第6話 志穂
実井とのひと悶着で気分が悪い中、庁舎に戻る秀介。
その入口近くを行ったり来たりする女性に目が留まった。
牡丹の簪…。
その麗しい黒髪に刺さる牡丹は今朝、実井と一緒にいた女性と重なっていく。
「あの、誰かお探しでしょうか?」
庁舎の中に消えていく同僚達の列から離れて、線の細い瞳を曇らせるその女性にかけよった。
「えっ!」
突然、話しかけられた女性は困惑の表情を浮かべて秀介を見つめる。
「失礼しました。怪しい者ではありません。その、実井に用があるのかと思いまして」
声をかけたのはまずかっただろうかと秀介は早くなる心臓を抑え込むようにだらしなく笑みを浮かべる。
「勇ちゃん…いえ、実井様とお知り合いなんですか?」
「同僚の黒谷秀介と申します」
「ああ、貴方が…。これはご丁寧にありがとうございます。私は志穂、笹野志穂と申します」
ゆったりと一礼する、志穂の動作一つ一つが美しい。
しかし、疑問も湧く。
「えっと、俺の事をご存じで?」
少しの警戒心を含みつつ、秀介は問いかける。
「実井様と仲が良いんですよね。ありがとうございます」
秀介の本心に気づく事なく、志穂は答えた。
驚いたのは秀介の方だ。
仲が良いとはそんな事実はないんだがと思わず苦笑いを浮かべてしまう。
とはいえ、なぜか嬉しそうな、志穂の手前、何も言い返せない。
「実井は今はいないんですが、何か言づけがあるなら預かりましょうか?」
「構いません。少し顔を見たかったものですから。では、失礼いたします。黒谷様」
足早に去っていく、志穂の顔はどこか沈んでいる。とはいえ、初対面の身では踏み込んだ言葉も言えずただ、その背を見送った。
あの様子だと実井の野郎浮気でもしたのかと思った。
色男というのは一人じゃ満足できない物なのかとも吐き捨てたくなる。
ああやって、他の女性も泣かせてるんじゃなかろうか。
武士の風上に置けねえ奴だと思った。
正確には武士ではないという事実はこの際脇に置いておく。
こっちは生まれてこの方、二十と少し。
誰とも情を交わした事はねえのにな。
心底羨ましいかぎりだ。ひがみだと分かっていても落ち着きかけていた怒りが再び募ってきて、秀介は思わず握りこぶしを作った。
帰ってきたら、実井にまた、文句を言ってやろう。
遊びも程ほどにしなければ、その内、女性に刺されるとはん。
秀介は強い母や冬乃の傍で育ったから知っている。
どんな花にだって、刃は隠されていると言う事を…。
謎の決意を固めつつ、秀介は庁舎の中へと戻っていく。
目的地は庁舎中央。数百人が収容できる広い一室だ。
「今朝未明、内務卿次官補佐の大里孝三郎殿が内務省に向かう最中に暗殺された」
集められた階級の異なる警官達の前でこの場で最も格上の権少警部の桑原英彦のひと言が静かに緊張感を募らせていく。
秀介の体にも力が入る中、頭を冷やすと言ったっきり戻ってこない実井の事も気がかりでならない。
「はいっ!質問よろしいでしょうか?」
斜め後ろから力強い挙手が上がった。
「質問を許す」
「感謝いたします。恐れながら、なぜ当初内務卿が殺されたという話になったのでしょうか?」
精鍛かつ知的な雰囲気を纏う杉山伸介は秀介達の一期上の一等巡査だ。
年齢はつい先日二十五を迎えたと自慢していたのが記憶に新しい。
だが、あまり仲が良いわけではない。
なぜなら、杉山は旧薩摩派に属する元士族のためか、その他の人間を見下す傾向にあるからだ。特に幕府側で戦った者への当たりは強い。
「恥もなく、生きながらえるとは幕臣というのはたいした事ないな。切腹する覚悟がないなら、俺が手助けしてやろうか?」
そんな皮肉をかけられた事など、一度や二度ではない。
それでも、同年代の巡査の中では出世頭であるのは事実だ。
表だって語られないが新政府軍派に属する者は出世が早いと言うのが大体の人間の認識なのだ。もちろん、桑原権少警部は旧土佐派の人間だ。
「あの時間にいつも、内務卿の馬車が通っていた事は調べで上がっている。賊はその事を確認していて、待ち伏せしていたと見ている。だが、幸いな事に内務卿は昨日より京都に出向かれていた」
幸いと呼ぶのだろうか。
内務卿ではないにしろ被害者は出ているのだ。
「付け加えてもよろしいでしょうか?」
今度は前列に並ぶ細身の男が挙手をした。杉山と同様に一等巡査の芦水熊雄だ。
「ああ、頼む」
一礼して立ち上がった芦水は強そうな名前とは真逆で色白な優男の印象を受ける同僚だ。
彼も旧薩摩派であり、杉山と一緒にいる事が多く、その腰ぎんちゃくだと噂されるが秀介はそれは違うと思っている。
醸し出される覇気はいつも小さいが、薄っすらと笑みを浮かべる下に底知れない何かを隠し持っている気がしてならないからだ。
沢山の人間を斬った匂いがする。
それでいえば、この場にいる者達はほとんどが含まれる。
だとしても、場数が違う。
そんな思いに駆られるのだ。
それは少ないとはいえ、戦に出た身故に分かる事。
「杉山。幕府側で戦った人間にも敬意を払うべきだ。今は彼らも我々の味方。憎むべきは未だ戦に明け暮れる反乱士族だ」
悪態をつく杉山を制しするのはいつだって芦水だ。
そして、罵詈雑言の王とも呼べる杉山もその言葉に従うのだ。
だから、芦水を慕う人間は多い。
権少警部への昇進ももしかしたら、杉山よりも早いかもしれない。
この場にいる人間で芦水と同種の匂いを出しているのは藤田ぐらいだろう。
そう言えば、あの人の姿も実井と同様に見えない。
折角の情報共有の場だというのに自由な人だ。
そして、どうして、自分が格上の藤田の心配をしなければならないんだと思い直し、ため息を付いた。この間も旧薩摩派と旧土佐派の警官達の会話は続いている。
「大里卿が乗っていた馬車は内務卿が使われていた馬車と同種の物で区別がつかない。そして、たまたま今回、同じ時間にあの場を通った事で間違われたとみております」
人違いされたと言う認識がその場に広がっていく。
確かに政府要人とはいえ、次官補と内務卿を狙うのではだいぶ印象が違う。
「我々もそう見ている。そして、現場には小鬼を思わせる面が置かれていた。これは反乱士族どもからの挑発と見て良い。皆、心せよ。そやつらの名は”慟哭隊”。まだ、素性も人数も不明だが、佐賀の乱でも手を貸したと言われている連中だ」
二年ほど前に佐賀で起きた士族の暴動。あの時は新政府側に情報が入るのが早かったためかすぐに鎮圧されたというのが世間の常識だ。
だが、慟哭隊の名が出たのは今回が初めてのはず。
それでも、桑原権少警部の話しぶりからするにその名は前々から把握していたと見える。
“我々警官達が情報収集”をする裏で誰かが動いているのだろうか。
だとすると、佐賀の乱で反乱士族達があっさり負けた理由も頷ける。
まあ、どれが事実であろうと関係ない。
高々、一介の三等巡査の秀介が出来る事など歯向かう人間を鎮圧するだけなのだから。
「では、各自、見回りを強化するように」
桑原権少警部の最後の言葉を聞き留めて、同僚達が次から次へと立ち去っていく。
秀介もその後に続く中、気配を消し、廊下の隅に背を付けて突っ立っている藤田の姿が目に留まった。だが、気になったのは年上の同僚ではなく、その傍らで何やら話し込んでいる謎の男の方だ。
その身なりは西洋からもたらされた上等な礼服を着込み、その年齢は藤田と同年代に見える。
「これは持久様。いらしていたとは…」
桑原権少警部の分かりやすいご機嫌取り口調にその人物が政府の役人。
それもかなりの地位にいる人間であるのがすぐにわかった。
当たり前か。人違いとはいえ、内務卿が狙われたのだ。
持久と呼ばれた男の動向を見定めている中、その男と視線が合わさり驚いた。
「どうも。若い巡査さん。少し私のお願いを聞いていただけませんかね」
「俺?」
得体のしれない持久に声をかけられ、困惑する秀介。
さらに持久は周囲を見渡し、杉山と芦水を呼び付けた。
「失礼。私は持久裕作。政府の役人でしてね。独自に情報収集をしているんですよ。そのすり合わせをお願いしたくてね」
「なぜ、俺…私が?」
「目撃証言を引き出したのは君だと藤田さんから聞きましたから」
「藤田さんと懇意にされているんですか?」
「まあ、そうですね。あの方とは幕末の頃からの仲でしてね」
含みを持たせて笑う持久という男から醸し出される得体の知れない感覚に背筋が凍りそうになる。もしかしたら、この男も新選組だったのだろうか。藤田がそうだったように。
その正体が良くも悪くも歴史に名を残す事になるであろう新選組。彼らは最前線で戦っていた。幕末の頃、成人扱いだったとはいえ、まだ子供に足が生えた状態のまま、なんとか生き延びた秀介とは違う。彼らは今も同時の情報網を持って、暗躍していると言う事かもしれない。
藤田の交友関係も父と同様にどんな網が張り巡らされているのか気になってしまう。
だが、それを問うような関係ではない。
この持久勇作にしたってそうだ。
桑原権少警部もこびへつらう男。そのお願いを聞き届けて良い物かどうか。
「何の用だ?」
やってきた杉山とそして芦水に持久は人の良い笑みを浮かべる。
「隅田川探索に行っていただけませんか?」
ゆっくりと言葉を紡いだ持久に三人は首を傾げたのであった。
この瞬間にも実井は戻って来ていない。
一体どこで油を売ってるんだか。
秀介はなぜか不安感に駆られていた。




