第3話 昔馴染み
日々移り変わる東京の街において、大人の遊び場の装いも変わりつつある。
最近、流行りなのは芸者遊びが出来る待合茶屋なるもので二、三年前からその数を急激に増やしている。その多くは主を失った武家屋敷がほとんどであるが、人形町に構える金波亭は最近建て替えられた西洋式の門構えで客を出迎えてくれる。
そこを訪れる男達はいつだって浮足立ち、熱や劣情を垣間見せる。
秀介もこの国には馴染みのない調度品や艶めかしく灯される明りに別世界に連れ出してもらえる気持ちにさせられていた。
だが、それも一瞬だ。すぐに心は沈んでいく。
今だって、西洋椅子に腰かけながらその指にかけられたお猪口の中で揺れる無色透明な酒を飲みもせずにぼんやり眺めるだけで精一杯なのだ。
「浮かない顔ね」
鈴を転がすような艶やかな声に思わず顔を上げれば、真っ白な肌に赤い紅を差した美しい女性の心配そうな視線とぶつかった。
「すみません。折角、冬乃さんが相手をしてくれているのに」
こうして言葉を交わす事が罪深いようで、萎縮する。
それでも、今日もこの人が無事に生きている事に心底安堵もするのだ。
「秀ノ介さんはお客様なんだから、謝る必要はないわ。あっ!ごめんさない。今は秀介さんだったわよね」
昔から変わらぬような口調で語りかけてくれる冬乃の笑う目尻が戦場で散った友と重なって罪悪感が募って来る。
それを隠すように秀介は彼女のお猪口にも当たり前のように酒を注いだ。
「どっちでも構いませんよ。対して違いはないですから」
なんとなく心機一転を図りたくて、父上からもらい受けた名からノの字を抜いただけなのだから。いっその事、全部変えてもよかったのだ。だが、そうしたら、かつての自分を殺すようで嫌だった。友を助けられず、父上もいなくなり、同心ですらない。
すべてが中途半端な人生を送る自分が名前まで捨てたら一体何になるのだろう。
そんな想いに駆られて結局半端な決断しか下せない事にいら立ちすらもはや感じない。
「警官の仕事はどう?馴れた?」
「まあ、それなりにはですかね」
なるべく当たり障りのない言葉を選ぶ。彼女と会う時はずっとそうだ。
他愛無い話をするのに、本音は晒さない。
そして、それは冬乃も同様だ。その伏し目がちな横顔からは何の感情も読み取れない。
「なぜ、貴方だけが帰って来たの!信二郎と一緒に戻って来ると約束したのに!!」
ようやく酒を流し込むと苦みが舌にしがみついてきて、思わず眉を顰める。
頭の中で繰り返されるのはかつて彼女から投げつけられた言葉。
背中を刺されたと言うのに一命を取り留め、父上に連れられ帰って来たあの時の秀介に出来たのは親友の姉に謝る事だけだった。
「すみません」
そのたった一言を最後に彼女とは疎遠になった。
もう、その縁が結ばれる事はないと思っていた。
それなのに東京と名を改めたこの地で芸者と客として再会するとは何の因果か。
きっと、戦で華々しく散った同胞を差し置いて、生き残った罪を自覚しろと言う事なのだろう。それでも、信二郎を兄と慕ったように四歳年上の冬乃も姉のような存在だったのだ。再会にどんな意味があろうとも、こうして足しげく通うのは昔のような友人に戻れたらいいという淡い期待も隠されている。そんなもの無理な幻想だと分かっているのに。
彼女は待合茶屋の外ではけして会ってはくれないのだから。そばで笑ってはくれていてもその胸の内では今も信二郎を戦場に置いてきた秀介を憎んでいるのだ。
それで構わらない。信二郎の親族である彼女の行く末を見守るのがきっと生き残った自分の役目だと思っているから。だから、その考えが傲慢だと罵られようが、本音で語り合えない現状でも冬乃の元に通い続けている。
まあ、巡査の身では頻繁にお座敷遊びは出来ないのが辛いところではあるのだがな。
薄い戸の向こうから熱がこもる男女の吐息の気配が漏れてくる。
基本は芸者と遊ぶ場だが、それ以上を望む客もいると言う事なのだろう。
「何か料理を頼む?」
「いえ…。これで結構」
だが、秀介はその類ではない。
冬乃には何も望まない。ただ、こうして酒を摘まむだけで満足なのだ。
こうして、友の姉との短い会話を嗜みつつ、金波亭を後にした秀介は肌寒い道沿いで立ち止まった。その手に握りしめられているのはくたびれた匂い袋だ。
戦に向かう信二郎に冬乃が手渡したお守り。
そして、秀介にとっては親友の死の間際に手にする事になった品。
「また、返せなかったな」
あいつが残した唯一の形見だというのに。
東京で再会した冬乃はけして、弟の話をしない。
まるで忘れたいと言いたげな彼女の気配に臆して話を切り出せずにいる。
我ながら臆病者だ。
しかし、また面と向かって冬乃に責められたら今度こそ、この身は持たない気がする。
だから、今日もいつものように罪悪感に苛まれてどうする事も出来ずに帰路を急ぐのだ。
「また、あの人に会ってきたの?」
未だ江戸の空気を残す古びた長屋の戸を開けるとこれまたいつもの一声が耳を通り抜けていく。こちらに視線を向けずに立ち上がり着物を羽織る黒谷夏に秀介は綺麗な一礼で返事した。
「母上。こんばんわ。寝ていてくださってよかったのに」
「今の今まで寝ていましたよ」
「すみません。起こしてしまいまして」
夏の顔色はあまりよくない。
その顔に刻まれた皴の数が重ねた年月を伝えてくる。
「構いませんよ。彼女は変わらず?」
背後で夏の問いは続く。
「元気そうでした」
「そう…。力強く生きてらっしゃるのね」
そして、夏の視線が秀介の腰に刺さったサーベルに向けられた事にも気づいた。
「所でいつになったら辞めるのです?」
そのひと言に飲み込もうとした感情がせり上がってくる。
「また、その話ですか?辞めるも何もまだ、一年ではありませんか?」
「だからなんです!明治政府の傀儡に成り下がったなどと、あの世でお父上様にどんな顔して会えとおっしゃるの?」
「母上!滅多な事を言う物では…」
「いいえ。私はいつ召されても構わないのですよ。ただ、心配なのは貴方の今後だけ」
そうやって、この母はいつだって自分を卑下するのだ。
その言葉一つ一つがこの身を削ると分かっているのだろうか。
「黒谷家は治安維持に努めるのが役目ではないのですか?」
「何が治安維持ですか!そのようなまがい物の刀をぶら下げて置いて!!」
「騒動を起こす士族どものような物言いはやめてください。どこで誰が聞いているか分からないのですよ」
念のため、戸がきちんと占められているのか確かめる秀介の耳に咳き込む夏の声が広がっていく。
「さあ、夜も遅いですからそろそろ寝てください」
まだ、何か言いたげな夏を強引に布団の中に押し戻した。
この母上も年老いた。今も口は悪いが昔はもっと覇気があったというのに。
子供の頃の母上はというと、とにかく厳しく、行動的な人だった。黒谷家の跡取りとして恥じぬようにと刀の腕を磨くように口酸っぱく言われ続けてきた。この母上自身の刀の腕もかなりの物だったから余計だろう。とにかく強い人だったのだ。それは先の戦に生還したとはいえ、負った傷が元であえなく亡くなった父上を弔った後も同じだった。親子二人で各地を点々とした時もどこまでも凛と立っていた記憶がある。それでも、その終着点と言いたげに東京の地にたどり着いた頃から急に体調を崩すようになったのだ。きっと、疲れが出たのだろう。いや、今まで普通に過ごしていたのが不思議なぐらいだ。
自分が独り立ちしたせいだろうか。
母上は嫌がってはいるが、警官の職に付けたから、この長屋にも住み続けられ、薬代も手に入るのだ。早く元気になってもらい、母上にもご自分の幸せを見つけてもらいたいのだ。
だから、今職を失うわけにはいかない。それにしても、警視庁も、敵側だった人間を良く雇ったものだ。それだけ、武に長けた者が多い反乱士族を脅威に思っていると言う事だろう。
とにかく、この状況すべてが皮肉の何物でもないのは事実だ。
「今日は泊れるの?」
「はい。許可はとっていますから」
秀介が短い休息を得ている頃、ひっそりと東京どころか国中を揺るがしかねない事件が進行している事をこの時は誰も気づいていないのであった。




