第2話 明治に咲く血
こみ上げてくる異臭に胸がつっかえそうになる。
だが、上がる息を抑える事は出来ず、おもむろに壁越しにもたれかかった。
血の匂いなど嗅ぎなれていると言うのに情けない限りだ。
結局、宿屋に潜伏していた士族全員の死を見届ける羽目になってしまうとは。
そう思うと、やはり多少の気持ち悪さが体中を駆け抜けていく。
「情報を引き出したかったんだがな」
物のように運ばれていく士族達を後目に藤田が言った。
「申し訳ありません」
秀介は咄嗟に背筋を伸ばし、頭を下げた。
「ああ、仕方がないさ。次の機会もあるだろう」
「次ですか?」
「どうした?」
「いえ、失礼しました」
藤田にはそう言ったが心の中には泥が溜まっていくような感覚が強くなっていく。
全く、いつまでこんな事が続くんだ。幕末の頃は置いといて、三百年近く続いた江戸の世は徳川家の名の元にそれなりに平和だったと聞いている。もちろん、いつの世だって咎を働く者はいる。黒谷家はそれらの人間を捕らえ、適切な刑を与える役目の一旦を担ってきたのだ。
ごく普通に生きている者達が平和に暮らせる日々を守るために。
だが、今はどうだ。
ただ、斬り合うだけじゃないか。
戊辰戦争の頃と何も変わらない。
どこもかしこも血に飢えた獣ばかりだ。
「少し休め。過激な士族集団が江戸に入ったという話もある」
「今、殺った奴らと関係が?」
問いただしたのは実井だ。
「まだ、分からん」
「そりゃあ、全員お陀仏になりましたからね」
少しの緊張感を孕んでいても藤田の前で当たり前のように軽口を叩く実井の膝を強く小突いた。
「いてっ!」
「失礼しました。こいつには後できつく言っておきます」
「はあ?事実を言っただけだろう?」
同心だろうが、警官だろうが属してる集団の中で目上の人間に馴れ馴れしい態度を取るのがどれだけ危険な事なのかこの男は分かっていないのだろうか。
「ああ、構わん。むしろ、黒谷。お前は肩に力が入り過ぎだ。口が悪いぐらいで取って食ったりはしない」
なぜ、自分が叱責される流れになっているのかと不満が募って来る。
特に腹が立つのは実井が藤田に同意するように含みのある視線で笑っている事だ。
気に喰わないだとか、癪に障るという理由で不遇な扱いを受けてきた者の話を父上からごまんと聞かされてきた。
だから、人間関係は大切にしろというのが黒谷家の家訓と言ってもいい。
それ故にこの体は礼節を何よりも好むように作られているのかもしれない。
だとしても、この上司が些細な言動に目くじらを立てる男でないのにも安堵している。
「とにかく、気は引き締めておけ。廃刀令が出されて、半年もたっていない。政府に反感を持っている連中を逆なでするには十分だからな」
「「はいっ!」」
秀介と実井の覇気を宿した返事が薄暗い空間に広がっていく。
「とりあえず、ご苦労だった。日が開けるにはもう少しある。休んでおけ」
軽く言い終え、去っていく藤田の背中を見送ると自然と緊張感が抜けていった。
「ああ、終わったな。これからどうする?」
疲れたと言いたげに肩を鳴らす実井。
その瞳はどこまでも楽しそうだ。
「帰るが?」
「相変わらず面白味がねえな。背中を預ける仲間と酒を酌み交わそうという気はないのか」
人間関係は重要だ。
それは分かっている。
だが、この男とはやはり性が合わない。
だから、仲良くしたいとは微塵も思わないのだ。
本当に失礼な奴だ。
この瞬間にもわざとらしくため息をつく実井の様子に思わず眉が上がっていく。
「でも、知ってるぜ。お前、芸者に入れあげてるだろ?」
「はあ?」
「今度、紹介してくれよ」
なぜ、お前がそれを知っている?
いや、別に入れあげてはいない。
冬乃さんへの想いは好いた女性に向けるそれとは違う。
もちろん向こうとて…。
見知った女の顔が頭の中に浮かび上がる寸前でぐっと押しとどめ、実井を睨み返すだけに止めた。
「こわっ!馴染み客を増やしてやろうって思ってるだけだろう?横恋慕なんかしねえよ」
「そういう事を言いたいんじゃねえよ」
「良いって。分かってるさ」
諭すように肩をさすって来る実井の手を思わず払いのける。
しかも、なぜか一人で納得したとばかりに何度も頷いているのも腑に落ちない。
その様子に怒りを通して呆れてしまう。
「なあ。実井」
「なんだ?」
彼女の事を話題に出されたからその仕返しというわけではない。
今が質問しやすい空気感にあるだけだ。
「お前、本当に農家の出なのか?」
意を決して胸の中でくすぶっていた謎を当の本人にぶつけると同時に先ほどの戦いの光景が鮮明によみがえる。
実井の刀裁き、ではなくサーベル裁きは付け焼刃で身につけられる動きではないのだから。
「どう見ても戦い慣れている」
そう付け加えても実井の表情は少しも揺れない。
「あのな。戦中は俺達も大変だったんだ。刀ぐらい使えるさ。なんらな桑でもお前の首ぐらい貫けるぞ」
相変わらず、おどけているがその言葉の端々に棘ある。
これ以上、踏み込んでくるなと言いたげに。
「おっと、そんな深刻そうな顔するなよ。俺も“黒谷”さんを見習って、女の子の所に顔見せに行こうかな」
「だから、俺は…」
秀介の反論を最後まで聞く気はないと言いたげに実井は素早く闇夜に消えていく。
その足取りは恐ろしく軽やかだ。
逃げられたか。まあ、いいか。
過去を抱えた者など星の数ほどいる。
いちいち、話を聞いていたらきりがない。
この場に残された秀介の頬に夜風が通り抜け、自然と視線は空へと向いていく。
飛び込んできたのは美しい満月。
「あの時と同じだな」
ぼんやりと口にした言葉は暗闇に引きずり込むのに十分だった。
頭を駆け巡るのは倒れた無数の武士に刀の擦れる音と銃声。
どこを見渡しても砲弾が飛び交っていた。そこに立っているのは十二歳の秀介だ。
京の中心にほど近い林の中。幕府軍として共に付き従って来た父上とはぐれてしまい、不安と恐怖で足がすくむ。土煙に晒されて視界も悪い。
「秀ノ介!」
自分の名を呼ばれ、顔を上げると、血相を変えて走って来る少年の姿を捕らえた。
一歳上の奥崎信二郎だ。彼も同心の家系の生まれで、幼い頃から兄弟のように遊んでいた仲だ。この地獄のような場で見知った顔を見つけて、心底安堵した。
だが、それは一瞬だった。
どこからか放たれた銃声が信二郎の体を貫いたからだ。
崩れ落ちる友の姿に秀介の心臓も一度止まったような気がした。
「おい!しっかりしろ!」
動かなくなった信二郎の姿に我に返った秀介は慌てて駆け寄った。
抱き上げるその体から漂うのは甘い香りだ。信二郎の胸元から転げ落ちた匂い袋の仕業だとすぐに行き着く。だが、今はそれは重要ではない。
「冗談はよしてくれよ!」
瞳は確かに開いているのに、もはや動かない信二郎の体を何度も揺さぶるが結果は同じだ。
何の反応も示さない。
「どうしてだよ!」
無意識に溢れてくる涙を止める事は出来ず、友の姿は滲むばかり。
そして、再び、爆音が鳴り響いた。
砲弾だ。
その衝撃に逆らえず、小さな体は浮遊感に晒されて、大きく投げ出された。
すぐに訪れるのは全身を貫くような痛み。それらに鞭打つように起き上がると、信二郎の姿はどこにもなかった。一緒に吹き飛ばされたのか。
だが、あの様子ではもう…。
処理できない感情に叫びたくなる。
そして、迫ってくるのは新政府軍の一団。
もうどうでもよかった。
秀介はゆっくりと立ち上がり、敵陣を見定めた。
「あああああっ!」
そして、なりふり構わず突っ込んだのだ。
ありったけの力で刀を握りしめ、斬り込んだ。
父上に散々教え込まれた刀の握り方も扱い方もすべて抜け落ちていた。
だが、我に返った時、目の前には名も顔も知らぬ男が倒れていた。
始めて、人の命を奪った瞬間だった。
それを自覚したら、体が震えていく。心臓が冷たく振動していた。
次に訪れたのは背中に広がる激痛。
支えを失ったように足には力が入らず、斬ったばかりの男の傍らに倒れるしかなかった。
そして、自分も斬られたのだと自覚したのだ。
ああ、死ぬのだろうかとなんとなく直感した。
し安心したのだ。すぐに信二郎の所に行けると思えたから。
しかし、それはすぐに改める。
秀介自身はここで命を終えてもいい。だが、友は違う。
信二郎を待っている人がいる。絶対に一緒に連れて帰ると約束したのに。
なぜ、あいつがこんな所で死を迎えなければならなかったんだと悔しさが募っていく。
これもそれも全部は悪意を持って刀を振るう連中のせいだ。
見下ろしてくる満月の光すら恨めしくて怒りが募って来る。
遠のく意識の中、かすかに月が陰っていくのが見えた。
雲に隠れたのだろうか。
しかし、それは人だった。
神々しく輝く月を覆い隠すように高く飛び上がる誰か。
斬り合う者達で溢れかえるその場において、その“何者”かは異質に思えた。
だから、視界に留めている間にあの世に行く時機を逃してしまったのだろう。
あれから十年。運がいい事に未だに秀介は生き残っている。
あの時、背中に付けられた刀傷と共に。
「あれは誰だったんだろうな」
秀介をこの世に引き留めるために寄越された地獄の使者かそれともただの幻か。
今も謎のままだ。




