第1話 東京警視庁
長らく江戸と称された地が東京と名を改めて早9年。明治という年号にも少しばかりの愛着は湧いてきてはいる。
「この辺りも明るくなってきたな」
一列に並ぶガス灯は赤っぽい色の光をぼんやりと浮かび上がらせていた。
これが異国の技術か、便利な物だなとそうした感想は自然と湧いてくる。
それでも、日々、海の向こうからもたらされた文化を模倣するように様変わりする街に寂しさがないわけではない。それは己の姿にも言える事だ。
髷を結っていた頃はつい昨日のように思い出せるというのに、その髪は短く切りそろえられている。黒谷秀介が収まりの良い帽子をかぶり直せば、夜風が通り抜けていった。そのすべてがなんだか、胸をざわつかせる。無意識のうちに自身の頭を撫でていた。
すると、少し前を歩く歳の近い青年、実井勇大がこちらに振り返る。
「どうした?もしかして、侍に戻りたいだとか思っているんじゃないだろうな?」
実井のその何気ない言葉に心臓が一瞬激しく高鳴った気がした。
「そういうのはやめてくれ。どこで誰が聞いているのか分からないんだぞ!」
「大丈夫だって。ここには俺達しかいないんだからさ」
冗談はよしてくれと秀介は思った。
自分達が最後尾とは言え、薄暗くなってきた街頭の先には同じ制服の連中が闇夜に紛れている。
もし、この大事な時に“不穏分子”どもにその存在を感づかれでもしたら、すべてが水の泡だ。
そう思えばこそ、自然と実井を見つめる眼光も鋭くなる。
「そんな睨むなよ。別に取って食おうなんて思ってないぜ。ただ、俺の近所の元侍のじいさんが髷が恋しいって騒いでいたから、黒谷も同じなのかとな」
「あのな。確かに俺は侍の生まれだが、まだ二十を少し超えたばかりだ。じいさん達と違ってこの姿で生きる方が長くなる予定なんだ。恋しさはない!!」
本心を隠すようにまくし立てた。確かに恋しいというのとは少々違う。しいて言うなら、お気に入りの菓子を一生食べてはいけないと取り上げられた感覚だろうか?
とにかく、この心情を表すのは複雑で上手く言葉に出来ないのだ。
「ああ、悪かった。高々、農家の生まれの俺が侍の家の人間を茶化すのは筋違いだったな」
飄々と笑いながら、自分を卑下する物言いの実井は苦手だ。
まるで、自分達は違う世界の人間だと突き放されたように感じる。
「それでも、思うところはあるんじゃないのか?かつての仲間を狩っているんだから」
本当にこの男は癪に障る。今から、ひと騒動あるというのにまるで覇気がない。
「狩るっていうのは正しくないだろ。奴らは折角平和になった世に水を差している。取り締まるのは当然の事だ」
「さすがは、同心様は違うな」
「やめろ!」
態度を改めるどころか軽薄さに尾ひれをつける様子の実井にさらに怒りは募っていく。
秀介が同心だった事はない。ただ、黒谷家が代々、同心の家系だったと言うだけだ。
もちろん、亡き父は同心だった。しかも刀の腕も超一流。だから、幕末の頃は京都見回組に編成されたのだ。次々と不穏分子を取り締まる父上に憧れ、自分も同心を継ぎ、京都見回組に入ると思っていた。
それが、どうだ。父や多くの侍達が覚悟を持って、治安維持に努めてきた世は消えさり、変わりに実井のような何の覚悟もない連中がのさばっている始末。それでも、そんな男でも仲間に変わりはない。これから、相手にする連中は一人では荷が重い者ばかりなのだ。実井のような男でもいないよりはマシだ。
「気を引き締めろ。見えてきた。あれだろ?」
ガス灯の光が遠くになり、暗闇はさらに濃くなっていく。ひっそりと経つ古びた宿屋。明りは一つもなく、人の気配は一見すると皆無だ。思わず息を潜め、そして、先に来ていた仲間達の合図をじっと待つ。虫の声すら耳に入らない。その数秒は何時間にも感じる。全く、始めて踏み込むわけでもあるまいに。それでも、何度やってもこればかりは馴れない。
汗ばむその手は自然と腰にささったサーベルを握っていた。
父上から教わった山口一刀流は本来なら刀でこそ、その真価を発揮する。
だが、まあ、不満ばかり言っても仕方がないと諦めた。
新しい世に侍は不要だと言う事なのだろうから。
そして、その時はやってきたのだ。
前方の仲間が手を上げたからだ。
合図が来た。
秀介はその場に集っていた同じ制服を着る数十人の同僚達と共に閉め切られ薄暗い宿屋に踏み込んだ。
「東京警視庁だ!」
高らかに宣言したその名もまだどこかしっくりこない。
だが、その感覚に蓋をするようになだれ込む仲間の警官達に紛れて二階へと駆け上がる。
最初に目についた襖を思いっきり開け放った。
こじんまりとした座敷はどこか熱がこもっていた。その中央にひっそりと集まった何かがこちらをじっと見ていた。それは七人ほどの人間の目だ。
表情は見えないが殺気立っている。
「政府の犬が!」
誰かが発したその声を合図にどこからか酒の器が飛んでくる。それを咄嗟に避けたのと同時に鋭い刃先が目の前に迫って来た。秀介は無意識のうちにサーベルを抜き、応戦する。
外の明りが辛うじて差し込むその空間は幕末に引き戻されたように感じる。
周囲は刀とサーベルが激しくぶつかり合い、怒号が響き渡っていた。
「はあああっ!」
――カキンッ!
命を取りにくる対峙した男の胸めがけて、サーベルの刃を何の感情もなく突き立てた。
膝を付いた男の着物ははだけ、血が少しばかり流れていく。
荒い息をあげるその男の鼻先にサーベルを傾けたまま秀介はしばし沈黙した。
周囲は相変わらず騒がしい。飢えた獣の集団だ。
「さっさと殺らないのか?」
殺意のない秀介を笑うようにこちらを見上げてくる男は好戦的だ。
その歳は秀介より少し上だろうか。
いや、もしかしたらあまり変わらないかもしれない。
「降伏してください。どうやら、剣術の腕は俺の方がある」
世は変わったのだ。
命の奪い合いしか知らぬ侍など居なくてもいいじゃないか。
頭をかすめる言葉に意識が持っていかれた瞬間、肩に痛みが走る。
どうやら、刀の先がかすったようだ。
それでも、致命傷ではない。
それは目の前の男の刀からもたらされた物だった。
それを直感した瞬間、秀介の腕は意思を持ったようにその腹へと降ろされていた。
「命を無駄にするのか?」
その刀さえ手放せば、命は助けたというのに。
「侍にあるまじき言葉だな」
男は馬鹿にするように嘲笑した。そして、動かなくなった。
俺の最後の一撃が効いたのだろう。
秀介は今、自分が斬った侍をひと時見下ろした。
武士階級だった者達は士族と名を改めて日々は過ぎていく。
その多くは黒谷のように新しい時代を生きようと模索しているが、取り残された者達もいる。そこには幕府側も維新側も関係なく、不満は各地で広がっている。
血でまみれたサーベルが視界に入り、思わず手が震える。
その耳にかつて聞いた大砲の音と煙と血の匂いがぶり返してもくる。
もう、あんな地獄に戻されるのはごめんだ。
秀介の意識は幕末に引きずり込まれる寸前だった。
だが、背筋を凍らせる感覚が募って、現実に瞬時に引き戻される。
「さあ、楽しもうぜ!」
秀介のすぐそばを士族の男の体が通り抜けていく。その頭は壁に強打ち付けられ、だらりと畳の上に転がっていく。
実井は意識を失った士族の男をなぶるように何度もその腹を蹴り上げていた。
そして、その目は笑っている。
こいつ、この状況を楽しんでいるのか。
「おい。真面目にやれ!!」
「いいだろ。減るもんじゃねえんだから」
軽やかに笑う実井の姿は命のやり取りをしているとはいえ、この場にはそぐわない。
自分達は治安維持のために奔走しているはずだ。
それなのにその態度は一体どういうつもりなんだ。
平和な世に水を差す不穏分子と何も変わらない。
今もなお、動けぬ士族の男を過度にいたぶる実井に怒りが込み上がってくる。
「何をやっている。まだ、戦いの最中だぞ!」
頭に血がのぼりそうになる中、威圧感のある低音が二人の間を駆け抜ける。
頬についた血を拭う三十代半ばの警官、藤田五郎だ。そして、秀介と実井にとっては上司のような存在。
佇まいからして、只者ではないのだから。
それもそのはずだろう。
藤田という男は新選組として幕末を駆け抜けた英傑。生きる伝説に等しいのだ。
秀介とて、戊辰戦争を経験した身であるが経験が違いすぎる。睨まれただけで汗が噴き出してきそうだ。それは実井も同様のようで肩をすぼめている。
「すみません」
そう言った実井は戦意が残っている賊たる士族に向き直り、サーベルを振り下ろした。
その動きは俊敏である。
やはり、理解できない男だ。
実井とは一年ほどの付き合いだが、サーベルの扱いがうますぎるとも思っていた。
旧武士の家の出なら刀の素養があっても不思議でない。だからこそ、未だ血気盛んな奴らを取り締まるため、発足された東京警視庁は士族階級が多く採用されている。
だが、実井は違う。自分でそう言っていたのだから。しかし、考えていても仕方がない。
藤田に言われた通り、まだ、鎮圧途中だ。
秀介はサーベルを握り直し、血にまみれた周囲を見渡したのであった。
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