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「兄様、まだかしら……」
エファイテュイアお気に入りの紅茶とクッキーを召し人たちに用意させてから、もうかなりの時が過ぎていた。兄に買ってもらったばかりの大きなウサギのぬいぐるみを抱えて待つエファイテュイアに、傍らに控えるラピカも少し首を傾げて口を開く。
「若君様はお時間には几帳面なお方ですのに」
乳母の子であり、乳姉妹のラピカは同い年のエファイテュイアよりかなり大人びた雰囲気のある清楚な少女である。エファイテュイアが天真爛漫、素直で純粋すぎるから、ラピカが自然と姉のような役割になったのかもしれない。
「午後には御使者様が来られるから、きっとあまりお話できないわ」
まるで愛しい恋人を待ち焦がれる乙女のように、エファイテュイアは大きくため息をついた。格子の枠に頬杖をつくと、細い腕輪がシャランと音を立てた。
朝は剣技のために裾も短く、装飾もほとんどない服装だったエファイテュイアも、今は後ろに長く引いた裾の、豪奢な宝石などをあしらったドレスを纏い、化粧をし、剣を持つ朝の彼女と同一人物とは思えないほどの変身を遂げていた。
その姿は、同姓のラピカからみても愛らしい。
「御使者が来られるのも久しぶりね」
「二月ほど前にお二人の皇太子殿下が二十歳のお誕生日を迎えられたとき以来でございますね」
前例のないことだが、アージェント大帝国の皇太子は二人立てられている。
ファルアランとディルザードは、二月前に双子の皇太子の生誕式典に出席した。その御礼として使者が高価な品々を届けたのが一ヶ月半ほど前のことだ。それ以来、使者は訪れていないし、こちらから帝都に赴くこともなかった。
「そういえば、皇太子様と協力して蛮族討伐することになるかもしれないって兄様がおっしゃってなかった?」
「えぇ。氷の貴公子とも呼ばれるあの方は、優れた剣使いだそうですわ」
冷めた美貌とその気性から、氷の貴公子との異名を持つ双子の兄。文学や芸術を好み、女性のような麗しい面差しから、華の貴公子との異名を持つ双子の弟。エファイテュイアは彼らの肖像画を見たことがあるが、本人たちに会ったことはない。
その皇太子と比較してか、ディルザードは暖かい眼差しと流れるような優雅な仕草から風の貴公子とも呼ばれていた。
「今日のお話もそのことかしら?」
「若君様はキト一番の剣使いとして全指揮を任されている御身でございますからね」
「ええ、そうよ。ディルザード兄様は強いの。蛮族なんて簡単に倒してしまわれるのよ」
産まれたときから共に生活しているラピカに対してすら、彼女はいつも兄を自慢する。
エファイテュイアにとってディルザードは、誇りであり光であり愛だから。
兄が誉められたとき、自分のことのように嬉しそうに笑うのだ。
「ですがーーー恐ろしゅうございます。このところ、蛮族に襲われる貴族も増えておりますでしょう」
北のデリトナ荒野に根城を置いているという蛮族は、ディルザード率いる討伐隊が何度も出動しているにもかかわらず、今だ捕らえることができないばかりか、日に日にその暴挙な振る舞いが激化している。特に裕福な貴族は狙われやすく、金や貴金属、食料や布などを奪われているばかりか、時には命も危険だと言う。すでに何人かの使用人が殺されている屋敷もあるのだが、さすがにラピカはそこまで知らなかった。
いつこの屋敷が狙われるとも限らない。
「平気よ。兄様がわたしを守ってくださるもの。ラピカも守ってねってお願いしてあげるわ」
無邪気に笑いかけられ、ラピカもこれ以上この話題をするのはやめた。主人である彼女に危機感を持たせる必要はないのだ。警備の剣使いたちが用心していればそれでいい。
「兄様を呼びに行かせましょ? ね、ラピカ。誰かを使いにやって」
「ーーーラピカ殿。申し上げます」
エファイテュイアがそう提案したとき、召し人の一人が扉ごしに声をかけた。ラピカが向かうと扉は軽く開かれる。
「もうまもなく、若君様がこちらへお越しとのご連絡でございます」
「わかりました」
侍女はそれだけ告げるとすぐに下がった。プライベートな時間に、ラピカ以外の召し人が付き従うことはほとんどない。扉の外にはもちろん女の剣使いが警備に立っているが、室内は基本的に二人だけなのである。
ラピカは召し人からの連絡をエファイテュイアに告げた。
「本当? じゃあ温かい紅茶を用意してね。ラピカの入れる紅茶は本当においしいのだもの」
「かしこまりましたわ。少々お待ちくださいませね」
ふわふわしたウサギの耳に顔をうずめて、彼女はラピカの手際よさを眺めた。
用意が終わるか終わらないかというタイミングで、部屋の扉が左右に開かれた。
「エファイテュイア」
公爵とその夫人である父母に会ったからだろう、私服よりも少し格式ばった服装をしたディルザードが現われた。エファイテュイアの姿を見、柔らかい笑みを口元に宿した。
「……あら?」
ラピカにすら聞き取れないほどの小声で、エファイテュイアはそう呟いて首を傾げる。
なぜ疑問に思ったのか、それは彼女にもわからない。
兄の声。いつものように、優しく包むように、甘くとろけるようにエファイテュイアの名を呼んでいた。
同じ、はずだった。
だったら……そこに覚えた違和感はなんだったのだろう。
「兄様」
立ち上がって彼を迎えた。
「遅くなってすまないね。父上のお話が長引いてしまった」
「来てくださったのだもの。気になさらないで」
彼の瞳がいつもと違う色になっていた気がしたけれど、今はそんな違和感よりも逢えたことがただ嬉しくてエファイテュイアは笑みを浮かべた。そんな妹姫に、ディルザードも柔らかい眼差しを返してその頭を撫ぜてやる。額に軽くキスをする。
ほら、いつもと変わらない兄の態度。
きっと違和感は気のせいなのだろうとエファイテュイアは思った。
「ねぇ兄様。ラピカに紅茶を入れさせたの。とっても美味しいの、知っているでしょう?」
「もちろんだよ、いつも楽しみにしているよ」
「アーシャにクッキー焼いてもらったわ」
アーシャはエファイテュイアの乳母で、ラピカの母である。
「おいしそうな香りだね。ザッカリアの実を使っているのかな?」
ラピカの引いた椅子にディルザードが腰を降ろし、丸い白の卓子をはさんでその斜め前にエファイテュイアも座った。
まず、紅茶を一口。兄の動作のひとつひとつを見ながら、エファイテュイアもカップを手に取る。
「余所見をしているとまたミリュの上に紅茶をこぼしてしまうよ。その子は六代目ミリュだったかな?」
「まだ五代目よ。でもいいの。また兄様が買ってくださるのでしょう?」
自分にその気はないのだろうが、可愛らしく小首を傾げて甘やかに問い掛けられたら誰でも否とは言えなくなる。そんな言葉を何の裏表もなく口にしてしまえるから、彼女はこれほど純粋なのだ。
「本当に困ったお姫様だな、お前は」
妹が無意識的に仕掛けた罠に、兄は意識的にかかっていく。そんな関係もまた、愛情なのかもしれない。
「兄様、大好きよ」
エファイテュイアは身を乗り出して、ディルザードの頬に軽く唇を当てた。
暖かいキス。
大好きよ、兄様。
「私も愛しているよ」
それは紛れもない真実ーーー。
彼の瞳でそれがわかる。エファイテュイアにはそれがわかる。
「ねぇ、お伺いしてもいいかしら? お父様のお話、なんでしたの?」
「ん?」
ほら、また。
(どうしたの、かしら?)
いつものように優しく笑っているのに、その瞳は決して笑っていないことにエファイテュイアは気づいた。
いつもディルザードを見ているエファイテュイアだから。
彼の笑みは、今ここにはない。
「たいしたことではないよ」
言葉は紳士的であったのに、エファイテュイアは突き放されたような寂しさを覚えた。
(……兄様。どうして?)




