った。
「教えに来てくれてありがとう。それじゃあ、また明日ね」
「え、あの、あたし、手伝います」
そう言うと、古賀教師は苦笑した。
「あれはペナルティだから。西本さんはしなくていいよ」
「でも、あたし、代わりにやるって約束しちゃったし」
動かない奏を見て、彼は困った顔になった。どうしようかというように首をかしげ、うーんと迷った顔になり、しばらく考え込んだ後、彼は遠慮がちに頷いた。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな。ありがとう、西本さん」
「……はい!」
奏は目を輝かせて頷いた。
それじゃあと促され、準備室に足を踏み入れる。通りがかった事は何度もあるが、中に入るのは初めてだ。秘密基地めいた感覚に、なんだかどきどきしてしまう。
「埃っぽくて悪いね。散らかってるだろう?」
「いえ、まあ……はい」
「どうも片づけるのは苦手で。安藤先生にはよく怒られてるよ」
安藤先生はベテランの英語教師だ。いつもきっちりと髪を結い、小ぶりなイヤリングをつけている。年齢は四十代半ばほどだろうか。同じ立場とは言え、若い古賀教師が敵わないのも無理はない。
「いやまったく本当に……在学中から怖かったもんな、あの先生」
「古賀先生もこの学校出身だったんですか?」
目を丸くすると、彼は当然の顔で頷いた。
「そうだよ。安藤先生はその時の担任だった」
「知らなかった……」
制服を着ていた古賀教師を想像してみる。
今より少し若くて、疲れていない十代の顔。メガネはかけていたのだろうか。シャツの上からよれよれのニットを着た、制服姿の古賀教師。いや、古賀生徒?
(……可愛いかも……)
そんな事を思っていると、「西本さん?」と名前を呼ばれた。
「それじゃ、プリントの分類をお願いします。割と量があるから、ゆっくりでいいよ」
「はい」
「マーカー別に色分けしてあるから、色ごとにまとめてくれるかな。二色以上あるのはひとまとめにしてこっちへ。分からないことがあったら聞いてください」
そう言うと、彼は机に向き直った。何やら仕事を始めている。
教師の仕事は、時給に換算すると驚くほど安いのだと聞いた事がある。おまけに残業や休日出勤、反抗的な生徒の相手と、どう考えても割に合わない。最低賃金を絶対割っていると思う。
彼は、どうして教師という職業を選んだのだろう。
「西本さん?」
「あ」
ぼんやりと見ていたせいか、ふたたび名前を呼ばれてしまった。
それをごまかすように、「これ、何の資料なんですか?」と聞いてみる。彼は不審に思った様子もなく、「使えそうな構文の例文だよ」と答えてくれた。
「発音もそうだけど、とにかく量に触れることが一番だから。流し読みでもいいから、目を通してもらえればと思って」
プリントアウトされているのは、本や新聞の一節だった。必要と思われる箇所にマーカー線が引かれていて、走り書きで解説が添えられている。生徒に出す時には、きちんと清書するのだろう。彼のプリントは勉強になると、担当外の生徒までもらいに来ている。
すごいな、と思う。
いつも当たり前のように受け取っていたけれど、こんなに準備していたのか。これからはもう少し気合いを入れて読もうと思った。
「西本さんは、英語が得意だよね」
「え」
「宿題もきちんとやってくれるし。助かるよ」
「いえ――そんな」
照れたようにうつむきながら、奏の心は弾んだ。
ほら、やっぱり真面目にやっている人間は報われるのだ。
みどりみたいに、しょっちゅう宿題もノートも忘れて、やっつけ仕事の子なんかよりもずっと。ちゃんとやっていればこうやって、誰かがきちんと見てくれる。先生がこうして認めてくれたように。
やっぱり自分は間違っていなかった。
堅実に生きていれば、正当に評価されるのだ。
そう、きっと、あの子よりも――。
「宮園さんも、西本さんみたいに熱心だといいんだけどなぁ」
「……え」
一瞬、反応が遅れた。
「西本さん、宮園さんと仲が良かったよね? どうしたら彼女が英語を好きになってくれるか、一緒に考えてもらえないかな」
「え……と、その」
「毎日どうしようかと考えてて、頭が痛いよ。僕の授業、そんなにつまらないのかな。宿題もいつも殴り書きだしなぁ」
西本さんは見てるよね、と苦笑される。ぎくしゃくと頷いたが、奏の頭は真っ白だった。
愚痴っぽく言いながらも、古賀教師の目はやさしい。出来の悪い子供を見守る年長者の目だ。手のかかる子ほど可愛い、という使い古された表現が頭をよぎる。そう、みどりは手がかかる。厄介で面倒な――だからこそ、人の記憶に残る子だ。
「もっと雑談した方がいいのかな。それとも例文を多くする? 宿題は……これ以上減らせないし。どうしたもんかなぁ」
「……クイズでも出したらどうですか? それか、推理物とか」
「クイズか。それも悪くないね」
でも英語のクイズって難易度高いかもしれないな、と苦笑する。西本さんならできるかもしれないけれどと言い添えて。
「推理物はいいかもしれないな。今の子って、相変わらずミステリーとかサスペンス好きなのかな?」
「さあ、よく知らないです」
「宮園さんだけじゃなくて、みんなが興味を持ってくれるといいな。まあもっとも、目下の課題は宮園さんなんだけど」
「…………」
「悪い子じゃないんだよね。いっそ峯田くんくらい突き抜けてるといいのかもしれないけど、それもちょっと問題だしなぁ」
あれこれ考える古賀教師は、とても楽しそうだ。みどりのために何ができるか、どうすれば彼女の興味が惹けるか、試行錯誤を重ねている。きっと今までもこうやって、ひとりで考えていたのだろう。
(……先生も)
先生まで――そうなの?
「その点、西本さんは安心だよね。見ていなくても心配ない」
優等生だ、と軽く微笑む。
褒められているはずなのに、ちっとも嬉しくなかった。むしろ、見捨てられたような気持ちになった。
「西本さんはしっかりしてるし、頼りになるよ。おかげで宮園さんの宿題が、今のところはパーフェクトだ。これからもよろしく……っていうのは、さすがに申し訳ないから言わないけどね」
「……そんなんじゃないです」
「西本さん?」
「あたし、そんなんじゃないです」
そう言うと、奏は猛烈な勢いで仕分けを始めた。唇を固く引き結び、雑談を撥ねのけるように背中を向ける。頑なな表情を浮かべたまま、奏は下唇を噛みしめた。
何よ、と思った。
どうしてという気持ちになった。
なんで――なんで、あの子ばっかり。
奏には確かな予感があった。
おそらくここにみどりがいても、奏の話題は出ないだろう。話の中心はみどりの宿題と忘れ物、それから授業態度くらいのはずだ。賭けてもいいが、そこに奏の存在はない。
奏にはみどりの話題を出すのに、その逆はない。
みどりはそれだけで話題になるのに、奏はならない。
それは噛みしめるほどに苦い――屈辱だった。
「終わりました。もういいですよね? あたし、失礼します」
「え? あ、ああ……」
「それと、今回はみどりを許してあげてください。あたしが代わりにやったので」
そう言うと、ぺこりと頭を下げて準備室を出る。「あの、西本さん?」という困惑した声は、聞こえなかったふりをした。
胸の中にどろどろしたものが詰まっていて、熱くて痛くて苦しかった。
校門を出る時、携帯に連絡が入っているのに気がついた。
――無事合流。奏ちゃんのおかげ!
イェイ、という絵文字が躍る。
いつもならすぐに返事をするはずなのに、なぜだか少しイラっとした。
奏はそれをポケットに突っ込み、家に着くまで返信しなかった。




