岩土と夢幻の侵蝕1-2
アーガンが道場へ戻ってきた。「ただいま! ちょっと遅くなってごめん!」しかし―― 道場の外はやけに静かで、みんな中に集まって何かをしている様子だった。時間は少しさかのぼる。アーガンが慌ただしく出て行ったあの午後―― その時、ビンチェンとチーランは道場で将棋を指していた。「……チェックメイト」ビンチェンが静かに告げる。「はぁ!? そんなのアリ!? 不公平なんだけど!」チーランが思わず声を上げる。ビンチェンは淡々と駒を整えながら言う。「正々堂々勝ったけど? どこが不公平?」「くぅ……!」納得いかないチーランはすぐにチーディの腕を引っ張った。「ちょっと!」「ん? 何?」「次は兄さんがやって! 私まだ納得してない!」その時、ビンチェンがぽつりと冗談めかして言った。「へぇ……チーランって、あの人の前だけじゃなくて、お兄さんにも甘える一面あるんだ」「何それ!? 今なんて言ったの!?」チーランが顔を真っ赤にして怒鳴る。「別に? 何も言ってないけど」ビンチェンは涼しい顔。チーランはムッとして、今度はライトの方を向いた。「兄さんが負けたら……次はライトだからね」突然巻き込まれたライトは目を丸くする。「え!? なんで!? おかしくない!?」「断る気?」チーランが鋭い目で睨む。ライトは一瞬で青ざめた。「い、いえ……断れません……ジェンシャン助けて……」ジェンシャンは肩をすくめる。「うーん……今回は助けられないな、ライト」道場には笑い声と、どこか平和な空気が広がっていた。ライトは、大きな荷物をまとめているジェンシャンを見て目を丸くした。「ちょ、ちょっと待って。そんな大荷物でどこ行くの?」ジェンシャンは手を止めずに答える。「別の都市に出張だよ。しばらくは戻らないかも。……あ、先に師父に挨拶してくるね」そう言って部屋の扉をノックし、静かに開けた。「師父。少しの間、離れることになりました。これまでお世話になりました。本当に感謝しています」師父はじっと彼を見つめる。「……どこへ行く?」「別の都市での仕事です。では、そろそろ」踵を返しかけたその時―― 「待ちなさい」師父の声が、わずかに低くなる。「……君は、本当に“元素継承者”ではないのか?」空気が一瞬で張りつめた。部屋の中が、しん、と静まり返る。ジェンシャンは足を止め、ゆっくりと振り返った。そして、いつもの柔らかな笑みを浮かべる。「僕はただの普通の人間ですよ? どうしたんですか、急に」その笑顔の奥を、師父は探るように見つめるが――やがて静かに目を伏せた。「……そうか。ならば、道中気をつけなさい」「はい」ジェンシャンは軽く頭を下げ、部屋を後にした。外に出ると、みんなはまだ真剣に将棋に夢中になっている。「じゃあ、行ってくるね」誰も顔を上げない。駒の音だけが静かに響く中、ライトだけが振り向いた。「うん、バイバイ、ジェンシャン。気をつけてね」ジェンシャンは小さく手を振り、背を向けた。夕暮れの光が、彼の背中を長く伸ばしていた。「あー負けた」チーディはまったく気にした様子もなく肩をすくめた。「ライト、次はお前だ」チーランがにっこりと微笑む。その笑顔が、なぜか一番怖い。「えっ、やだやだやだやだやだーっ!!」ライトは両手を振って全力拒否。「今日、ビンチェンに一回も勝てない人は帰れないからね」「ちょ、ちょっと待って!? 俺、もう何回も勝ってるよね? 少し休ませてくれてもよくない!?」ビンチェンは静かに首を横に振る。「ダメ」一刀両断。そこへ―― 「ってことは……午後からずっとやってるのか?」戻ってきたアーガンが呆れた顔で盤面を見下ろす。「そうだよー! 誰もビンチェンに勝てないから、みんな脳みそフル回転でヘトヘトなんだよ!」ライトが半泣きで訴える。ビンチェンは淡々と駒を整えながら言う。「勝てないのが悪い」「それは……なんて言えばいいのか分からないな」アーガンは苦笑した。「アーガン来たなら助けてくれよ! 妹が鬼なんだって!」チーディが助けを求める。しかしアーガンは大きく伸びをして、「うーん……俺は先に師父に挨拶してくるかな。帰ってきたのにまだ顔出してないし。じゃ、みんな頑張れ〜」と、あっさり離脱。「ええええええええええっ!?」その場にいた全員が一斉に崩れ落ちた。ビンチェンだけが静かに駒を持ち上げる。「……次、ライト」「いやああああああああああああ!!」道場に、ライトの悲鳴が響き渡った。「師匠、ただいま戻りました」アーガンが元気よく声をかける。「戻ったか。どうだ、聖剣は手に入れられたのか? 旅はどうだった」師匠は静かに問いかけた。「もちろん! それにですね、街には美味しいものがいっぱいあって…… 最高でした!」「……いや、今は食べ物の話を聞いているわけではないのだが」「す、すみません。さっき食べ過ぎちゃって……今の街、本当に美味しい店が多くてですね……」「…………」一瞬、空気がぴたりと止まる。重たい沈黙。「はは、ごめんなさい師匠。でも一つ聞きたいことがあって」アーガンは少しだけ真面目な表情になった。「どうして俺たちは“忍者”なんですか? 忍者って何なんでしょう。その言葉には、どんな意味があるんですか? 何か特別な理由があるんですか?」師父はすぐには答えなかった。しばらく目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。そして――静かに口を開こうとした。地面に落ちていた小さな石を一つ、師父は静かに拾い上げた。そして、それを闇の中へ放り投げる。石がどこに落ちたのか―― 誰も見ることはできなかった。師匠は淡々と言う。「今の石、見えたか?」「……いいえ。」「だが、確かに存在している。」一拍、静寂。「忍者とは――あの石のようなものだ。」アーガンは眉をひそめる。師匠は続ける。「忍者は表に立つ者ではない。称えられる者でもない。歴史に名を刻まれる者でもない。」「忍者とは、誰も気づかぬうちに危険を闇の中で食い止める者だ。」師父は遠くの村を見つめる。「お前たちが眠っているとき、誰かが巡回している。城壁が崩れないのは、誰かが修繕しているからだ。世界が滅びないのは、誰にも見えない場所で、必死に支えている者がいるからだ。」やがて、師匠はアーガンへ視線を戻す。「だから私は、その者たちを“忍者”と名付けた。」「忍とは―― 孤独に耐えること。誤解に耐えること。誰にも理解されぬ重さに耐えること。」「者とは―― それを引き受ける者。」その声は、わずかに低くなる。「忍者とは、黙して尽くす力だ。目に見えぬ守り。どんな場所にも、静かに在る存在。」「感謝されることはないかもしれない。だが――お前がいるからこそ、世界は今日も回り続けているのだ。」アーガンは静かにうつむいた。師匠は、最後にこう言った。「本当の忍者は、見られるために在るのではない。他者が安心して光の中で生きられるようにするために在る(ある)のだ。」そして、わずかに目を細める。「戦えぬ者を、己の力の限り守り抜く。それが忍者の役目だ。」アーガンは顔を上げた。「……じゃあ、どうして俺たちが選ばれたんですか?」師匠はしばらく沈黙し、やがて答える。「お前たちの元素の力はな、幼いころはまるで痕跡がなかった。普通の子どもと何も変わらなかった。」「だが――私は感じていた。」その声は確信に満ちていた。「お前たちの中に眠る可能性を。測ることのできぬ力を。」「潜在する強さは、時に自分自身ですら気づかぬものだ。」師匠はゆっくりと続ける。「選ばれたのではない。お前たちは――その力に応えられる器だったのだ。」「そうですか……俺はあまり、そうは思いませんけどね。」アーガンは照れくさそうに笑った。師匠はその表情を見逃さない。「何か、困っているのか?」「いえ、大丈夫です。自分で解決できると思います。心配しないでください。……それより、師匠、肩を揉みましょうか?」「……急にどうした。」そのとき、アーガンはふと机の上の書物に目をやる。「それ、何を調べているんですか?」「記憶の元素についてだ。」「記憶……?」師匠は静かにうなずく。「以前は、すでに消えたものだと思っていた。だが最近――どうも、再び気配を感じるのだ。」「再び……?」「妙な出来事が続いている。偶然とは思えぬほどにな。」アーガンは腕を組み、少し考え込む。「だからここ数日、ずっと部屋にこもっていたんですね。」「ああ。」「チーディたちが“師匠は忙しいから邪魔するな”って言ってましたよ。」師匠は小さく笑う。「……そうか。」そして、ふと視線を落とした。「それに、ライトの様子も気になる。」アーガンは顔を上げる。「やっぱりですか?俺に対して……どこかよそよそしいというか、まるで初対面みたいな感じがして。」師匠の目がわずかに細まる。「お前も、そう感じたか。」「はい。でも……まあ、気のせいかもしれませんよね。久しぶりですし、ただ慣れてないだけかもしれません。」アーガンはそう言って笑ったが、その胸の奥に残る小さな違和感は、消えずに揺れていた。「お前のように、こんな老人と気軽に話せるのはお前くらいだな。」師匠はふっと笑った。「何言ってるんですか、師匠は全然老けてませんよ。」「……そのうち、私はいなくなるだろうな。」その一言に、アーガンの動きが止まる。「師匠、縁起でもないこと言わないでくださいよ。」「はは、冗談だ。気にするな。」しかしその笑みの奥には、どこか影があった。
――場面は変わる。昼下がりの街の片隅。「飲め……飲め……もっとだ……」あの酒に溺れていた男が、路地裏でふらついている。その背後から、ゆっくりと―― 黒い霧が近づいていた。男は気づかない。次の瞬間、その黒い霧は一気に男の体内へと流れ込む。「……ッ!?」男の身体がびくりと震え、次第にその全身から黒い霧がにじみ出していく。「はは……ははは……」低く、歪んだ笑い。黒い霧は街へと広がっていく。通りを歩いていた人々が、霧に触れた瞬間―― バタリ。一人、また一人と倒れていく。意識を失い、深い眠りへと落ちていく市民たち。黒い霧は、静かに、だが確実に街全体へと拡散していった。翌朝―― 「おはよう、みんな。」「ジェンシャンがいないと、街の危険をすぐ把握できないな。」チーディが腕を組みながら言う。「今日は大丈夫だと思う。」静かに答えたのはビンチェン。「どうして?」「今日はテレビの生中継がない。異常があれば必ず報道されるはずだ。」その時―― 「じゃあ俺は下に行って美味いもん買ってくるわ!」アーガンがひょこっと顔を出す。「待って、ついでにテイクアウトお願い!」「はーい!」元気よく手を振り、アーガンは街へ向かった。「さて、俺たちは何する?」ビンチェンがぽつりと呟く。「じゃあ……将棋……」と言いかけた瞬間、「やめろ。」チーディが即答する。「ライトの訓練でも見に行こうぜ。」「それいいね。」――その頃、街では。「ん? なんか変だな……」アーガンは足を止めた。人通りがない。店も閉まっている。風もないのに、空気が重い。「……この霧、なんだ?」薄く黒い霧が、ゆっくりと街を覆っている。「なんか……眠……い……」視界が揺れる。膝が崩れ落ちる。アーガンはそのまま地面に倒れ、意識を失った。――どれほど時間が経ったのか。「……ん……?」目を開けると、そこは闇。四方八方、何も見えない。「どこだここ……?」その時、どこからともなく声が響いた。『ようこそ、夢の楽園へ。』「夢?」『そう。ここでは、君が望むことは何でも叶う。できないことなどない。あるのは、君が“想像できるかどうか”だけ。』アーガンは眉をひそめる。「……この声、楽園そのものが喋ってるのか?」闇の中で、声だけが静かに笑った。『考えるのはやめて、さあ中へおいで。ここでは願いを叶えてあげるよ。夢の中なら、何でも手に入る。』甘く、優しい声が闇の中から響く。「本当か? じゃあ……食べきれないほどの美味いもんをくれ!」次の瞬間―― 目の前に、山のような料理が現れた。焼き立ての肉。湯気の立つラーメン。香ばしい揚げ物。甘い菓子。「うわああああ! 最高じゃねぇか!!」アーガンは目を輝かせ、迷いなく飛びつく。「うめぇ……! うめぇ……!」幸せそのものの表情で頬張る。その時―― ふと視界の端に、見覚えのある男が映った。昨日、酒に溺れていたあの男だ。だが今は違う。顔いっぱいに笑みを浮かべ、温かな光に包まれながら、何かを手にして幸せそうに笑っている。「……あの人も、ここに?」アーガンは一瞬だけ視線を向ける。けれど―― 「まあ、いっか。」再び料理にかぶりつく。「夢最高だな!」食べて、食べて、食べ続ける。けれど胸の奥に、ほんの小さな違和感が生まれる。(……あれ?)何か、大事なことを忘れている気がする。だが、それを思い出そうとする前に―― 甘い声がまた囁いた。『考えなくていい。ここでは、君は幸せでいればいいんだ。』アーガンの意識は、再び美食の海へと沈んでいった。道場にて―― 「遅いな……あいつ、何してるんだ?」チーディが腕を組む。「だよね、お兄ちゃん。私もうお腹すいちゃったよ。」チーランがため息をつく。「ビンチェン、どうする? 探しに行くか?」「行ってみてもいいだろう。」「みんなちょっと待って、俺忘れ物した! 先行ってて!」ライトが慌てて戻る。「分かった、ゆっくり来いよ。」ビンチェン、チーディ、チーランはゆっくりと街へ向かった。――だが。街は、異様な静けさに包まれていた。「……おかしい。」ビンチェンが足を止める。「誰もいない。」「この霧……なんだこれ?」チーディが手を振る。白くもなく、黒くもない。重く、まとわりつくような霧。「……ね、ねむい……」チーランがふらつく。「妹!? おい、しっかりしろ!」チーランはそのまま崩れ落ちた。「……眠らされている。」ビンチェンが静かに言う。「これは元素だ。」「どうして分かる?」「風で散らない。普通の霧なら一瞬で消える。これは誰かの体に寄生して、そこから拡散している。」




