第22話 鬼の話
冷たい風が、二人を遠い過去へといざなうような寂しさを含んでいた。
秀介は実井の得体の知れない空気感に息をのみ、なぜか声が震える。
「何をされたんだ?」
そして、絞り出すように問いかけた。
その悲しみに染まる瞳の意味を知りたくて。
「俺は当時の御庭番衆の棟梁に付き従って京の動向を窺っていた。そして、あの日は棟梁、父上の許しを得て、歳の近い里の仲間と京を探索していたんだ。いつもと変わらぬ日。そこに鬼が現れた」
「鬼?」
「怪談話をしたいわけじゃない。もちろん、比喩だ」
「ああ、分かるよ。それで?」
すべては油断した俺が悪い。あんな奴らに遅れを取るとは…。だが、動けなかったんだ。酔っぱらったあいつらに路地に連れ込まれて、襲われたんだ」
絞り出した実井の言葉を秀介が理解するのに数分かかったような気がした。
それほどにもたらされた言葉は秀介にとって非日常だった。
「あいつらが鬼でないとするならなんだと言うんだよ」
実井は堰を切ったように叫び、涙を流す。
そうして、秀介もすべてを悟ったのだ。
“路地に連れ込まれて襲われた”という言葉で思い出したのはかつて誰かが噂していた事件。あれはまだ、父上と母上と共に黒谷の屋敷で暮らしていた頃の事だ。
「夏さん、このご時世によく一人で歩けるわね。聞いた話じゃあ、最近は飢えた男どもが女を路地に連れ込むそうだよ」
「そんな輩がいるの?最悪だわ」
近くに住んでいた女性と母上の会話の意味を知ったのはもう少し大きくなってからだ。
なぜ、ずっと記憶の奥底に隠れていた他愛のない思い出が姿を現したのだろうか。
実井が襲われたと話す事実と関連などあるはずはないというのに。
遊女と遊ぶ事も出来ない男どもが慰めという身勝手な理由で女を襲うというのは昔からよく聞く。だが、実井も被害にあったというのか。
その事実の何もかもが現実離れしていて秀介の心も消化が追いつかない。
「情けないよ。何もできなかったとは!!」
「だが、十年前なら、お前は子供だったんだろう?大人の男を御すのは難しいんじゃないのか?」
何とも間抜けな返答をしたと秀介は自分で嫌になった。
「だから、なんだ。俺はお庭番衆だったんだぞ!!何も知らない子供ではなかった。訓練を受けてたと言うのに。体が動かなかったんだ。あの四人の嘗め回すような視線に固まって置物のようにやり過ごしていた。情けない。今も奴らの親玉とでも言いたげな口に傷のある男の不気味な笑い声が離れないんだ。離れないんだよ!!」
泣きじゃくる実井にどう言葉をかけて良いのか分からない。
そもそも、大里卿は内務卿の側近だ。そして、鈴木という男も評判の良い代言人だった。
そんな人達が子供相手に春を売らせたというのか・
それでも、作り話にしては胸が締め付けられる。
そして、それが事実なら、実井には彼らを殺す動機があるともいえる。
「誰かに話さなかったのか?」
「誰に話せるんだ?」
実井の問いに秀介は無理だなと思った。
襲われた側を非難する文化がこの国には根付いているのだ。
うら若き女性が被害者だったならば、人によっては同情を示すかもしれない。
だが、子供。それも男で、忍びの心得のある人間だったとするなら、さらに状況は悪化するかもしれない。閉鎖的な忍びという集団で生きていた実井なら下手をすれば追い出されていたかもしれない。そこまで考えて、秀介は実井の境遇に胸を痛める。
「何年も忘れていたんだ。それなのに、辰治の野郎が復讐なんて始めるから。くそっ!どんなに酒を飲んでもあの日を思い出しちまう」
ここ最近、様子がおかしかったのはそのためか。
「辰治とは?」
「一緒に襲われた友人だよ。あの日の数か月後に戦場で死んだと思ってたんだ。だが、あいつが持っている鬼子面が落ちていたからすぐにわかったよ」
「死体の傍に落ちていたあの面か?」
「そうだ。あれは俺が作ったんだ。首謀者だって言われてもしゃあねえよな」
己を皮肉るように鼻を鳴らす実井。
実井もその友人もあの地獄のような幕末でさらなる恐怖を味わったのだ。
その心を理解するのは秀介には無理だ。
それでも、大里も鈴木も殺されて当然なのではという思いにかられる。
「四人と言ったな?他にもいるのか?」
「ああ。後の二人は……」
すべての名を話そうとした矢先、実井はぐったりとその場に倒れたのであった。
その体から真っ赤な血の海があふれ出す。
「八定様の子にはあるまじき弱さだ。嘆かわしい限り…」
暗闇の中、現れたのは中年の男。
秀介はその人物が志穂への贈り物を買った櫛屋の主である事に気づく。
「……才三」
秀介の腕の中、実井はつぶやいた。
「その血に抗い、牙を削がれた御庭番衆に生きる意味などないのだよ!!そのまま、くたばるのがよろしかろう」
憎悪に満ちた瞳で秀介の腕の中にいる実井を一瞥した才三は事を終えたと言いたげに闇夜に消えていく。
「……まてっ!」
秀介は咄嗟に追いかけようとする。
だが、息も絶え絶えの実井に足首を掴まれ、押し留まった。
「話なら後で聞く」
だが、実井は聞く耳を持たず足首を掴む力を強めた。
「もう…いい」
「何が良いんだ?」
「おおっさわ……せ。みやの……うっ!」
実井はそこまで言って、今度こそ意識を失ったのであった。
温かい実井を抱きかかえながら、秀介は今まさにその口から飛び出した響きに背筋を凍らせた。
今、湯沢高生と言ったのか?
その名をここ数日何度も聞いた。
明治を代表する資産家。
そして、冬乃の結婚相手として…。




