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その日、ディルザートと夕食を取ったあと、二人は父の公務室に呼ばれた。
「若君様、姫様」
部屋の前で待っていたのは、執事でありライルの父でもあるアヴァスだ。アイルディア公爵の片腕として働く彼も、今日は部屋の外にいる。それだけでよほどの話なのだろうと思わせた。
「公爵様がお待ちでございます」
扉のそばに立つ警備の二人によって、それは開かれた。
将来この公爵家を継ぐであろうディルザードは何度もこの部屋を訪れているが、女性であるエファイテュイアには初めてのことだった。
それほど広い部屋ではない。簡素な部屋の壁にはぎっしりと書棚が置かれ、分厚い本が整然と並べられている。その中央に大きな机があり、そこに父ファルアランが腰掛けていた。
「よく来たな、二人とも」
「お父様!」
立ち上がって、机の前に移動するファルアランにエファイテュイアが飛びついた。父娘といえども二日ぶりに顔を合わせたのだ。彼も軽く抱擁を返し、その額にキスをする。
「こちらに腰を降ろしなさい」
ファルアランに促され、二人はあらかじめ用意された椅子に座り、彼ももとの椅子に戻った。
「さて、ディルザードは今日何か言ってくれたかな? エファイテュイア」
優しい問いかけは、だが謎めいていて曖昧だ。
「愛していると言ってくださったわ、いつものように」
ふざけているのではなく、至極真面目に、そして嬉しそうに誇らしそうにエファイテュイアは答えた。
「すいません、父上様……私の口からはとても……」
隣でディルザードが深く頭を垂れている。ファルアランがそっとため息を漏らした。
「まぁいい」
「……お父様? ディルザード兄様?」
不思議な空気だった。エファイテュイアには何を言っているのかわからなかったが、たぶん重要なことがあるのだろうとそのときやっと悟った。
「エファイテュイア」
「はい」
視線をディルザードからエファイテュイアに戻したファルアランは、抑揚を押さえた静かな声音で彼女の名を呼ぶ。
「お前の結婚が決まった」
しばらく沈黙した。
その言葉の意味がわかるまでに時間がかかった。
結婚。
(……結婚? わたし、が?)
ようやく理解できてきて、最初に思ったことは……。
「ーーー兄様と?」
エファイテュイアのその問いかけは、公爵家の娘という身分に生まれた彼女の感覚で考えれば無理からぬものであった。貴族の、それも一地区を統治できるほどの家では、兄妹の婚姻はさほど珍しいことではない。それに、この場に兄も呼ばれたことが何よりの証とも言えた。
エファイテュイアは兄を溺愛している。それがただの兄妹愛なのかそれとも違うものなのか、まだ幼い彼女には区別がない。愛に種類があることも知らない。
ただ、兄を愛している心は本物だと信じていた。
だが、ファルアランの表情は厳しい。不安になって傍らのディルザードを見上げたが、彼は妹の縋るような視線に責められ、軽く瞳を逸らした。
「ーーー」
(……どう、して?)
ディルザードがエファイテュイアを拒んだーーー。
兄がそれほど冷め切った態度を取ったことは今までなかったのに。少なくともエファイテュイアの前では……。
「……違う、の?」
「一月後、お前が嫁ぐべきは、アージェント大帝国の皇家だ」
ファルアランが淡々と告げた。
小さな少女の心を打ち砕くような、残酷な言葉を。
アージェント大帝国。それはエファイテュイアの住むこの大地の名。だが、自治権を持つキトは、実際にはアージェント大帝国内にあっても他の中小都市に比べて依存度が極端に少ない。
エファイテュイアには、キトこそが世界のすべてだった。
ディルザードが彼女の両手を握ってやると、それは驚くほど震えていた。
だがそれは、はたしてエファイテュイアの震えだったのか……それとも……。
「……帝都、へ?」
「そうだ。そして双子の皇太子のどちらかと結婚し、将来の皇妃となる」
「…………」
あまりにも大きすぎる話だった。
エファイテュイアは兄と結婚できると思っていたわけではないが、キトの貴族の一人と結婚し、キトの街に住み、父母や兄とすぐに逢える距離にいられるのだと信じていた。
それがどうだろう。キトから遠く離れた帝都レキ=アードで、将来皇帝になるであろう人物と結婚するという話が出るとは。皇妃という身分までついて……。
「兄様……っ」
助けを求めるようにディルザードをもう一度見上げる。彼の腕は小さな姫をしっかりと抱きしめた。震える全身を暖かさと優しさで包み込む。
兄の腕がエファイテュイアにとって一番の幸せな場所。
そこにいるときの彼女は誰よりも輝き、その一つ一つの仕草は水よりも清らかに流れ、大地のように慈愛に満ちた笑顔を向ける。
「エファイテュイア……」
「兄様と離れて暮らすなんて……。わたし、キトの街にいたい……!」
胸の奥が抉られるように痛む。
これほど痛烈な想い。
これほど深く傷つけられた心を、どうしたら治せるのだろう。
エファイテュイアは兄が大好きで、父や母が大好きで、このキトが大好きだった。この至福は永遠だと疑うことはなかった。
「わたし、兄様を愛しているのだもの……ほかのひとと結婚なんて……離れて暮らすなんて……っ! お父様はわたしと離れていても平気なの……?」
最後の一言は、キトを統治するアイルディア公爵としての立場からすれば、ひどく痛烈に心を蝕むものだった。
ファルアランは唇をかみ締める。
「父上様……」
「ーーーこれは、皇家の決定なのだ。エファイテュイア……我らは逆らえぬ」




