第24話 地獄
秀介は街を彷徨っていた。
あの屋敷で会った男は本当に信二郎だったのか。
それすらも嘘だと思いたい。
だが、冬乃が死んだのは事実だ。
ただ眠るように。
されど、その胸には刀傷があった。
紛れもなく、湯沢の巻き添えを食ったのだ。
「なぜだ。なぜ。彼女が?それも弟の手で…」
奴は知っていて、姉を殺したというのか。
いや、知らなかったとしても殺していい理由になどならない。
あの人が何をしたって言うのだ。
湯沢への恨みだけなら、奴だけを始末するだけで良かったじゃないか。
なぜ、無関係の人間まで殺さなければならないんだ。
秀介はすべてが夢であって欲しいと願った。
しかし、あの静かな屋敷で担架に乗せられ運び出された冬乃の生気のない顔が頭の中に張り付いてぬぐえない。
「かわいそうにな。婚姻間際だったんだろうに」
駆けつけた同僚達がさらりと言った言葉もなぜか、胸に引っ掛かりを覚える。
そんな簡単に片づけないでくれ。
世
間話の種にするように冬乃を語られたくはない。
それでも、言い返せるほどの力は秀介には残されていなかった。
ただただ気分が悪くて、その場にはいられなかった。
まるで戦場から逃げる臆病な侍のようで情けない。
だが、そうしなければ自分もおかしくなりそうだった。
そして、思い出すのは信二郎の事だ。
秀介の知るあの男は分別のつく人間だった。
いずれ、同心になり善良な人々を守る。
だから、騒動を起こして暴れ回る浪士達の前に飛び出して、戦いを挑む事も躊躇なく出来る人間だった。その行動力に憧れ、友として誇りだった。
いつか、二人そろって同心になるものだと信じていたのに。
すべて俺のせいだというのか。
秀介は自問自答を繰り返す。
十年前のあの戦場で信二郎を助けられなかったから、奴は怪物になったというのか。
今ほど、実井が浴びるほど酒を飲んでいた理由がよく分かる。
酔って何もかも忘れたかったのだろう。だが、酔えなかったともぼやいていた。
ならば、どうしたらいいのか。
どうしたら、無かった事に出来るんだ。
駆け巡るのは無意味な言葉の羅列だけだ。
その内、耳に届いた川のせせらぎ音に顔が上がっていく。
どうやら、知らぬ間に実井と最後に別れた辺りに戻って来ていたようだ。
だが、そこには実井はいない。その傷の様子を確かめる勇気は持てない。
芦水に続いて冬乃の死と信二郎の真実を突き付けられて、これ以上、誰かの死を見たくないと思った。そして、確かめずに済むためにいっそ、あの水の中に飛び込んでしまおうかとさえ思ってしまう。まるで誘われるように透き通る水面がこちらに来るようにと促しているようにさえ感じる。自然と足は一歩、二歩と川の方へと進んでいく。
「黒谷の旦那!!こんなところで夜遊びですかい?」
頭上から柔らかい声が落ちて来て、思わず振り返れば、帽子を目深にかぶった聡次郎が立っていた。その手には新聞が握られている。
「あんたは神出鬼没だな」
「記者なんで、情報がある所にはどこにでも顔を出すもんですぜ」
「悪いがあんたと話したい気分じゃねえんだ」
秀介はめんどくさそうに聡次郎の持っている新聞を叩いた。
「そう言わずに。こっちだってやっと休みが取れると思っていたら、湯沢邸の惨劇だ。警視庁も大慌てじゃねえのか。慟哭隊の件は解決したと大ぴらに宣言してこれだからな」
「だから、なんだ?」
「おや、まるで他人事のようじゃありませんか」
もう、どうでも良い事だ。
治安維持なんて概念は江戸の世で終わったのだから。
「だが、政府の動きはさすがに早いな。明日の湯沢高生所有の屋敷から宮ノ小路智晴殿の屋敷に急遽変更と来るんだから。そうまでして、祝いたいもんかね。死人が立て続けに出てるってのによ。さらには湯沢邸の事件も記事にするなと通達を出してきやがった。この事、黒谷の旦那はどう思う?」
「うるさい!!俺に聞くな」
秀介は勢いあまって声を荒げた。
「こりゃあ、すまねえ。虫の居所が悪かったようですな」
聡次郎は肩をすくめて、帽子を脱いだ。
「すまない。だが、今は本当にやめてくれ」
「いやね。鈴木様の事、何か分かったのか知りたくて」
「奴は…」
“あんたが思っているような人間ではなかった”と言う言葉は続かなかった。
別にぶちまけたっていいのだ。
それでも、この男ならその意味を追いかけていずれ実井に行き着くかもしれない。
忘れたがっている仲間の傷を抉る真似はやりたくない。
「金目の物があると思ったんだろう」
「そうですかい。じゃあ、今日はお暇しますよ。これ、良かったらどうぞ」
「新聞?」
「ああ、まだ出回ってない朝刊ですよ。落としたら承知しねえからそのおつもりで…」
茶目っ気のある笑みを浮かべて、夜道に消えていく聡次郎。
「あいつ、何がしたかったんだ?」
秀介は思わず鼻で笑う。だが、もう川に飛び込みたいという衝動は消えていた。
その変わりに新聞を大きく広げる。そこには確かに湯沢邸で起きた惨劇については一言も触れられてはいない。変わりに明治9年を祝う記念式典についての紹介記事が大きく出されていた。主賓は宮ノ小路智春。京都に赴いている大久保利通が不在の間、内務卿代理を仰せつかっている男である。
「鼻につく顔だな」
小さく出されている写真の宮ノ小路には似合っていない髭が印象的だった。そして、記事には式典の事以外にも宮ノ小路が髭を生やした理由も記されていた。
――“口元に刀傷がありましてね。それを隠すために”。
その文言がなぜかひどく引っかかった。
実井達を恐怖に陥れたのは四人だったはずだ。
藤里に鈴木、そして、湯沢。
黒谷は意識を失う前に実井が発した最後の一人について思いを馳せる。
――“みやの……と……る。
あれは宮ノ小路智晴の事ではないのか?
もはや、実井が絞り出すように発した途切れ途切れの文字はその名にしか聞こえない。
だとするなら、また死人が出る。
信二郎の思惑がどこにあるのかは不明だが、宮ノ小路を手にかけるとするなら、式典が最適だろう。不特定多数の人間が出入りする会場ならば、普段よりは守りが手薄になるはずだから。さらに直前で会場が変更になったのも隙が生まれやすい。
もしかしたら、湯沢を今日、仕留めたのはそのためもあるのかもしれない。
正直、宮ノ小路智晴に同情の余地はないと秀介は思う。
しかし、実の姉すら冷酷に殺すような男に成り下がった信二郎の事だ。
きっと、目についた人間は血祭りにあげるだろう。
そんな事は絶対にさせてはならないのだ。
例え、平和には程遠いこの世であっても…。
「嘆く時間は終わりだ」
秀介は決意をもって立ち上がった。
自分が生み出した怪物と対峙するために。
そうして、今度は明確な意志を秘めて、庁舎へと足を進める。
明日のために、サーベルを手入れしなければならない。
そう思っていた矢先、薄暗いはずの庁舎の一角に明りが灯されているに気づいた。
それはわずかな光だ。
殆どの人間が寝静まっているとはいえ、仕事をしている人間はいる。
山野も杉山もおそらくたたき起こされて、すでに明日の式典会場に出向くはめになっているかもしれない。だが、なぜか異質に映るのだ。
好奇心に駆られて、秀介は庁舎の奥へと進んでいく。
暗闇に慣れているため、明りに乏しくても迷わずに済む。
壁越しに妙な振動が伝わってきた。
それは地下へと続いている。
ここは旧大名屋敷だ。かつて使われた地下牢や隠し部屋はある。
だが、すでに過去の異物のはずだ。
ならば、どうして物音がするのか。
秀介は物は試しにと壁を鳴らすと案の定、地下へと続く階段が出現した。
正直、進むか迷った。
だが、何かを打ち鳴らす音を前にして、その正体を知りたい気持ちの方が大きくなる。
秀介は大きく息を吸い、階段を静かに降りていく。
そこには一つ戸が静かに出迎えてくれる。
そして、妙な音は大きくなった。
ゆっくりと戸に近づき、真ん中に開いていた穴を覗き込んだ。
戸の向こうは小さな小部屋に続いていた。
そこはおそらく、江戸の頃に使われていた罪人に罪を吐かせる拷問部屋である。
だが、今は無用の長物のはずだ。
しかし、目の前には確かに人がいた。
一人は鎖で体を巻き付かせて俯き、もう一人がその背を鞭打つ。
なんなんだこれは?
困惑の表情を浮かべる秀介。
「来たのか?」
覗き見を咎めるように秀介の傍に現れたのは藤田であった。




